― 序 章 ― プロローグ
黒衣のマントにすっぽりと身を包み、後ろからでも分かる栗色のツインテールが、左右対称にちょんっと覗く。姿見の前で儀式めいた所作を数回繰り返している少女が、どこかで耳にしたことのあるようでないようなフレーズを唱えながら指揮者のように指を振っていた。
「鏡よ鏡よ鏡さん、――この世でただ一つの道を開きなさい」
詠唱が終わると、それはもう少女を映していた鏡ではなくなっていた。
青白い光に包まれた姿見は、鏡の面に水が被さったとでも言うべきか、流れているとでも言うべきか、水のカーテンとも言えるその面を上から下へと流れていき、全体に水が行き届く頃にはたゆたうように覆っているようだった。
少女はと言うと、黒衣のマントから仰々しく右腕を撥ね上げ、その動作で捲り上げられたマントの裾が肩へとかかる。そのまま右手は華奢な腰にあてがわれ、ふふんっと勝気に鼻を鳴らしている。口元には負けん気な笑みを浮かべ、得意げと言った風な独り言を呟いていた。
「ちょろいちょろい!」
気迫に満ちた片足が前に出された。胸を張って威風堂々と歩き出した少女は、鏡の中へちゃぷんと水音を立てて潜るように消えたようだった。少女の居なくなった部屋で、波紋を広げる鏡の面が再び室内を映したのは、それから間もなくのことである。
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薄暗い室内でペンを走らせ紙を削る音だけがただただ聞こえてくる。束の間、ぼーんぼーんと12回、同じ音色で壁にかけられた振り子時計が鐘を打つ。それは、午前12時を知らせる時鐘だった。亜麻色の長い髪を揺らし振り返った少女は、わずかに驚愕の色を浮かべて呟いた。
「あら…もうこんな時間」
机の上に散乱する教科書やノートを畳んで、慌ただしく椅子を引く。席を立った亜麻色髪の少女は、その足で背後のクローゼットへと駆けた。ガラリと端からクローゼットを開く。人ひとり分の隙間で留め、なかから薄茶色のケープを引っ張り出す。手早く羽織って垂れる二本の紐を胸元でリボン状に結ぶとそのままその中へと入ってしまった。少女は後ろ手でクローゼットを閉め、暗闇の密室を作る。――中から微かに声が聞こえてきた。
「ち、ちちんぷいぷい…ちちんぷいぷいっ!」
すると淡い桜色の光がクローゼットの隙間から漏れ、それは次第に増していくように室内を照らしたが、一定の光を放つと今度はゆるやかに輝きを失って元の室内に戻った。――なかからはもう物音は聞こえない。
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同時刻。
明日は日曜日だ。学生にとってとても喜ばしい一日が訪れる。その休日にあやかり、俺は少しばかり夜更かしを満喫している最中である。母親には寝ると伝えた。だがこの通り、親の目を盗んでオンラインゲームなるものをプレイしている。室内は薄暗く、液晶画面の青白い光が身体を照らす。音漏れしないようにとイヤホンをしているのだが、部屋の向こう側の音――親が部屋を訪ねる足音とか――を聞き漏らすと厄介なため、音量は聞こえる程度の最小限に留めていた。
そんな俺は、なんの特技も趣味も持たない至って普通の高校生。――趣味が無いと言うのは、少しばかり語弊があるかもしれない。無いと言うより、これといってやりたいと思うようなことが無いだけで、今現在だってゲームという趣味らしきことをしているように、俺でもやれることはある。かと言って、趣味かと問われてしまえば、可もなく不可もなく、大が付くほどゲームが好きってわけでも無い。世間一般で、俺みたいな拘りのない人種のことを「雑食系」と呼ぶらしい。中には勘違いして「多趣味だね」と言ってくる奴もいる。確かに色んなものに手を伸ばすが、それはやりたいことを探しているだけであって、好んでいるわけではない。飽きたら途中で放り投げてしまえる程度のもので、それを好き好んで行っている人には、そこまで愛を捧げる事が出来ず申し訳ないとさえ思う。
そんな俺が、何故寝る間も惜しんで、ただただ貴重な時間を消費しつつ、大が付くほど好きでも無いゲームをプレイしているかと言うと、それは月曜日からの交友目的のためでもあった。これは、既に一昨日の金曜日の休み時間で交わされた話しなのだが、俺はとある信憑性の薄い話題を振られて、つい「やったことがある」と嘘をついてしまったのだ。それがこのゲーム――
Fairy tale・Online――中高生から注目を浴びつつあるMMORPGの一つで、噂ではこのゲームをプレイした者のなかから、行方不明者が出たと言う曰く付きのゲームらしい。やったことも、聞いたこともないこのゲームの名前を帰宅後すぐに検索、公式からゲームをダウンロードしてキャラクターを作成したのは言うまでもない。あれから一日と数時間が経った。ゲーム世界のキャラクター名には、拘りの無い俺が頭を捻るほど時間を使った気がする。さすがに、友人からキャラクターのことを聞かれたとき、変な名前は嫌だった。という理由が大半であったが、30分間悩んだ末、結局――本名である黒崎悠也をもじって――クロウという名にした。
MMORPGとやらは、自分で属性や種族なんかも決めることが出来るのだが、このFairy tale・Online、通称FTOは、おとぎ話を舞台として作られているためか、カテゴリーもどこかメルヘンチックである。野郎のするようなゲームとは到底思えないこのゲームの売りも、所詮女性利用者が多いという利点で補われているんだろうな、と、素直に通観してしまった。
そんなこんなで昨夜から頑張ってレベリングに励んでいたおかげか、クロウも初期装備のみでもレベルを10ほど上げられた。程よく、切りも良かったし、今日のところはここまでか。――と、オプションメニューからログアウトしようとしたまさにそのときである。
「ログアウト」と、呟いた途端、青白い光が次第に眩さを増して視界を白く染めた。
「な、っ……なんだ!?」
眩しくて開けていられなくなった瞼を頑なに瞑ると、皮一枚隔てたその向こう側で急速に減光していくのが分かった。恐る恐る瞼を持ち上げると、視界は一転、漆黒に染められていた。
右も、左も、上も、下も、分からない。
浮いてるような感覚で、落ちているような風が吹く。
「嘘だろ…?」
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正子に開く別世界の門が、この世に存在すると言う。
それは、科学の発達した現実世界と平行して存在する魔法が生き残る御伽世界。物心ついたときから突如身に付くその力のことを学べることのできるもう一つの世界のことを現実世界ではこう呼んだ。
――世界の下で語り継がれた御伽世界。
( Under world プロローグ )