覚悟
入り口付近に戻った俺たちは、階段を上って2階の紳士服売り場にやって来た。一階とはうって変わって、ここには通常種と呼ばれる類の生物の姿は確認できなかった。
声は、暗闇の中を進む俺たちを的確にナビゲートしたので、俺たちは迷うことなく目的の場所、事務室へ向かうことができた。
暗闇はそれなりに不気味だった。声は、敵はすべて一階に集まっていると言っていたが、俺たちは常に身構えていた。恐ろしい体験を何度もしたのだから無理も無いと思う。
タクマは心なしか、呼吸が荒くなってきており、酷く怯えているように見えた。俺たちは一歩一歩慎重に進んでいった。
俺たちが声に従ったのにはこんな理由があった
「なあ、そろそろ教えてくれないか?」
タクマが恐る恐る切り出した。
「何を?」
俺は不意を突かれてビックリしたが、彼の方を向いてこたえた。
「違う。サクトじゃなくて・・。」
<私の事だろう?>
頭の中に例の声が響いた。
俺たちは反射的に目線の斜め上を見た。どうもこの声には慣れない。頭の中とわかっていても、耳から聞こえてきたように感じてしまう。その発信源は無意識に斜め上のような気がして、目が反応してしまうのだ。
「いいかげん、君が誰なのか教えてくれないか?僕たちだって、正体のわからない存在に従うのは不安で仕方ない。ここは丁度、入り口の近くだ。僕たちはこのまま出ることもできる。」
タクマは右手向こうの入り口を指差した。外から光がさし込んでいる。ああ、確かに早くここから出たい・・。
こんな視界の利かない閉鎖的な空間にはこれ以上居たくないのが本音だ。それに、この声の正体が何なのか、何が目的で俺たちを助けたのかまだわからない。となると、このまま声を裏切って脱出した方が安全と言えるかも知れ
ない。
<私が信じられないということか?>
ストレートに来た。タクマは一瞬戸惑ったが、
「そ、それは・・まあ。」
彼はそのまま俯いてしまった。代わりに俺が声に食ってかかる。
「当たり前だろ。全部俺たちに説明するべきだ。話はそれからだろ。」
長い沈黙のあと、声はようやく答えた。
<私だって隠すつもりはない。しかし、今は時間が無い。一刻を争うんだ・・!>
俺は驚いた。”声”の声のトーンが少し変化したように感じたからだ。今まで、まるで機会音声のように冷ややかだった声のトーンが、今のは何か必死な感じに聞こえたのだ。何かに焦っているのだろうか。いや、焦っていると
いうよりは、何かに怯えているような・・恐れているような・・。
「どうしたって言うんだよ。何か来るのか?あいつらよりも強い生き物が近くにいるとか?」
タクマは苛立ったように言った。もうすぐここにもあいつら通常種が来る。決断を急がなければ、逃げられなくなってしまう。
<違う・・!そうじゃない。私は・・>
その時、遠くの方で何かがぶつかる音がした。注意深く耳を済ますと、微かだが、近づいてくる無数の足音のような音が聞こえてくる。俺は直感的に、やつらが来たと察知した。
「おい!来たぞ!」
「くそ・・やむを得ない・・!」
そういうが早いか、タクマは入り口に向かって駆け出した。
ガラス戸に開いた穴の端を踵で蹴り、広げていく。その音に反応してヤツらが寄ってきてしまうだろうが、彼はお構いなしというように蹴り続けた。
やがて、ガラス戸には縦1.5メートル、横1メートルくらいの大穴が開いた。ここまで大破しているにもかかわらず、ガラス戸のロックは頑丈でびくともしない。
「さあ!もう諦めて車に戻ろう。銃もそこにある!」
タクマは、階段の前で躊躇している俺に向かって叫んだ。
「何してる!早く来い!」
彼の口調が命令口調に変わった。いよいよ時間が無いのだ。そんな事は俺だってわかっていた。でも、俺の足はまだ動かない。
俺は何を躊躇っているんだろう・・・?普通に考えれば、さっさと逃げればいい。それですべてが解決する。俺たちは外に出て、そのあとはスポーツセンターへ行く。それですべて・・。
俺は胸の辺りがぞわぞわと疼くのを感じた。
いやまて、声はどうなる?俺たちが彼女に逆らって外へ逃げたとしても、彼女はまだ建物の中にいる。
その時、俺の頭に一つの疑問が生まれた。
もしかして、彼女は、逃げられないんじゃないのか?きっとそうだ。彼女は何らかの理由で、今、自力では逃げられない状況にある。だから、俺たちを呼ぶことで助けてもらおうとしているのではないだろうか・・?
「おい!あんた、もしかして、俺たちに助けが必要なのか?」
俺は無意識に叫んでいた。後ろでタクマが俺を呼んでいる。しかし、今の俺には聞こえなかった。
「答えてくれ!そのために俺たちを助けてくれたんじゃないのか?」
俺の絶叫に対し、声は実にか細い声で、
<・・・恥ずかしいがその通りだ。私は今、身体的な問題で自力では逃げられない。>
<ここからの脱出を手伝わせるためにお前たちを呼んだ。すべてはそういうことだ。>
声ははき捨てるように言った。自分の状態を恥ずかしく思っているようだ。何故だかはわからないが。さっきからずっと命令口調で焦ったように俺たちに指図していたのは、この性格と早く助けて欲しいという気持ちによるもの
だったのか。俺はホッと微笑んだ。別に俺らを騙そうとか、危害を加えようとか、そういうつもりではないみたいだ。
「そういう事ならはじめからそう言えばいいじゃないか。変に命令されるより、よっぽど協力する気になると思うぜ?」
俺は笑いながら言った。
<黙れ。一刻を争うと言っただろう。で、どうするんだ?>
俺はまた笑った。なんでそんなに強がるんだろう。素直に「助けて」って言えば良いのに・・。
「決まってんだろ。助けに行くよ。」
「サクト!!」
タクマが絶望をこめた悲鳴をあげた。俺は頭を掻いた。
「確かに、このまま逃げれば安全かもしれない。でも、俺はあの時どうした?家の外でお前が死体に襲われていた時、俺は何故かわからんが逃げなかったんだよ。タクマ、お前を助けるために。別になんの計算もなかったけどさ・・。」
俺はタクマの顔をしっかりと見つめた。
「でも、でもさ、あの時・・あのまま思いとどまっていたら俺は絶対後悔してたと思うんだ。自分の事だけ考えていれば、一応は危険を避けることが出来るかもしれないよ。こんな世界になっちまったし・・。他人の事考える余裕なんて、正直言って無いと思う。でも、こんな非常事態だからこそ、俺たちは他の誰かの事も考えなくちゃいけないんじゃないかって思うんだ。」
すべて言い切ってから、俺は黙ってタクマの顔を、彼の目を見つめた。
タクマはふっと息を吐き、軽く視線を逸らした。そして、顔を上げると、優しく微笑んだ。
「ごめんサクト・・。君に助けてもらった時の事、僕すっかり忘れてたみたいだ。あの時君がどんな気持ちで家を飛び出したのか、考えた事も無かった。自分が助かることだけ考えて・・。サクトの言うとおりだよ、ごめん・・。」
タクマは深く頭を下げた。
「別に謝れなんて言ってねえよ。むしろ、頭を下げるべきなのは俺の方だ。」
「え・・?」
「頼む、タクマ!俺と一緒にマルカ堂に残ってくれ!俺はあの声の主をどうしても助けてやりたいんだ!」
俺はタクマにむかって頭を下げた。
「や、やめてよ!それに、君が頭なんか下げなくたって僕の心はもう決まってるよ。」
俺はゆっくりと顔を上げた。不思議と胸が熱くなるのを感じた。
「ありがとう・・。」
俺たちは揃って階段に足をかけた。
「おい!聞こえるか?」
俺は視線の斜め上に向かって叫ぶ。
<聞こえている。>
声がぶっきらぼうに答えた。まったく、これが本当に助けを求める者の態度だろうか。
「今から俺たちはそっちへ行く。だから、救出経路とやらを頼むぜ。」
俺はニヤリと笑った。
「早くしてくれ、もうすぐそこまで来てる!」
タクマが急かす。
<わかった・・一言も聞き漏らすな。>
「なあ、ここか?」
俺は目の前の黒いドアを指差した。上のほうに、”STAFF ONLY”と書かれている。
「ああ。間違いない。事務所ってのはここだよ。」
タクマが興奮気味で言った。
<そのドアには鍵が掛かっている。蹴破れ。>
声が難題をさらりと押し付ける。
「相変わらず常識はずれな事言いやがる。」
俺とタクマは、見よう見まねで映画っぽく肩から体当たりしてみた。
ドスンとものすごい音がしたが、ドアはびくともしない。運動不足の細腕が痛む。俺は顔をしかめた。
<馬鹿か。そのやり方では力が分散してしまうだろうが。鍵の位置を狙って足で強く蹴るのだ。>
声がやれやれといった感じで言う。
「なんでそんなこと知ってんの?」
「いや、でも正しいよ。ドアを開けるには、要は鍵を壊すだけでいいんだ。」
俺は半信半疑で鍵の位置を思い切り蹴った。
ギギッ・・!さっきと違う音がした。なんか壊せてるっぽい・・?
さらに立て続けに4、5回蹴る。すると、
ドガン!と鈍い音がしてドアが開いた。
「よっしゃ!開いたぞ!」
俺は歓声をあげて中に入った。内部は散らかっている様子も無く、普通の事務室に見える。ただ、奥の隅っこのほうに何か壁に寄りかかって倒れている人がいる。小柄で、細くて、いや、子供だ!
タクマが背後であっと何か思い出したような声を出した。
「携帯のライトがあったよ!」
彼はそれをすぐに点灯させた。ぼうっと光が灯り、目の前にいる誰かの顔が映し出された。
その光景に俺は思わず息を呑んだ。
「レナ・・!?」