異変
俺は目を覚ました。夢を見ていたような気がするけど、どんな夢だったか思い出せない。なんだか体中がダルい。昨日遅くまでゲームしてたからかな、なんて事を考えながら起き上がった。布団から抜け出ると、寒さに震えた。そっか、もう11月だ。クラス替えまであと5ヶ月、次の夏休みまではあと8ヶ月くらいもある。俺はため息をついた。
制服に着替えて1階に降りると、リビングに誰も居ないことに気づいた。慌てて近くの壁に掛かった鳩時計を見る。午前7時4分。どうやら寝坊したわけでは無さそうだ。普段なら、この時間には父さんも母さんも居るはずなのに、何で居ないんだろう。ぼうっとして部屋を見渡してみる。電気の消えたリビングは薄暗く、朝とはいってもなんだかちょっと不気味だ。
とりあえず電気をつけないと。俺は電話台の横にある四角いスイッチを押した。しかし、電気は点かない。何度試してみても、プラスチック製のスイッチは虚しくカチカチと鳴るだけだった。
これはいよいよおかしな事になった。事前に地域停電のお知らせなんてなかったし、何かしらの災害が起きたのだろうか。考えてもわけがわからなかった。
念のためブレーカーを調べてみたが、落ちてはいなかった。俺は首を傾げながらリビングを歩き回っていると、電話台の上にメモが置いてある事に気づいた。
慌ててメモを手に取って読みあげる。
「7:00発の友楽町線で銀座までミュージカル観に行ってきます。父&母より…聞いてないし。」
俺はため息をついて、メモを投げ捨てた。その時だった。
「サクト!九瀬サクトはいるか!いたら返事をしろ!」
表から男性の叫び声が聞こえた。俺はハッとした。この声には聞き覚えがあった。すぐに近くの窓に駆け寄り、勢いよく開けはなった。
その瞬間、鼻をつく異臭と目を疑う光景が飛び込んできた。
向かいの家に突っ込んで大破した乗用車。フロントガラスがめちゃくちゃに割れ、車体は真っ黒に焦げている。車内には運転手と見られる人間がまだハンドルを握ったまま息絶えている。ぶつかった衝撃と、おそらく燃料の爆発によってか、遺体は皮膚がただれて原型を留めていない。
それだけではなかった。家の前の広いバス通りには幾つもの車両が不自然に乗り捨てられており、バンパーが曲がっていたり、ボンネットがひしゃげているものもある。
さらに目を凝らすと、路上には何かよく分からない物体がいくつも散乱しているように見えた。ぼろぼろで汚い布のような何か。それはおびただしい数の死体だった。ほとんどは皮膚がベロンとめくれて骨肉が露出している。異臭の正体はこれだったのだ。生臭い血液の匂いにまじり、肉が腐食したような嫌な匂いがした。俺は吐き気がこみ上げてくるのを必死でこらえた。
俺は狼狽した。これは本当に現実に起こっている事なのか?たった一夜だけでこんな事になってしまったなんて信じられない。一体何があったんだ?
「サクト!いないのか!」
さっきと同じ声がした。途端に俺の脳は覚醒する。俺は裸足のまま、無我夢中で外へ駆け出した。
「タクマ!俺だ!」
家の前には自転車に乗った幼なじみの井出タクマ、”デンタク”がいた。こちらの姿を確認すると、固く強張っていた表情が緩んだ。良かった。いつものタクマだ。そう思うとなんだかホッとした。
「サクト、ああ‥本当に君なんだね?」
タクマはいつになく感極まった様子で言った。‥泣いてる?
「‥ああ。」
俺は言葉に詰まった。まず何から聞いたらいいのか分からない。俺が戸惑っていると、
「怪我は無さそうだな‥話はあとだ。移動しよう!」
「え!?」
「荷物をまとめて来るんだ。じきにヤツらが来る!」
そう言うと、タクマは俺を無理やり回れ右させた。何をそんなに慌ててるんだろう。まるで何かに怯えているようだ。
「あの‥タクマ?」
俺が恐る恐る話しかけたその時、タクマが突然あっと叫んだ。30メートルほど離れたバス停の方を食い入るように凝視している。
「来た。」
タクマが小さな声でつぶやいた。心なしか、その声は震えているように聞こえた。俺はわけもわからず、とりあえず同じ方向に目を凝らした。
複数の死体が無惨に転がるアスファルトに、一つ歩く人影が見えた。よたよたと不可解な足取りでうろついている。顔までは見えないが、負傷しているように見える。
「人だ‥。」
タクマの方を向くと、彼はひどく青ざめた顔で言った。
「違う!あれは肉食の化け物なんだ!人間じゃない!急いで戻って靴を履いて荷物をまとめて来るんだ。自転車も忘れずに。いいね?」
確認されたが、俺には早口すぎてさっぱりわけが解らなかった。
「落ち着けって、全然わかんねえよ。なあ・・教えてくれよ。化け物って何だよ?どうなってんだよ?」
俺はタクマの服を掴んで激しく揺さぶった。すると、彼は突然興奮したように俺の顔を覗き込んだ。
「そんな場合じゃないんだ!いいから今は僕の言うとおりにしろ!!」
鬼気迫る面持ちでこちらに訴えかける彼を見て、俺は思い出した。そういえばこいつ、昔からこんな風に急に命令口調になる事があったな。そんな時は決まって何かヤバいアクシデントが起こった時だっ。こいつはいつもそれに真っ先に気づいて・・。
俺は静かに頭を下げた。
「取り乱して悪かった。お前を信じるよ。」
俺がそう言うと、タクマは少し安心したようで、わずかに微笑んだ。
家に戻ると、俺は旅行カバンを広げた。なんだかよくわからない事態だけど、タクマによると一応避難所みたいな場所があるらしい。やっぱりこれは災害なのだろうか。化け物ってなんだろう?ただの人影にしか見えなかったが・・。
いや、考えるのは止そう。ヤバい状況なのは確かだ。急がなければ。
携帯、財布、定期入れ、毛布、防災袋。必要なものはとりあえずこんなところか。あとは適当に漫画とかゲームとか暇を潰せるものを入れておこう。避難所はとても退屈だって聞いたことがある。俺は棚に積んである娯楽用品を漁りはじめた。うーん、なんとも煮え切らない。外の光景は凄惨だったけど、一歩家に入ってしまうとそうでもなくなってしまった。
俺は持っていくものを再度整理しようと思い、カバンを開いた。持ち上げてみたとき結構重かったし、自転車に乗って移動するならもっと軽くする必要がある。俺が頭を悩ませていると、突然、窓の外から耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
今のはタクマの声だ!彼に何かあったのかと、俺は窓に駆け寄った。
俺は絶句した。そこから見えた光景は恐いとか、そんな生易しいものではなかった。タクマが狂ったように逃げ惑っている。その後ろには、数人の人影。しかし、生きている人間には見えなかった。
青ざめた肌、腐って骨が露出した腹部、全身には無数の引っかき傷や歯型のような傷跡が生々しく刻まれている。表情は虚ろで、目は焦点が合っていない。首筋には血管が浮き出ている。
彼らはふらふらとした足取りでゆっくりと、しかし確実にタクマに迫っている。タクマはバス停とは反対側に走っていた。しかし、その先にはさらに多くの死体が待ち受けていた。
俺は反射的に走り出していた。