名前は
お互い自己紹介はしていなかった。
スケルトンを使った会話は長ったらしくて必要最低限のやり取りしかしてこなかったのだ。
さらに、スケルトンは臨機応変な対応など出来ない事と文字を読めるのが一人だけだった事が災いして、エリシーとスケルトンとの間に言葉を挟む隙間も無かった。
つまりコレまでの間、僕はエリシーとしか意思疎通をしてこなかったわけだ。
しかしここに来て、自由に使えて素早く連絡を取れる手段を得たことによってチヤにも会話のチャンスが回ってきた。
普段大人しい彼女ではあるが、僕には興味をもってくれていたらしい。あるいはダンジョン内に残された興味の対象は僕だけしか残っていないのかも知れないが…。
とにかく、彼女と仲良くなっておく事は大事だ。
チコとチヤは2人セットだ。どちらか一人でも繋ぎとめられればもう一人もここに残ることを選択するだろう。
そしてチコは妹であるチヤにはどうしても甘い部分があり、2人の意見が割れた時はチヤの選択を尊重する可能性が高い。
……のだが、いきなり難問にぶち当たってしまった。
僕の記憶は曖昧で、人の名前や人間関係についての記憶は最も失われてしまっている割合が高い部分の一つだ。
残念ながら自分や親族のことも忘れてしまっている。
つまり、名前を答えることが出来ないのだ。
今更だが、人間関係を円滑に進めるなら自己紹介は一番最初に踏むべきステップだろう。
僕としては『ダンジョンマスターである』ということは一番初めに伝えたものだから自己紹介もそれで十分だろうとかってに納得してしまっていた。
チヤはそれでは満足できなかったのだろう。
エリシーが二言三言交わして間髪いれずに去っていくスケルトンを歯がゆく感じていたのかもしれない。
さて、名前のない僕は彼女の問いにどう答えるべきなのだろうか?
今この瞬間に名前を考えるという手もあるのだが、いかんせん僕には命名センスというものが皆無らしく、迷宮内の色々なものに名前をつけようと思った時もぴんと来る案が浮かばずに結局そのまま呼んでいるのだ。これから長く使うであろう、自分の名前などとても考えつかないだろう。
しかし無視するわけにもいかないだろう。
そんなことをしたら好感度だだ下がりである。
ここは、素直に名前が無いと伝える方がいい。これから長い付き合いになるかも知れないのだ、真摯に対応していくとしよう。
そうして僕は、ボードの前で所在無さげに立っているチヤと、彼女の突然の行動におどろいているエリシーに向けて文字を紡ぐ。
【私には名前が無いのです。気がついたらこのダンジョンの主として、突然存在していました。名が決まるまでは、今まで通りに『ダンジョンマスター』とでも呼んでください】
嘘は言っていない。一部とはいえ記憶をなくし、突然ここに湧いて出たのは事実だ。
エリシーは文章をそのまま読み上げ、それにチヤが返事をする。
「え……。お名前が無いの? ……ですか? でも、ダンジョンマスターさんって呼びにくいの、です。」
頑張って敬語で話し続けようとしてくれているが、そちらに集中しすぎて微妙に失礼なことを言っているのに気付いていない。そもそも失礼だとも思ってないかも知れないが……。
エリシーも苦笑いだ。
【それでは短くして、『マスター』でもかまいませんよ。他の皆さんも。】
「じゃ、じゃあマスターさんってよびます。その、これからもよろしくお願いします」
【よろしくお願いします。それでチヤさん、何か質問があるのですか?】
「うぅん? ない……ありません。お名前聞きたかったんです」
……まあ、僕自身に興味を持ってくれているという事を喜んでおこう。
【では後はゆっくり休んでください。一日中仕事で疲れたことでしょう。】
「……はい。お休みなさい」
そういうとチヤはブツリとマイクを切った。
「ちょっとぉ!? まだ……あぁもう」
なにも挨拶をしていないエリシーが驚いて声を上げるが後の祭りだ。チヤはエリシーの上げた声にも首をかしげるだけである。
最後の間は何だったのか? とか思いきり良く切るなぁとか、色々と思うところもあるが、一先ずは乗り切ったと考えていいだろう。
チヤは相変わらず良く分からない子だったが……。
「はぁ、子供のやることだって気分を害さないでくれたらいいんだけど……」
チヤはエリシーにお礼を言うとさっさと自分のスペースに戻ってしまった。
エリシーの呟きを聞いたのは僕だけである。




