追跡者
「大丈夫かい?」
タクマが心配そうに差し出したミネラルウォーターを、俺は黙って受け取った。ゆっくりとフタをまわし、ちょびちょびと飲む。冷たさが刺激的で、それだけで正気に戻れたような気がした。感覚が麻痺しているような気分だ。
「ここにくる途中、コンビニの前に散乱してるのを拝借したんだ。たぶん貴重になってくるだろうと思って・・。こういう時に無いと困るだろ?」
タクマは首を傾げた。俺は彼の方を見てわずかに微笑む。
あの時、俺が謎の頭痛に襲われた時、タクマが助手席から身を乗り出して運転を変わってくれなかったら二人とも死んでいただろう。その後は彼が運転席に座り、俺は助手席に移動していた。こいつに会えて本当によかったと俺は思った。昔は変な理屈ばっかこねてる弱虫野郎だったくせに。
「すまんな。もう大丈夫だ。」
俺はペットボトルを後部座席に置いてあるタクマのカバンにしまった。
「本当かい?休んでてもいいんだよ。」
俺は首を振った。頭痛は本当に治まっていた。それにしても不思議だ。もともと頭痛持ちではないし、体調は崩していないと思うのだが・・。いや、考えすぎか。
俺は車の窓を開けた。風が冷たい。それに、やはり嫌なにおいがする。
「サクト、カバンから地図を取ってくれないか?外側のポケットに入ってると思う。」
俺は言われた通りにタクマのカバンを調べた。外ポケットには、ティッシュやガムが入っていて、奥のほうに文庫サイズの首都圏マップがあった。
「これか?」
俺が見せると、タクマは頷いてマップを開いた。しかし、すぐに俺に返す。
「よくよく考えたら運転中には読めないや。運転するの初めてで慣れてないしね。悪いけどサクト、東久留米スポーツセンターを探してくれないか?」
「東久留米・・というと、隣の市じゃないか。」
「メールが使えなくなる前、旧友から連絡があってね。そこでも大人数が集団で立て籠もって避難しているらしいんだ。」
「へぇ・・」
よく知っているな、と俺は感心していた。とりあえずこいつについて行けば安心な気がする。
俺はマップを開いた。巻末の索引から”東久留米スポーツセンター”を探す。129ページ。あった。全体図から想像してみても、現在地からそんなに遠くないかもしれない。センターの近くにあるショッピングセンター、”マルカ堂”には何度か行ったことがあった。
「なあ、近くに目立つ建物ないか?現在地を知りたい。」
俺は言った。この車、スプリンターにはカーナビがついていない。俺はキョロキョロと風景に目を凝らした。これと言って目立つ建物・・というか、名前のわかる建物が無い。
「無いな・・。」
タクマも同じ事を考えていたようだ。俺たちはため息をついて笑った。死体を避けて適当に車を走らせていたら、いつのまにか知らない場所に来てしまっていたのだ。
「まずいな・・本当にわからんよ。」
タクマが苦笑した。
「ああ・・。でもまあ、世界の裏側まで来ちまったってわけじゃないんだから、そこまで深刻じゃなくね?」
こういう時はポジティブ思考だ。焦って失敗するより良いと思う。とはいえ、俺は(たぶんタクマも)相当焦っていた。
「あれ、何だ?」
どこか知らない大通りを走行していたとき、ふいにタクマがつぶやいた。彼はバックミラーを見つめて目を細めている。俺は思わず窓から顔を出して後ろを見た。
路上には何台かの乗り捨てられた自動車が停まっている。道路脇の住宅からは煙が上がっているのもあって、死体が単体でうろついているのが見えた。それ以外は特に何も見当たらない。
「なあ、何が・・」
次の瞬間、急にスプリンターの速度が上がった。俺は頭を窓枠に強打してしまった。
「・・・痛・・どうしたんだよ!?」
「何だあいつ!?恐ろしく速い!」
タクマが叫んでいた。俺は反射的にもう一度後ろを振り向く。
すると、スプリンターから50メートルほど離れたところ・・こちらに向かって高速で走ってくるヒトの形をした何かがいた!
長い白髪、いや、全身が白い毛に覆われている。毛はところどころ赤茶色に変色しており、何かが付着しているように見えた。おそらく人間ではないだろう。そう言える根拠はその速さだ。
俺はスプリンターの速度メーターを見た。時速90キロと表示されている。しかし、追跡者は徐々にこちらとの差を縮めつつあった。
「ありえない・・どうして振り切れないんだ!」
タクマが後ろを振り返りながら絶叫する。
「知るか!とにかく逃げるぞ、ここはこの先ずっと広い道が続いてるし、信号なんか無視していいんだ。加速を続けるんだ!」
いつしか俺も叫んでいた。ちくしょう、一体どうなっているんだ。頭に血が上ってくる。恐怖から来る興奮が心臓を早鐘のように鳴らしている。
その時、俺は(記憶上での)昨日のことを思い出した。たしか、父さんが仕事から帰ってきて母さんに言っていた。”ガソリンが残り少ないから、出かける用事があったら入れといてくれ”。
「タクマ、ガソリン残量は大丈夫!?」
タクマはやや下に視線を移すと、右手でハンドルを思い切り叩いた。見ると、針はすでにレッドゾーンを示していた。
「サクト・・悪いけど運転を変わってくれ。」
「え!?」
戸惑う俺を無視して、タクマは後部席に移った。
「おいおい!馬鹿・・いきなり!」
俺はなんとかハンドルを握り、そのまま運転席に下半身をスライドした。車体が少しグラついたが、すぐ修正する。
「急にどうしたんだよ!?」
タクマは後ろで何やらカバンの中身を漁っている。ガチャガチャと水筒や弁当箱が散らばる。こんな時にいったい何をしようというのだろうか。
バックミラーを見ると、追跡者はさらに距離を縮めていた。あと30メートルくらいだ。その姿をしっかり確認出来るほどにまで接近していた。
振り乱した白毛隙間から微かに覗く、真っ赤に充血した二つの眼。顔やシルエットは人間のようだが、その表情は野生的で獰猛な肉食動物を連想させた。
「あった!」
タクマが歓声を上げた。見ると、彼の手には細長い銃が握られていた。
これは確か、レミントンM521Tだ。中学時代、タクマが大事にしていた愛銃だ。とはいえ、もちろん実銃ではない。日本ガンマニア社製のガスガンだ。弾は8ミリの競技用BB弾を使用しているため、当たれば皮膚をえぐることが出来る。中学時代、サバイバルゲームとまで行かないまでも、夢中になって銃で遊んでいた時期を思い出した。タクマは今もそれを保管していたのだろう。
「ガス入れといて良かった。いつでも撃てるよ。」
タクマは爽やかに言う。
「お前懐かしいもん持ってるな。」
「へへ・・何かの役に立つと思ってね。こいつでヤツの両目を狙ってみる。」
タクマは後部席の窓から顔を出し、銃を構えた。
「なら少し引き付けてみるぞ・・お前がヤツに命中させるまで追いつかれないぐらいにな!」
そうは言ったものの、あまり自身がなかった。今まで何となくで運転できたものの、細かい技術が必要な動作はいまいち自信が無い。しかし、やらなくてはならない。無茶かも知れないけど、必ずしも無理ではないだろう。俺はゆっくりとブレーキを踏んだ。
その瞬間、スプリンターは予想以上の速さで減速してしまった。
「サクト!」
俺は慌ててアクセルを踏みなおす。ダメだ、やっぱり簡単じゃない。俺だって所詮素人か。でも、車って本来は誰にでも運転できるように設計されているんじゃないのか?
俺はもう一度ブレーキを踏んだ。今度はさっきよりも軽く。すると、ちょうど危険ではないくらいの速度でスプリンターは減速した。
俺は上手くいったと思い、そのままその速度をキープするよう努力した。難しいが、ここで成功させなければあの化け物に喰われることになるだろう。
俺はちらとバックミラーを見た。追跡者はさっきよりもずっと近くに迫っていた。せいぜいあと20メートルを切っている。さっきからかなりの距離を走っているのに、まったく疲れている様子がなかった。ただこちらを見つめ、信じられないスピードで追いかけてくる。怖い。俺は全身の毛が逆立つような恐怖を感じた。こいつは普通の死体たちとは何かが違う。タクマの説明にもこんなケースは出てこなかった。こいつは一体何なんだ・・?
その時だった。突如、スプリンターのエンジン音が乱れ始めた。時折、ブスブスと言って不気味に途切れる。ついにガソリンが限界に近づいてきたらしい。
俺は覚悟を決め、さらにスプリンターの速度を減速させた。追跡者との距離が急速に縮まる。15メートル・・・10メートル・・もうヤツの荒い息遣いが聞こえる。真っ赤な口を開き、刃物のように鋭い歯をむき出しにした化け物。その飢えた眼はしっかりと獲物を捕らえている。
その時、後ろでタクマが引き金を引いた。