おやすみ
絶望の逃避行の末、変種によって捕食されてしまったサクト。彼は変種の喉元を滑り落ちる瞬間、またしても頭の痛みに襲われる。途切れた意識の先ーー彼の未来は、果たして。
混濁する意識が保つ微かな安定の中にいた。認識の範疇で世界は色を失い、考えうる限りの混沌とした支離滅裂の状態として広がっていた。
ーー俺はどうなった?
君は僕を捉えた。
ーーお前は誰だ?
カイ、と名付けられている。
ーーカイ……どこかで聞いた名前だ。
覚えていてくれて嬉しいよ。サクト、もう会えないかと思っていたんだ。
ーー俺はお前の事を覚えていない。
無理もないさ。君はずっとあんな調子で人間と生活していたんだろう。記憶と引き換えに解き放たれたんだ。僕たちを統率するあの大きな木からね。
ーー何の話だ?
おかえりサクト……きっとすぐにわかるよ。何もかも思い出すはずだよ。
ーー待て、どういう意味だ?
君と僕はこうしてまた会えた。眠っていたかに見えた何かが、また動き出すんだ。この世界はまた様子を変える。
ーーカイ、お前は何を言っているんだ。
今はまだ話せない。君が自分の意思で思い出すまでは、僕は余計な手出しをしてはいけないんだ。大丈夫、サクトなら必ず思い出せるよ。だから今はもう少しおやすみ。
ーー待ってくれ……俺はどうなったんだ? ユイちゃんは、南部は? あいつらは無事なのか?
君の身体が治ったら、したいようにするといい。彼らの所に行くのも、他のどこかに行くのも、全部君の自由だよ。
ーー待て。待て。
おやすみ。サクト……。
目を開けると、頬を打つ雨の感覚があった。身体は強張り、冷え切ってしまっている。だるくも痛くもないのに身体がひどく重い。徐々に意識が安定してきたので、自分に起こった事についてあれこれと思いを巡らしてみる。鰐のような変種に飲み込まれた直後の記憶までは覚えている。痛みは無く、奥深い暗闇の中に落ちていくような恐怖感が脳裏にこびりついている。
瞬きを数度行い、手足に力をこめてみると、どうやら正常に動くらしかった。折られたはずの左足からも痛みが消えている。
足を見ようと首を後ろに回すが、上手くいかなかった。首回りの肉が邪魔をしている感じがした。奇妙な違和感が全身にあった。指先などの末端部が上手く動かせない。
おもむろに視線をずらし、絶句した。腕があるはずの場所にはごつごつした鱗状の皮に覆われた短い足が伸び、太い爪が土に食い込んでいた。
目の向きをずらして地面にやる。
黒々と広がった大きな水溜りにあの巨大な鰐の変種が映り込んでいた。