二話
匂い。知らない匂い。人の、温かな匂い。
「……?」
目を開けると、美しい男性の顔が眼前にあった。
「あ、気が付いたかい?」
ふわりと優しげな視線が降り注ぐ。俺は慌てて目を逸らし、上半身を起こした。どうやら電車の中で倒れてしまったようだ。
横になっていた座席から足を下ろし、普通に腰を掛ける。まだ頭が変な感じだった。すると、横にいる彼が俺を制し再び横にならせた。
「無理しないで。あ、そろそろだね」
もうすぐ電車が学校の最寄り駅に到着するようだ。俺は「すみません」と言って目を瞑った。まだ本調子ではなかった。近頃、本当に調子が悪い。異常なほどに。
最寄り駅に到着すると、先輩は俺の肩を担ぎ支えてくれ、そのまま一緒に電車を降りた。ホームのベンチに腰掛け外の空気を吸っていると、具合はだいぶ良くなった。
そのままぼんやりとしていると、どこかに行っていた先輩が再び戻ってきた。そして彼は、俺にペットボトルの水を差し出した。少し躊躇った後、俺は渋々その水を受け取った。キャップを捻り、ペットボトルに口をつける。思いの外、喉が渇いていた。一気に半分ほど飲み干す。体が生き返るような心地がした。
「あの……本当に、すみません。もう俺、大丈夫ですから」
隣に寄り添ってくれている彼にそう言うと、彼はまた、ふわりと優しく微笑んだ。とても綺麗な笑みだった。思わず頬が熱くなる。直視していられない。
「そう、良かった。そうだ。後ろ、乗る?」
「え?」
何を言っているのか理解できず、きょとんとする。
「僕、駅に自転車置いてるんだ。良かったら学校まで乗せてくよ」
「え、でも……」
「二人乗りは禁止だけどね。今は細かいことは気にしない気にしない。入学式まであと少ししかないし」
ホームの時計を見ると、本当に遅刻ギリギリの時間だった。
「……すみません、お願いします」
「よし、行こうか」
先輩に連れられ、俺は無事学校に時間までに到着した。先輩に感謝してもしつくせなかった。
別れ際、俺は先輩に深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。あの、そういえばペットボトル代がまだ……」
「ああ、いいよ。大丈夫」
「いや、でもそんな訳には」
「はは。君、真面目なんだね。それより早くしないと、点呼始まっちゃうよ」
「……っ……す、すみません。このお礼、今度絶対します」
「うん。多分、また電車で会えるよ。……ね、あのさ……君……」
先輩の視線が不意に俺の背後を射抜き、俺は思わず振り返った。しかし、そこには何もなかった。あるのは、校舎の白い壁だ。
「……ごめん、やっぱりなんでもない。それじゃあ、またね」
__一体、なんだったのだろうか。
颯爽と去っていく先輩の後ろ姿をぼんやりと見送る。その後、俺は自分の教室に向かって歩き出した。
県立永江南高校。これから俺が三年間通うことになる学校の名前だ。
祖母の家のある町の閉鎖的な感じとはうって変わり、少し開けた町の端の海岸近くにある。校舎は大きく立派で、見晴らしがよく景色も良い。陰鬱な気分が、少しだけ和らいでくるような気がした。あくまで、少しだけ。
自分の教室のある四階に到着する。一年一組と書かれた看板がぶら下がった教室にたどり着き、教室内を窓から覗き込むと、教室内はたくさんの生徒で埋めつくされていて、驚く程活気に溢れ賑わっていた。心臓がドクドクと激しく鼓動する。
落ち着け。ここには俺のことを知っている人は誰もいない。
恐る恐る足を踏み入れる。すると、近くで談笑していた何人かのクラスメイトたちが一斉にこちらに視線を向けてきた。踵を返したくなったのを、無理矢理堪える。
俯き気味になりながら、俺は黒板の前に掲示されている座席表を確認しに行った。席は、右側の列の前から二番目だった。
自分の席に座ると、やはり、無性に周囲の視線が気になった。自分は見かけない顔なのだろう。物珍しそうな顔でこちらを見てくる人がいた。
どうにも人の視線は苦手だ。中学の時の事を思い出し、不安が募っていく。
大丈夫。また、やり直せばいい。もう二度と、失敗したりしない。絶対に、知られないようにすればいい。
強く決心していた、その時だった。
突然誰かが、右肩に触れてきた。そしてその瞬間、肩に電流が走るような感覚がした。予期せぬ痛みに驚愕し、思わず飛び上がる。
「痛っ」
と、低い声が、同時に斜め後ろから聞こえてきた。振り返ると、そこには背が異様に高くて大柄な、鋭い目をしたいかつい男がいた。彼は自身の左手を眺めた後、こちらを無言で睨むような目で見下ろしてきた。
途端に動機がした。怯えながら、何事かと彼を見返す。すると、彼は再び俺の肩に手を伸ばした。
殴られるのではないか、と思わず反射的に身構えるも、その手は右肩を触った後、すぐに離れた。
「……肩」
「……え?」
「肩、虫ついてた」
彼はボソリとぶっきらぼうに言った。
「む、虫……?」
「そんだけ」
「あ……あり、がとう」
「別に」
彼は素っ気なくそう言うと、俺の右隣の席に腰掛けた。そのまま、横目でじっとこちらを見てくる。
慌てて目を逸らすも、未だ彼の視線の感覚が消えない。まだ、見られているような気がする。俺は自意識過剰なのだろうか。
俯き、無言で机の模様を見つめる。
それにしても__さっきの痛みは一体、なんだったのだろう。
何気なく右肩に手をやり、あれ、と思った。なんだか、異様に身体が軽くなっている__。
「はい、皆席について__」
担任の先生が教室にやって来た。三十代くらいの女の先生だ。
「えー、私は担任の松崎です。どうぞ、これから一年よろしくお願いします!」
先生の挨拶の後、ノリの良いクラスメイトが囃し立て、笑い声が教室内に湧き上がる。和やかな空気が流れだしたその時、乱暴に教室の後ろの戸が開いた。一気に教室内が静まり返る。
後ろを振り返ると、気怠そうな顔をした不機嫌そうな細身のスラリとした男子生徒が教室内に入ってくるのが見えた。だらりと着崩した制服に、真っ黒な長い髪が印象的だった。明らかに、他の生徒とは何かが違う。
「俺の席どこ」
彼は先生の前に立ちはだかると、無愛想にそう言った。
「君、その前にまず言うべきことがありますよ」
緊張した面持ちで、先生は静かに返した。
「は?」
すると、その男子はいきなり教卓を蹴り飛ばした。数人の女子が小さく悲鳴を上げる。
「どこだっつってんだよ」
掴みかからん勢いで、彼は吐き捨てるように言った。
「止めろ、神前」
突然、俺の右隣の席の男子が口を開いた。
「……はは、天崎じゃん」
神前、と呼ばれた彼は、俺の右隣の席の彼を見、口元だけで笑った。
「神前……神前秋くん、で良いのかしら。……そこの席です」
松崎先生が教室の左後ろを手で指すと、彼はその席に物音を立て乱暴に座った。
いつの間にか、背中に冷や汗が伝っていた。何故、あんなに粗野で乱暴な振る舞いが出来るのだろう。これから先が余計不安になった。取りあえず、関わらないようにする他ない。
隣の席の天崎という男子が、小さくため息を吐いたのが聞こえた。この右隣の人にも近づかないようにしよう、と俺は思った。
その後は何事もなく入学式が終わり、下校前に便所に立ち寄った。
なんだか、また具合が悪くなっている気がする。鏡を見ると、やはり顔色があまり優れていなかった。首の痕はいつの間にか消えていた。
「……?」
手を洗っていると、一瞬、何かが鏡に映ったような気がした。まるで、人影のような。気のせいだろうか。
何度周りを見渡しても、誰もいなかった。