セロトニンと僕
その女の人の声はとても扇情的で、言語的な営みを行わなくなっていた僕の脳みそに直接訴えかけてくるものだった。
彼女は困った顔をして、それも飛び切りの上目遣いで僕の方を見てきた。
「どうして…出たくないのかな…?」
ダメだ…誘惑だ!誘惑だ!誘惑だ!
耳をかしちゃだめだ…そう言われたんだから!
「苦しそうな顔をしているわ…ダメよため込んでいては…」
彼女は僕の膝に手を置いた。柔らかい手の感触それだけで僕の神経は驚くほど良く反応していた。
僕は必死に目のやり場を変えた。しかしどこを見ても、彼女の声は僕を捕えていた。
「ここから出れば楽になるわ。ねえ簡単なことよ。たった数歩歩いて、そして玄関のドアを引きさえすれば良いんだから。こんな小さい、埃まみれの部屋になんか閉じこもっていたら精神がおかしくなってしまう。これはあなたの為を思って言っていること…」
そう言うと、彼女はふぅと息をもらしてから、今度は僕の座っている椅子の後ろ側に回り込んで、肉感的な所作で僕のよれよれになった服を撫ではじめた。
「昔…良くこんな事をしたよね。覚えてる…?」
昔…?そんなはずない。僕は覚えていないし、ありえない。ありえないのだけれど、どうしても彼女の口調、所作に一つの懐かしさや居心地の良さを感じてしまう。
彼女はこの艶やかな調子で実に長い時間、これは単に僕が長いと思っているだけかもしれないけど、とにかく長く感じられるような時間ずっと僕の事を外に誘い出そうとしていた。
「こんな手錠さぁ、はずしてしまいなよ…」
僕は手錠を見た。さっき彼女が言っていたように、手錠には細かなレリーフが掘ってあった。木や葉っぱが描かれ、とても賑やかな様子がその手錠の小さな部分に残されていた。
なんだったかなこれ…
なぜか、なぜか、胸の中が温かくなる感じがした。
■
「いい?これはおまじない。あなたが私を忘れないためのね。」
「おまじないか。こんなものが?」
「そう。この草木の模様…このイチジクの葉のレリーフには、あなたと私の今が刻みこまれているの。だから、これを見れば、きっとあなたは今に戻れるはずよ。」
「今を忘れることなんて僕は無いと思うけど、ありがとう」
「せいぜい感謝しないさい。私は、ずっと君といるんだから」
「……加奈……その…明日の断罪式は、本当に行かなくちゃいけないのか?国外に逃げても、良いんだ。僕はその準備はいつでもできるんだ。」
「その気持ちは嬉しいわ。ありがと。でも、君は”よそもの”だから、理解できないかもしれないけどね、このシステムからは逃げられないの。それはこの国に生まれた人間の生と表裏一体のシステムなの。これを裏切ると、それは死んでいるのと同じなのよ。」
「でも、だからって、死ぬことなんか無いじゃないか。いくらでも、罪は償う方法なんて…いくらでも!そもそも、なんで加奈がやってもない罪を償わなきゃいけないんだ。」
「あなたの故郷がどうなっているのか知らないけど、この国は犯罪と罪は別なの。例え何もしてなくても、罪を償う人は公平にクジで決まる…それがこの国のルール…」
「君が、よくても……」
「だから…だから君とこうして誓約を結んだのじゃない。一応、今こうしているのは法律違反なのよ?でもそれを押し切って、こうして私は君と居たいと思った。そこに嘘は…ないの」
「そうだね。この制約さえあれば、僕は君と永遠にいることができるんだよね?そうなんだよね?」
「そう。私とあなたの、誓約はあなたが私の拘束の中で生きる事。それは私の死後も継続される。」
「あとは、僕がこの手錠をして、そして君がその鍵を飲めば良いんだね。」
「ただし、すこし注意が必要なの。誓約はある程度の障壁を超えなければいけない。それは私の死後、あなたに訪れる。どんね障壁かは…分からないけれど、君はその障壁に打ち勝たなければいけない。うちかって初めて誓約が完全に成立する事は覚えておいてね」
「わかった。でも、どんな障壁でも。多分大丈夫だ。だって君とずっと居れるんだから……」