旅人と旅猫の物語
そこはもう路地と言うよりも、建物と建物のすき間だった。ここには冷たい風も、うるさい人間の子どもたちも入って来れないから、『彼』にとっては居心地のいい寝床だった。『彼』はコケの生えた地面に横たわって、目を閉じ、じっと待っていた。こうして喉を鳴らしながら、おとなしく待っていれば、それはきっとまたやって来る。何かと言えば、ぴんと尻尾を立てて塀の上を歩いたり、バッタやトカゲを捕まえたり、屋根のてっぺんにやって来る小鳥を待ち伏せたり、日向ぼっこをしてまどろんだりする、とても素敵な毎日のことだ。
今の『彼』は元気がない。何日か前、馬車に右の前脚を踏まれたせいだ。痛くて痛くてたまらないのに、元気なんて出るはずもない。そして、元気がなければ、なんにもやる気が出ない。大好きな日向ぼっこさえめんどくさい。ただ困ったことに、はらぺこはいつも元気だ。ほとんど毎日、ずっと一緒にいる相棒なんだから、『彼』に元気がないときは一緒に元気をなくしてくれればいいのに、はらぺこはそうはならない。まったく薄情なやつだ。仕方ないので、『彼』は痛いのをがまんして身体を起こし、ひょこひょこと三本の脚だけで路地を抜けだした。適当な水たまりを見付けて水でも飲めば、はらぺこもちょっとは大人しくなるだろう。
ところが路地を出てすぐに、『彼』は人間と出くわした。大きな鞄をもって、灰色の鍔広帽子を被り、古ぼけた灰色のマントを着た青年だった。青年は『彼』を見てぎょっと目を見開き、マントを開いて手を伸ばしてきた。
『彼』はムッとした。そんな風にじろじろ見るのは、喧嘩する気でまんまんなやつだけだ。もちろん、この青年は人間なのだから、猫のマナーなど知るはずもないのは『彼』もわかっている。だから一言「ニャー」と鳴いて、『彼』が愉快な気分じゃないことを教えてやった。人間と言う連中は不便なもので、いちいち声に出して鳴かないと、猫の考えている事が伝わらないのだ。もっとも、声に出しても伝わらないことが、ほとんどだったりもするのだが。
「大丈夫?」青年は、口を開いて彼に話しかけてきた。青年の言葉はきらきら光りながら口元をこぼれ、『彼』の前に落っこちて、弾けて消えた。『彼』はびっくりして、消えた言葉を探した。きょろきょろあたりを見回して、ようやくそれが、自分の胸の中にあるとわかった。
「ひどい怪我だね」青年は『彼』の歪んだ右脚を眺め、眉をひそめた。「君さえよければ、お医者さんのところまで、連れて行ってあげるよ?」
青年の言葉はきらきらころころ落ちて、地面で弾けては『彼』の胸の中に、どんどん飛び込んで行った。よくわからないことだが、『彼』は青年にぜんぶ任せる気になって、「ニャー」と答えた。青年は、ひとつ笑みをくれてから『彼』を抱き上げた。青年の腕の中は、お日様で温められた地面のように暖かくて、『彼』は自分がすっかり冷え切っていたことに気付いた。
しかし、『彼』はひどく後悔することになった。青年に連れてこられた家には老人がいて、「私は人間の医者なんだがな」とぶつぶつこぼしながら、青年から『彼』を受け取った。そして『彼』を台の上に押さえ付け、痛めた右脚をぐいぐいと引っ張ったりひねったりした。痛さに『彼』が叫んでも、ぜんぜんおかまいなしだ。しまいには棒やら板っきれで右脚をがっちり固め、包帯でぐるぐる巻きにした。まったく、なんだって人間なんか信用してしまったのだろう!
ところが、医者が一度、奥へ引っ込んでから温めたミルクが入った皿を持って戻ってくると、そんな後悔など吹き飛んでしまった。ミルクをたらふく飲んで、はらぺこをやっつけた『彼』を、椅子に座った青年が膝に乗せて優しく背中を撫で始めた。
医者は、お茶が入ったカップも二つ持って来た。老いた医者はカップの一つを青年に渡し、膝の上でごろごろ喉を鳴らす『彼』を覗き込んだ。「まだ子猫だな。お前さんの飼い猫か?」
「野良です」と、青年は微笑んだ。「そこの路地で拾いました」
「物好きなやつだな」
そう言って、医者は手を差し出した。青年は彼を撫でる手を止め、マントの下から何かを掴み出し、医者の手の平の上に銀貨を三枚、ちりちりと落とした。医者は銀貨を数えて、にんまり笑った。
「何か名前を考えてやらないといけないなあ」青年は難しい顔をしてつぶやいた。
「それは、どこか他所でゆっくり考えてくれ」医者は苦笑いを浮かべた。
青年は頷き、お茶を飲み干してからカップを医者に返して、『彼』を抱いたまま立ち上がった。「お世話になりました、先生。それと、美味しいお茶をありがとう」
青年の「ありがとう」は、やっぱりきらきら光ってはじけた。しかし、それは『彼』ではなく、老人の胸に吸い込まれた。
医者はうなずいた。「二週間もすれば、骨はすっかりくっつくだろうが、それまでは包帯を外さないように、よく見てやってくれ」
「わかりました」青年は笑顔をひとつ残して病院を後にした。
病院の外は夕暮れで、風が冷たく吹いていた。青年は『彼』をマントの下に包んで村の小道を歩き出した。それからしばらく経って、青年はふと足を止め、言った。「サバトラに白の毛並みだから、トラでいいかな?」
『彼』はマントのすき間から顔を出した。「トラでいいかな?」と言う言葉は、きらきら光りながら地面で弾け、また『彼』の胸の中に飛び込んだ。『彼』は「ニャー」と言った。好きにしろ、と言う意味だ。すると青年は、嬉しそうに微笑んだ。「じゃあ、君はトラだ」
こうして、『彼』はトラになった。
トラが見る限り、青年は旅人のようだった。旅人とは住む家がなく、あちこちを歩いて回るちょっと変わった人間だ。野良猫も住む家がないから、この青年はきっと野良人間なのだ。そして野良人間を旅人と言うのなら、トラは旅猫だった。
いくつかの町を巡って、トラの怪我がすっかり治ると、彼は抱っこされるよりも、青年の肩の上に乗ることを選んだ。マントの中は暖かかったが、外が見えないのはいただけなかった。その点、肩の上なら辺りをぐるりと見渡せるし、何より猫は高い場所が好きなのだ。
青年は時々、おかしなことをした。街中の道端や広場のすみっこに腰を降ろし、行きかう人間たちを相手にお話をするのだ。トラは、青年がそれを終わるまで、地べたや屋根の上に寝そべって、その様子を見守った。
青年のお話は、本当にあったことだったり、作り話だったり、楽しかったり、怖かったり、おかしかったり、悲しかったり、実にいろいろだった。ただ、青年の口からこぼれるお話は、どれもがきらきら輝いていて、地面ではじける度に、お話を聞こうと足を止めた人たちの胸に吸い込まれた。人たちはにこにこ笑顔になったり、ぶるぶる震えたり、げらげら笑ったり、しくしく泣いたりしてから、青年が地面に置いた帽子へ、コインを投げ入れた。それは大抵、銅貨だったが、たまには銀貨のこともあった。青年は、そうやって集めた銅貨や銀貨で、自分が食べるパンや、トラが食べる魚を手に入れるのだ。しかし、トラに言わせれば、それはまったく無駄なことだった。何かを食べたいと思ったら、食べられるものを捕まえてくればよいのだ。最近は、ちょっとばかり涼しくなって、ネズミやトカゲやバッタの数もめっきり少なくなったが、それでも時々、はらぺこを忘れるくらいには、ごはんにありつける。
ある日、人間のやり方が、間違いだとはっきりわかるときが来た。青年はいつものように道端に座り込んで、きらきら光るお話を始めた。ところが、道行く人たちは足を止めることなく、そそくさと通り過ぎるばかり。はじけた青年の言葉は、カチンと当たってはね返り、決して彼らの胸に吸い込まれることはなかった。青年の帽子が空っぽの日が続き、とうとう貯えも尽きて、パンも魚も食べられない日がやって来た。
「まあ、こんな時もあるよ」と、青年は笑って言うが、彼のおなかはぐうぐう鳴りっぱなしだった。
それにしても、よくわからないのは、この街の人たちだ。青年のお話は、どれもきらきらきれいなのに、誰もちっとも受け取ろうとしない。その日もまた、青年は誰も耳を貸さないお話を始めたので、トラは退屈しのぎに地面を転がる言葉を追いかけ、捕まえようとした。
パチン。
トラが逃げる言葉を前足で押さえると、それはあっと言う間にはじけ、トラの胸に飛び込んだ。
パチン。
青年の前で、言葉を追いかけくるくる転がるトラを見て、子供たちが集まってきた。
パチン。
トラを眺める子供たちは、くすくす笑い出した。
パチン。
青年の言葉は、少しずつ子供たちの胸に染み込んだ。そうして彼らは、いつしかトラを眺めるのをやめて、青年の話に聴き入った。
パチン。
最後の言葉がはじけると、子供たちはわっと拍手をして、地面に置かれた青年の帽子に、いろんなものを詰め込んだ。きれいな小石や、半分だけのパンや、クッキーや、小さくて可愛らしい花が一輪に、テントウムシが一匹と、銅貨が一つ。
「みんな、ありがとう」青年は、きらきら光る言葉でお礼を言った。彼のありがとうはパチンとはじけて、子供たちとトラの胸に吸い込まれた。
青年は鞄の中に、子供たちがくれた宝物をしまって、帽子を被り歩き出した。トラは青年の肩に跳び乗り、子供たちは彼らを追い掛けた。青年は、きらきら光るお話を落としながら、どんどん歩いた。そうして、町外れまで来ると、彼は笑顔で子供たちに手を振った。子供たちは小さな手を振り返し、青年は彼らに背中を向けて歩き出した。
街を出た旅人と旅猫は、何もない道を歩き続けた。彼らの隣にいたはずの秋は、いつの間にか過ぎ去って、代わりに冬が追い掛けてきた。歩いても歩いても道は終わらず、夜になっても次の街が見えてこないから、二人は少し道を外れ、大きな木の根元に枯れ草を敷き詰めて座り込んだ。青年は鞄を開けると、子供たちがくれた半分だけのパンを食べ、トラにはクッキーをくれた。はらぺこが騒いでいたが、いつものことなので、トラは相棒を無視して青年のマントに包まり、眠りに落ちた。
朝になると、真っ白な霜が降りた、青年はぶるっと身を震わせて立ち上がり、トラは寒さに立ち向かって肩に跳び乗った。二人は朝日と霜で銀色に光る道を歩き出した。
彼らは何日も歩き続けた。ネズミもバッタもトカゲもとっくに冬ごもりしていたから、トラのはらぺこはいつにもまして、大騒ぎしていた。そして、たぶん、青年のはらぺこも同じだった。歩き疲れた青年が、道端の石に腰掛けて休んでいる間に、トラは食べ物を探しに出掛けた。しばらくして、小鳥を一羽捕まえた彼は、自分で食べ物を獲れない青年に、持っていってやった。青年は、ありがとうときらきらの言葉を落としたが、すぐにこう言った。
「すごいじゃないか。君は狩の才能があるんだね」
きらきらの言葉で褒められたトラは、ちょっとだけ得意になった。
「でも、それは君が食べるんだ。僕はもう、君の親切が嬉しくて、おなかいっぱいになってしまったからね」
青年のお話を、いくつも聞いてきたトラには、その言葉が半分本当で、半分本当ではないことが、すぐにわかった。彼のはらぺこは、きっとやかましいくらいに騒いでいるはずだ。それでも青年は、トラの獲物に手を付けようとしなかった。仕方ないので、トラはバリバリと小鳥を食べて、自分のはらぺこを黙らせた。
その日、青年は一歩も歩くこと無く眠りについた。翌朝、トラが目を覚ましても、青年は起き上がらなかった。トラは、霜が降りた青年の頬に鼻を押し付けた。青年は動かなかった。
トラは、青年のかたわらに座り込んで、首をひねって背中の大きなサバトラ模様を、ぺろぺろなめ始めた。ひとしきり毛繕いを終えても、青年は眠ったままだった。
もう、待っていてもしようがないので、彼はあきらめて二本足で立ち上がった。背中の模様は灰色のマントになって、頭の模様は灰色の鍔広帽子になった。それから、青年の宝物がいっぱいに詰まった鞄を手に取り、その重さにちょっとだけたじろいだ。
トラは、その場を立ち去ろうとして、ふと思い出し、青年のそばにひざまずいた。彼は「ニャー」と言おうとしたが、口から出て来たのは、きらきら光る「ありがとう」だった。言葉ははじけて、ぴくりとも動かない青年の胸に吸い込まれた。
トラは再び立ち上がり、銀色に光る道を歩きながら考えた。次の街にたどり着いたら、何かお話をしよう。僕の胸の中には、青年のお話が、たっぷりつまっているんだから、きっと何を話そうかなんて、困ることはないはずだ。それに、たった今、新しいお話もできた。半分本当で、半分本当じゃないお話。ある旅人と、旅猫の物語。
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