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藤花小話

作者: 風元




 星明りがまばたく新月の夜。


 藤棚の下に佇む少女が、金色の缶から透明な液体をこぼしていた。

 軽い水音が響く度に、甘い香りが夜に漂う。


『……藤さんはお酒が好きやからね』


 それは生花の師範をしていた、彼女の祖父の口癖だった。


 藤の枝は水揚げがとても難しい。

 そのため、祖父は切り口を叩き砕き、一時間ほど酒に浸してから活けていた。

 その工夫をして初めて、藤花は切り花で鑑賞できる。


 花の季節になると、玄関や床の間はもちろん、階段下やお手洗いまで、家中が薄紫の花と香りに染まった。

 少女はそれが好きだった。


 藤を活けられることが自慢だった祖父ももういない。

 あれはまだ、みんなが幸せだった頃の風景だと、少女は切なく目を伏せた。


 毎年、見事な花を咲かせていたこの藤も、枝を断たれ無惨な姿になってしまった。

 まるで泣き疲れてうなだれているようだと、少女は思う。


「傷跡が残っちゃうのは辛いよね」


 少しでも元気になればと、親の目を盗んで空き缶に入れて持ってきた日本酒を藤の根元に注ぐ。


「寂しいのは嫌だよね」


 軽くなった缶から片手を外し、小さな手で藤の幹をなでる。


「……なんで、だろうね」


 小さい音を立てて、日本酒の最後の一滴をこぼした、その時に。

 背後から光が射す。

 誰もいなかったはずの場所に、人の気配が現れた。


 







 ゆらり。


 薄紫の花影が揺れる。


 ひそかに静かに、女はわらった。









 日射しが強い。


 大型連休の合間、四月最後の水曜日。

 叩けば音がするような青空。


 退院を期に伸ばし始めた髪をかきあげ、京香は溜め息をついた。

 細い眉がひそめられ、イヤリングの石が陽光を弾く。


「ゴールデンウィークの後半戦。

 連休初日の明日も、今日と同じく五月晴れが期待できるでしょう」


 にぎやかな駅前に響く、街頭放送の声。


 まだ四月なのに、五月晴れは変だよ、アナウンサー。

 そもそも、五月晴れは旧暦五月のことで、梅雨の間の晴れを指すのに。

 ゴールデンウィークだって、大映の松山専務が作った映画宣伝のための造語だから、NHKでは使わない。

 いい加減な言葉使い、発言者の無知さ加減がよくわかる。


 京香は胸の内で毒を吐いたが、すぐに自分がその毒にあてられたような苦い顔をした。


 ひどい八つ当たりをしている。


 嫌な自分を切り捨てるように、オリーブ色のジャケットをひるがえし足早に歩き出した。 

 目的地は城址公園。

 お堀では睡蓮がほころび、石垣のツツジが燃えるような赤い花を咲かせている。

 今日のように晴れ上がった日には気温もあがり、道ゆく人の服も半袖が増えてきた。


 夏がくる。


 途中で冷たい飲み物を買おうと、自動販売機の前で立ち止まる。

 百円が一枚に十円が五枚、たかが六枚の硬貨を投入するのに時間をかけ慎重に行わなければならないことに、京香は唇をかんだ。


 もうすぐ、本格的な夏がくる。


 ゴトンと音をたてて、透明な容器に入った烏龍茶が落ちてきた。

 缶よりもペットボトルの方が凹凸と弾力があるため、彼女の手でも持ちやすい。

 

 掌が伝えるボトルの冷たさを楽しんだが、視線は右手から反らされていた。


 もっとも、ジャケットはフリーサイズの長袖で、袖が指先まで覆っているから、たとえ視線を向けても彼女が厭う傷跡は見えないのだが。

 右手を見ないのが、京香の癖になっていた。


 去年の今ごろは、この癖はなかった。

 最終学年の大学生らしく、京香は普通に就職活動をしていた。

 いくつか手ごたえがあり、二次試験を通り抜けた会社もあったというのに、全てが無駄に終わった。


 就職活動中に交通事故にあったために。


 彼女がいた場所に脇見運転の自動車が突っ込んできた。

 歩道を歩いていた京香には一片の落ち度もない、理不尽な事故だった。

 治療を終えても残る右腕の肩から指先まで走る闇夜の雷のような傷跡と指の麻痺。


 烏龍茶をショルダーバックにしまうと、彼女はまた歩き出した。


 秋まで病院で過ごしたため、去年の夏は外界からは隔離されていた。

 この腕で外を歩く夏は今年初めてとなる。


 城址公園には、お堀に掛かる学び橋を渡って入った。


 深い緑色が影を落す葉桜の桜並木の下をくぐり抜けると、歴史見聞館の前に出る。

 建物の入り口には『最後の空襲』のポスター。

 この街は第二次世界大戦に大規模な空襲を受けた歴史を持つ。


 二の丸御殿跡を突っ切って、御茶壺橋の上に立つと、薄紫色の花影が見えた。花の名所百選にも選ばれた巨大な藤棚だ。


 夏の気配を運ぶ風に、花房たちがゆらりと揺れる。









 ゆらりと、花房の下に気配が現れる。

 

 翡翠の被衣をひるがえし、女は藤の根元に立つ。


 「待ちわびた」


 ひそかに、静かに女はわらった。









 その藤棚の見事さに見物客も多い。

 

 人出のピークは五月の連休だが、暦の上では平日で四時近くなった今も、花客たちでにぎわっていた。


 藤の根元への立ち入りは木を痛めるので禁止されているが、張り出した藤棚の下、根を避ける場所には小さなベンチが並んでいる。


「きれいだねぇ」

 老人達がベンチに座り、ほっこりと藤を眺めている。


「この藤は植えられた時期が違うんだって」

「健太くんは藤に詳しいの?」

「ばあちゃんに聞いたんだよ。なんでも、一番古いのが推定二百年」

 中学の制服を着たカップルも一メートルにも達する花房を見上げている。


 同じように藤を見あげながら、背広姿の三人が立ち話をしていた。

「この藤も一時期は木の勢いが落ちましてね。それで専門家に頼んで、治療をしたのです。その人が枝を切ったりしましてね」

「枝を?」

「ええ。木の手術ですな。処置後の数年は寂しくなりましたが、今はここまで盛り返してきました」

 一番年長の男が地元の人間らしく、藤の花に詳しい。


 彼の解説に、ベビーカーを押した若い主婦がそっと聞き耳をたていた。


 桜見物のように、団体で来る者は少ない。

 一人から数人でふらりと訪れ、気のすむまで藤を見る。

 酒もはいらず、付き合いでもなく、各自が気ままに楽しむから、花を見守る人々の表情は一様に柔らかい。


 そんな人々の間を通り抜けて、京香は一番奥のベンチに座った。

 

 バックから烏龍茶と携帯電話を取り出して、ベンチの上に置く。帰りの電車に遅れないように携帯のタイマーをセットする。

 烏龍茶を一口飲んで、乾いた喉を湿らす。


 治療のためとはいえ、無惨に斬られた直後にも、京香は藤に会いに来た。

 その時の枝振りは痛々しく、花房も短く、枯れてしまうのではと不安に思ったのだが。


「命ってすごいなぁ」


 あの過去が嘘のように、鮮やかに咲き誇る。


 堂々と風にそよぐ薄紫の花影をずっと見ているうちに、ここでなら上着を脱いでもいいよ

うな気がしてきた。

 ジャケットの下は半袖だから、脱げば傷跡の大部分を露出することになる。


 ……それでも。


 隠し続けることに、疲れたのかもしれない。


 事故に遭う前も、日焼け避けのために長袖を着ていたのに、今は長袖であることが嫌でたまらない。

 脱がないのと、脱げないのは違う。長袖が脱げないだけで、自分はもう普通じゃないと感じてしまう。


 そんな自分に、その弱さに疲れていた。


 京香は烏龍茶のボトルを口にあてると、勢いよく飲み下す。

 大きく息を吐いくと、音をたてないように、ふわりと上着を脱いだ。





 




 ふわり。


 蔓をあしらった流水文様の袂が揺れる。


 薄紫の香りを女が操る。


 祈りを縦糸に、偶然を横糸に織り込んで。


 白い指がふじを織る。


 ひそかに、静かに。









 脱いだとたんに他者の視線が怖くなる。

 周りの人たちが右腕を指さし、気持ち悪いとささやくように感じる。

 そんなことはありえないと、頭では十分に理解しているのだが。


 視線が怖い。


 京香は左耳のイヤリングをはずし、右手の掌に握りこむ。


 イヤリングの石はアメジスト。

 大抵の宝石がそうであるように、この石にも神秘の伝説がある。

 京香が頼るのは、持ち主を邪眼から守る力があるという伝承だ。邪眼と、ジロジロ見られのは、厳密にいえば違うけれど、イワシの頭も信心からと購入した。


 京香は片手にイヤリングを握り、誰とも目が合わないように、視線は不自然なぐらい藤に固定していた。


 だから、気付くのが遅れた。目の前に立つ女の子の存在に。


 空き缶が投げ捨てられたような音に視線を動かすと、子供が視界に飛び込んできた。


「ここのお花、とっても綺麗だよね」


 おずおずと、幼い声が京香に話し掛けくる。


 よく言えばボブカット、悪く言えばおかっぱ頭の、小学生ぐらいの女の子。

 色白で、夜空のような瞳。

 この時期には少々季節外れの、翡翠色のマフラーを首に巻いていた。

 白いシャツと赤いロングスカートというスタイルが、ちょっと巫女さんっぽい。


 事故に遭う前だったら、素直にかわいらしいと思えたのだが。


「……そうだね」


 無視するのも大人気ないから最低限の返事はするが、正直なところ子供は苦手だ。

 お姉さんの腕はどうして怪獣なのと、病院で初対面の男の子に言われてから嫌いになった。


 しかし、女の子は答えてくれたことに安心し、子供特有の真っ直ぐな眼差しで京香に近づいてきた。


「お姉さんはだれ?」


「……市塔野京香だけど」


 視線に押され、ついフルネームを名乗ってしまう。


「しとうの、しとう……」


 江戸っ子には発音しにくい苗字を、子供が口の中で転がすように何度も繰り返す。


「あなたの名前は?」


 こちらが名乗ったのだから、相手の名も知りたい。


 女の子はちらりと藤を見て、「フジ」と蚊の鳴くような声で答えた。


 ……藤?


 この場所でその名前はあやしすぎる。

 しかも、こちらはフルネームなのに名前だけなんて。


 ただのからかいか。最悪、傷のことを何か言われるかもしれない。その前に三十六計を決め込もうと、京香は決めた。


 逃げようとバックに手を伸ばした京香に頓着せず、少女は思いも寄らない言葉を投げかけてきた。


「お姉ちゃんも寂しいんだよね」


「えっ?」


 京香の動きが止まる。


「あのね、お父さんは内緒にしなさいって言うんだけどね」


 フジはマフラーをとり、襟元のボタンを外す。


 ひとつ、ふたつ。


 京香の目に、女の子の首と胸元が飛び込んできた。


 これはっ。


 ひきつれ。チョコレート色に変色した肌。皮膚を這うムカデのような縫い跡。


 息を呑もうとして、耐える。傷を見られ、過剰な反応を返され嫌な思いをするのは、この子だって私と同じ。


「女の子が人前でボタンをほどいちゃダメだよ」


 できるだけ自然に見えるように祈りつつ、京香は手を伸ばしボタンを止めた。

 自分の視線をひどく意識する。ジロジロ見るのは論外だが、慌てて目をそらさしてもまた傷つく。


「ほら、これでいい」


 京香の不器用な指先では、本人がやるより時間が掛かったかもしれない。


 けれど、フジは満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう。あの、おとなりに座っていいですか?」


「どうぞ」


 フジは嬉しそうに京香の横に腰を降ろした。


 そのまま、二人で藤を見上げる。


 傷がある者同士のせいか、京香の心に少女に対する親近感がわいていた。

 戦友。同志。そんな感じ。

 同情でも哀れみでもない、立場を同じくする者だけが持つ、あたたかな思い。


 一つのベンチに寄りそうように座り、ならんで花房を眺める。


 京香のジャケットとフジのマフラーは、それぞれの膝の上にあった。


 言いたいことは山程あるような気がするのに、一つも言葉にならない。

 それでも、黙っていても伝わる何かがあった。

 もどかしいような、満ち足りたような、不思議な時間が流れを電子音が破った。


 携帯電話から聞こえるメロディ。


「それっ、なにっ?」


 フジは弾かれたように驚いた。


「え? ああ、『虹の彼方に』だよ」


 京香は苦笑を浮かべた。

 随分と古い曲で、自分も母親のレコードで知ったクチだから、今時の小学生が知らなくても無理はないか。


「虹の彼方に?」


 フジは携帯に耳を寄せる。


 ミュージカル映画、オズの魔法使いの挿入歌だ。

 女性ボーカルの声が、子守歌のような、応援歌のような、希望の曲を歌い上げる。


「そう。虹の向こうに」


 京香のお気に入りの歌だ。


 まるで欠食児童のように、フジは音楽をむさぼり聞いていたのだが、


「あたし、もう帰る」


 急にベンチから飛び降り、マフラーを首に巻いた。


「お姉ちゃん、色々とありがとう」


 咄嗟の行動についていけず、とにかく立ち上がろうとした時、ボタンをはめる為に置いたイヤリングが京香の指先に触った。


「これ、あげる!」


 意識する前に言葉が飛び出した。


 アメジストのイヤリングを、京香は少女に差し出す。


 なにか、彼女にしてあげたかった。

 生きるのが楽になる言葉とか、役に立つ自分の経験談とかを渡せたなら良かったのだけれど、自分には何もないから。

 がんばれという言葉さえも凶器になるのを知っているから、それさえ安易には言えないけれど。


「あ、片方だけだとあれだね。こっちも」


 慌てて右耳にあるのも取ろうとしたが、


「ううん。これだけでいい」フジは耳飾りを両手で受け取ると、星が瞬くように微笑んだ


「本当に、いろいろありがとう」


 小学生とは思えない行儀のよさで、少女は深々と頭を下げる。


 そして、後ろを振り返らずに走り出した瞬間、一陣の強い風が吹く。


 夜風が混ざったような突風に京香が目を閉じ開くと、少女の姿がすでになかった。


 京香はゆっくり深呼吸をすると、携帯のスイッチを切り、烏龍茶と上着をバックにしまい、立ち上がって歩き出す。


 学生服を着た少年が京香を見て驚いた表情を浮かべていたが、オーキッドのワンピースの裾をひるがえし立ち止まらずに進む。


 暮れなずむ太陽の光を、耳飾りの石が綺麗に弾いた。


 







 白い指がさいごの糸を綺麗に弾いた。


 初冬の月のなき夜と、初夏の日あふるる昼を紫の糸でつなげよう。


 此の糸は、いとしいとしの、藤の花。

 

 藤は不二にて、不時なりせば、黄昏時に逢うのは、誰そ彼?


 ひそかに静かに、女はわらう。









 ガールフレンドと藤棚に来ていた少年は、すれ違った京香の姿に驚いた。


「いまの人……」


「健太くん、失礼よ」


 つれの少女の固い声に、健太は小首を傾げた。


「失礼って、何が?」


「腕のこと。あんまり、じろじろ見ちゃだめだよ」


「腕? あの人の腕になんかあったのか?」


 きょとんと少年は目を見開く。


「えっ。気付かなかったの? じゃあ健太は何に驚いたの?」


 その答えに、少女があせる。


「これと同じ物をしていた。しかも、片方だけに」


 そう言って、健太が取り出したのは藍染めの茶巾袋に入った古ぼけたイヤリング。

 少年の手の中で、アメジストの石がひっそり光る。


「これって健太のおばあさんの? 新月の夜にもらったっていう。

 でも、こうしてみても普通のイヤリングよね」


「そうだな。でも、ばあちゃんは、これを紫藤しとうの精からもらったって大事にしていた」まだ元気だったころは、孫を相手によく昔語りをしてくれた「ばあちゃん。空襲でお母さんとおじいちゃんを亡くして、自分も大火傷をして。それで長い間、夜しか外に出られなくなって……」


 今日の葬式でも語られた、祖母の一生。


「でも、健太のおばあさん、素敵な人だったよね。お花のお師匠さんだったせいか、いつも綺麗で、上品で」


 ガールフレンドの言葉に、健太は柔らかくうなづいた。


 祖母の心の支えだったお守りを健太はしばらく掌の上で転がしていたが、やおらオーバースローで藤の根元に放り投げる。


「色々とありがとうございました」


 お礼を言って、返してきて。


 それがフジの最期の願い。









 ゆらり。


 薄紫の花影が揺れる。


 ひそかに静かに、女はわらった。











(了)

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