変種第7号
目の前で、追跡者のものと思われる腕がもぎ取られていくのが見えた。噴出す大量の血液、断末魔の叫び・・。すべてがあまりに凄惨すぎて、現実味がわかない。しかし、身体は恐怖を感じているようで、さっきから腰が抜けてしまって立ち上がれない。首筋から全身にかけて小刻みに震え、目からは涙が流れてきた。
俺たちは呆然とその場に座り込んでいた。動きたくても動けない。タクマの方を見ると、彼も驚愕と恐怖の表情のまま脱力していた。
俺たちはこのままではヤツらに喰われてしまうだろう。喰い殺されるのは嫌だ。死にたくない。それに、俺はまだこの世界でやり残した事がたくさんある。そうだ、父さんや母さんは無事だろうか、ちゃんと避難しているだろうか。心配だ。急にそんな事が頭をよぎった。ああ、今すぐ会いたい。家に帰りたい・・。そして、またいつものように楽しく食卓を囲めたら・・・。
高校に入ってから、自分の部屋に閉じこもってばかりで家族とまともに会話するのは食事の時くらいだった。別に居心地が悪かったわけじゃない。ただ、自分から壁を作っていたのかもしれない。
なんだか今更のように罪悪感がこみ上げてきた。なんで今までもっと家族を大切にして来なかったんだ。下らない意地を張って・・でも、それは平穏がいつまでも続くと思い込んでいたからだ。なんて馬鹿だったんだろう。事が起こらなければ気づけないなんて・・。
今、今更、こんな事を思うのは酷く勝手かもしれない。でも、俺は生きたかった。どうしても、なんとしても、この瞬間を生きたかった。日常を取り戻したい。でも、そんな立派な意味じゃない。自分が安心したいだけだった。目覚めた瞬間、何もかもが変わってしまっていた世界。その中で俺はまだ自分に起こった事の真実すら知らないのだ。こんな悔しいことがあるだろうか?
<逃げたいか?>
・・いや、逃げたいわけじゃない。怖いけど、現実から逃げようとは思わない。
<なぜ?>
・・わからない。ただ、何かが・・何かが引っ掛かるんだ。
<逃げたいか?>
・・それは今・・・・
<私が聞いているのは、この場から逃げたいかということだ。>
俺はハッと我にかえった。今のは一体・・?頭の中に声が響いてきたような・・。俺は無意識に会話をしていた。誰と?
「サ、サクト・・!」
タクマがしゃがれ声で言った。俺が振り向くと、
「今・・何か聞こえた・・よな?」
「ああ・・。」
どうやらタクマにも聞こえたらしい。二人で顔を見合わせる。そのとき、
<もう一度聞く。ここから逃げたいか?>
声が聞こえた。少女のような高い声だった。今度は、俺もタクマもはっきりと聞き取れた。慌てて周囲を見回す。
しかし、発信源と思われるものは見あたらない。途方に暮れていると、また同じ声が聞こえた。
<はやく答えろ。あまり時間が無い。>
やっぱりだ。頭の中に直接聞こえてきている。どんな方法で話しかけているのかはわからないが、とにかく何か答えなければ!
「き、君は・・誰なんだ?」
俺が何か言おうとしたとき、タクマが先に聞いた。
<質問に答えろ!お前たちはここから逃げたくないのか!?>
さっきよりも乱暴な口調で声が言った。俺たちは思わず飛び上がりそうになる。
「出来ることなら今すぐ逃げたい!君は俺たちを助けてくれるのか!?」
俺は叫んでいた。どこへともなく、適当な方向に。もしかしたら間違っているかもしれない。
しかし、
<私はお前たちに比較的安全な逃走経路を教えてやる事ができる。ただし、条件付きでな。>
俺たちは顔を見合わせた。こんな馬鹿な話があるだろうか?絶体絶命のピンチ、突然頭に届いたテレパシーの声・・・どこかのSFみたいだ。
タクマも信じられないという顔をしていた。果たして、この声を信用しても良いのだろうか?俺は迷った。そもそも、頭に直接聞こえる所がおかしい。俺たちは同時に幻聴でも・・。
<幻聴ではない!>
突然、声が怒鳴った。俺たちはうるささに頭を押さえた。
「・・これは・・・どういう意味だ?」
顔をしかめたタクマが俺に聞いた。
「俺たちの心を読んだ・・とかじゃないか?」
俺は半信半疑で答えた。頭がおかしくなりそうだ。いや、すでにおかしいのかもしれない。俺は必死で現在の状況を推理しようとしたが、すぐに無駄と悟った。
<細かい話しはあとだ。私は今、2階の事務所内にいる。そこまで来るんだ。場所はいま教える。お前たちにその意思があるならな。>
声が言った。あいかわらず機械的で冷ややかな声だ。おそらく人間の声だろうが。
「サクト・・どうする?」
珍しくタクマが俺に聞いてきた。俺は・・。
「・・信じよう。俺たちが生き延びるには、もうそれしかない。」
確証なんて無かった。しかし、このままでは俺たちに先は無い。それに、俺はこの得体の知れない声に不思議と安心感を覚えていた。
タクマはゆっくり立ち上がった。
「・・そうだね。サクトの言うとおりだ。」
俺も恐る恐る立ち上がる。もう腰は抜けてなどいなかった。
「さあ、誰だかわからないあんた、俺たちは立ったぜ?」
少し間が空いて、
<わかった。お前たちに逃走経路を教えよう。>
俺たちはさっきいた棚から十数メートル離れて、レジの近くに身を潜めた。声の言う事に従い、敢えて無数の死体が集まっている場所を通った。しかし、死体たちは予想を裏切り、こちらを振り向きはしても襲いかかってくる事は無かった。
〈あの通常種はお前たちには興味を示さない。お前たちより遥かに脅威となり得る存在・・・例えば変種のようなものに反応して全力で排除しようとするのだ。〉
声は静かに説明した。
「その特殊用語がわからない。通常種とか変種って何だ?」
タクマが顔をしかめながら訊いた。
〈いいだろう、今は安全だから説明してやる。〉
声自身の話によると、彼女は周囲の生物や物体の配置、動き等の情報を全て把握しているらしかった。そのため、俺たちをこの場所まで安全に誘導する事が出来たというのだ。しかし、それをどんな手段で知ったのかは教えてくれなかった。
それにもかかわらず、俺はもうあまり声の事を疑ってはいなかった。得体の知れない存在ではあるが、彼女の言う事は今のところ正しいし、こちらに敵意は無さそうだ。しかし、腑に落ちない点が2つある。
1つは、何故俺たちを助けたのか。そして、もうひとつは、何故自分自身はまだこの店内にいるのかだ。1つ目の疑問は考えても仕方がないだろうが、2つ目の疑問はどうだろう。ここまで完璧な逃走経路を把握しているにもかかわらず、こんな敵だらけの空間で待機しているのは変だ。何か理由があるのだろうか、あるいは・・?
〈通常種というのは、外見上はヒトの死体に見えるタイプの下等生物の事だ。さっき見ただろう。ぞろぞろと群れなしているやつだ。〉
声の説明は続く。
「生物だって!?あれは死体じゃないのか?」
タクマがうろたえたように叫んだ。
〈確かに。見た目は負傷していたり、所々腐敗が進んでいたりする。しかし、内部の細胞活動はお前たちに劣っていない。むしろ、お前たちヒトのそれより活発に活動している。〉
「何だって・・!?」
〈お前も見た事があるだろう。通常種はほとんど疲労しない。それどころか、痛みすら感じないのだ。〉
俺はタクマが車上で言っていた事を思い出した。
〈半端な外的損傷を与えるだけでは、通常種の生命活動を停止する事はできない。頭部を粉砕するか、神経を焼き切る方法が有効だと思われる。〉
「映画みたいだな・・」
「あんた、そんな事どこで知ったんだ?」
タクマは真剣な面持ちで聞いた。
〈その話は後だ。ヤツら、今度はこちらに興味を示したようだ。〉
俺たちは立ち上がった。遠くだが、生鮮食料品コーナーらへんからゴソゴソと音がする。もう追跡者を食い終わったという事だろうか。
〈レジの近くの棚から飲料水のボトルを取れ。〉
声が言った。何に使うというのだろうか。俺は適当に近くにあったペットボトルを取った。
〈それでいい。それを絶対に手放すな。〉
俺たちは一応頷いた。どのみち、飲み物や食料品は持ってないし、これから避難を続けるには必要となってくるだろう。
〈それから、足下をよく探してみろ。細長いライトが落ちているはずだ。〉
「細長いライト?」
俺は顔をしかめる。
「ペンライトじゃないか?ほら、あった。」
タクマはしゃがんで床を手探りで探し、何かを手に握りしめていた。
カチッ。軽い音とともに、小さな丸い灯りが灯った。光に照らされ、お互いの顔がぼうっと浮かび上がる。なるほど、これで幾分歩きやすくなる。
〈それを右方向に投げろ。できるだけ遠くにだ。〉
「何だって!?」
俺は思わず叫んでいた。
「これ以上、こんな真っ暗闇をライト無しで進むなんて無理だ!このライトは足下を照らすためじゃないのか?」
「そうだよ。一体、何のために捨てるんだ?」
タクマも反論している。しかし、声は馬鹿にしたように溜め息をつくと、
〈黙って言う事を聞けないのか、ヒトという生物は。通常種は暗闇に弱い。したがって、光に群がる習性があるのだ。〉
じゃあ、今これを点灯させているという状況は・・。俺の頭から血の気が引いていく。
「タクマ、そいつを投げるんだ!」
俺の悲鳴に驚いたタクマは身を震わせると、そのままペンライトを暗闇に向かって思い切り投げた。
ペンライトは回転して光の輪っかのようになって飛び、微かに風を切る音を立てながら、やがて40メートルほど離れた位置でガツンと何かに衝突した。
〈これでいい。幸い、ヤツらも今の衝突音の方に反応を示している。逃げるのは今しかない。〉
「わかった・・疑って悪い。これからはあんたを信じるよ。」
俺は全身が武者震いするのを感じた。
〈疑っていたのか・・無理も無い。では、始めるぞ。〉
声は俺たちに逃走経路を説明した。