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兄の魂

(どうした?)

 小本が目で聞いてきた。タクマは慌てて“何でもない”というふうに首を振った。

 7号の声が途切れた。7号の身に何かあったのだろうか。容態が悪化して意識を失ったのか。もしくは、駐輪場に通常種や新たな変種が現れたのか。そうなると、サクトの身にも危険が迫っている事になる。しかし、いずれにせよ、このまま引き返すわけにはいかなかった。もともと最悪のケースとして想定していた事だ。きっとサクトは自分で何とかするだろう。

 スポーツセンターに入ってからどれくらいの時間が経過しているだろう。タクマはわからなくなっていた。普段ならある程度は無意識に見当がつくものだが、今はとてもそんな余裕はない。

 2人は2階への階段の途中にいる。7号の説明では、3階の小さな部屋に僅かだが複数の生命の反応があるという事だった。しかし、それ以上の詳細はわからない。館内の敵の数はそう多くないという事だったが、未確認の変種の反応も感じられるという。万が一出くわした場合は逃げるしかない。

 7号はマルカ堂を出てから急に身体の具合が悪くなったが、どうやら第六感覚である精神感応能力も衰えているようだ。建物内の様子も十分に教えてくれない。彼女はやや強がりといった傾向があるため、彼女が故意に教えていないわけではないという事は分かっていた。しかし、真っ暗な中を丸腰で進むのには勇気が要った。敵を視認するにはかなり近くまで敵が来ないといけない。それでは手遅れだ。タクマは周囲のささいな音にも細心の注意を払った。

 そして今、さらに状況は悪くなった。7号のナビゲーション無しでこの暗闇を進む?我ながら、自分の無謀さがおかしい。自分は常に幾つかの手段を確保しておく性分だが、今回は何の策も用意してなかった。サクトなら、こんな時にどうするだろう。彼は、策が無い絶望的状況から予想もつかない活路を見いだす事がよくある。たぶん、昔からそうだ。原っぱで鬼ごっこをしたあの頃から・・。

 ぼんやり考えていると、3階へと続く階段に着いた。ここまで、通常種には出くわさなかったが、今もどこかに隠れているはずだ。辺りには荒らされた形跡が目立つ。座椅子はあちこちに散乱しているし、ペットボトルや食品の容器などが幾つも転がっている。おそらくはここで生活していた避難者のものだろう。数から想像しても、結構な人数だ。これだけの人間が一体どこに行ってしまったというのだ。小本の話では、小本以外にも何組か逃げ出した人がいたかもしれないとの事だが、もしその中にユイがいたとしたら・・。

 ユイのことを考えると、胸が苦しくなる。あいつは今も不安と恐怖に震えているだろう。最後のメールから数日が経った。その間、この暗闇の中で息を殺して縮こまっているユイを想像すると、居てもたってもいられなくなる。あいつの傍には自分が居てやらなければならない。母子家庭に育った自分達は、母が働いている間はいつも2人きりだった。朝から晩まで、ユイの面倒を見るのは兄である自分だったから、ユイはいつも自分の後ろにぴったり付いて歩いていた。いつだって自分が守ってやっていたのに・・・。

 ガタッ。

 突然、後方で物音がした。タクマは反射的に振り返った。暗くて奥までよく見えないが、テーブルが倒れているように見える。食堂にあるような、背の高い丸いテーブルだ。コロコロと転がっている。

 何かがいる。タクマはそう判断した。小本と目配せ、ゆっくりと後ずさる。音を立ててはならない。おそらく、敵もこちらの姿までは確認できていないだろう。追跡者のように嗅覚が優れている場合もあるが・・。

 小本が右を指差した。どうやら、3階への階段があったようだ。意外に近くにあった、とタクマはホッとした。

 しかし、テーブルの倒れている場所からは微かに足音が聞こえる。ヒタ‥ヒタ‥。その音が近づいているのかどうかは判断できないが、かなり至近距離である事は間違いない。通常種はゆっくりとしか歩かないが、変種である可能性もあり得る。

 手すりに触れると、タクマは後ろ向きのまま、前後の両方を気にしながら慎重に登った。手が汗で滑りそうになる。辺りがあまりに静かなので、自分の心臓の鼓動がハッキリと聞こえてくる。呼吸すらまともにできない。しかし、帰りはこの道を通らない方がいい。外から見えた非常用スロープを使用した方が安全だろう。たしか、建物の北側に設置してあったはずだ。

 一歩ずつ階段を登る。踊場のまどから日差しが差し込んでいた。逆光でこちらのシルエットがむこうの何者かに確認されてしまうかもしれないが、進むしかない。

 光に照らされて、上の階の様子が少し見えた。特に何の変哲もない。廊下にはペットボトル等の人が存在した痕跡のような物は無く、床は滑らかな光沢を出している。

 小本がニヤリと微笑んだ。そして自分が先に行くというジェスチャーをしつ見せた。

 タクマは小さく頷いた。最上階に生存者の反応があると聞いた時は少し絶望しかけたが、ここまでは思っていた程の脅威は無かった。もしかしたら、敵の大半は1階の体育館に集まっているのかもしれない。避難者の多くはそこに集まっていると小本も言っていた。獲物となる人間の多い場所に奴らは集まるだろう。

「伊出くん‥。」

 小本が小声で話しかけてきた。

「ここまで黙って君に付いてきたけど、君は妹さんの居場所を知っているのか?」

 当然の疑問だとタクマは思った。

「はい…実は、妹は自分は3階の小さい部屋にいるとかメールで言ってました。どの小部屋の事を言っているのかは分からないのですが‥。」

 嘘をついた。今はややこしい説明をしている場合ではない。本当にその小部屋にユイがいるかどうかすらも分からないのだ。余裕などない。

「そうだったのか‥。闇雲に探してるわけじゃなくて安心したよ。しかし、どの部屋だろう。」

「数人が集まれる場所、心当たりありませんか?」

 小本は軽く首を捻った。

「スカッドボールの会場とかは狭いかもしれないな。」

 そう言って階段から右方向を指差す。幾つかの扉が並んでいる。木製の扉の部屋は弓道場だろうか。

「一番奥だな・・。」

「行ってみるしかありませんね。僕が先に行きます。」

 タクマは摺り足で歩き出した。真っ暗な廊下には音が無い。左を見ると、化粧室の向こうに明るい空間があった。窓から光がさしているようだ。

 右側に目を移すと、タクマは進み出した。この先にユイがいると思うと爪先が痺れたような気がしてきた。

 スカッドボール場の扉の前に来た。呼吸を整え、ノブを回す。僅かな雑音も立ててはいけない。しかし、ノブは引っ張っても開かなかった。鍵穴は外側にあるので、おそらく中には誰もいないだろう。

 小本に合図を送ると、彼は反対側の化粧室を指差した。確かに小部屋ではあるが・・。いや、可能性に賭けるしかない。

 ユイの性別も考慮し、タクマは女子トイレの方に入った。一方、小本は男子トイレに入った。何だろう、嫌な気配がする。薄暗い空間に、何者かがひしめき合っているような気配がする。個室のドアは全て閉まっていた。確認すると、鍵も閉められている。

 タクマは願いをかけるように目を瞑り、声をかけた。

「ユイ・・いるか?兄さんだ。」

 個室の中からガサガサッと音がした。タクマは息を呑んだ。

「あんた、生きてんのか・・・?」

 知らない男性の声だ。タクマは下唇をかんだ。

「はい・・。」

個室のドアが開いた。中からは、30代くらいの男と女が出てきた。男のほうは黒いダウンを着ていて、少し煙草の臭いがした。女は金髪で背が低く、胸元が大きく開いたTシャツを着ている。

「助かったわ。俺ら、ここの体育館に避難して来たんだけどさ、騒ぎ起こっちまってここに篭城してたんよ。」

 男がへらへらと笑うと、女はその場に座り込んだ。

「おい、なにやってんだよ。早くこっから逃げようぜ。」

 男が女の腕を掴んだ。すると、女は男の太腿にしがみついた。

「ああ~もう、マジあんたのせいだからね!あたしは早くバスに乗ろうって言ったのに、自販機壊すとかなんとか・・おかげであたしめっちゃ迷惑なんだけど。」

 女が大声を出したので、タクマは慌てて制止した。

「あの・・・あなた達の他に生存者は居ないんですか?」

「そうだった!女の子がね・・!」

 そう言いかけた女の口を、男が強引に塞いだ。女に対して目で何かを訴えている。明らかに不自然な素振りだった。空気がピリリと張り詰める。しかし、タクマは追求した。

「今、女の子がどうのって言いましたよね。どういう意味ですか?」

 タクマは2人を睨みつけた。女は男の様子をうかがったが、男は不自然なほどの無表情を続けている。タクマはその胸ぐらを引っ張った。

「答えろ。女の子とは誰の事だ!」

「ちょっと、何興奮してんだよ。」

 男が鼻で笑いながらそっぽを向いた。タクマは服を掴んでいた手を男の首に移した。

「え、何してんの?」

 女が言った。タクマはにんまりと笑った。

「単純なことだ。俺の手にはカッターナイフがある。護身用に携帯していたヤツだ。これでお前の動脈を切り裂くのはひどく簡単な事だって言っているんだ。その気になれば、一瞬の殺意でも十分だ。冷たい刃の感触がわかるだろう?」

 タクマは手に持った自転車の鍵を男の首に押し付けた。女からは見えないように手のひらで隠している。男の表情が一瞬で凍りついた。これでいい。相手が何をしでかすかわからないという恐怖心を植えつけさえすればいい。何としても、ユイの手がかりになりそうな事は聞き出さなくてはならない。

「イカれてんのか?」

「かもな。」

 沈黙の末、男は観念したように首を振った。

「女の子がいたんだよ。俺達と一緒に逃げ延びたんだ。」

「どんな子だ?細かい特徴を言え。」

 男は溜め息をついた。タクマはまだ手を離さない。

「小学生くらいじゃね?髪はショートだったな。たしか、黄色い服を着てた。名前は・・。」

 すべての情報がユイの容姿に当てはまっていた。すると、女が言った。

「伊出ユイ・・とか言ってた。」

 タクマは身が引き締まるような気がした。深呼吸をして、気持ちを落ち着けた。

「どこにいるんだ?」

「下の階に行ったよ。食い物探してくるんだってよ。」

 男はあからさまに顔を背けた。しかし、タクマにはこれだけで十分だった。

 さっきの下の階での物音はまさか・・・。タクマは、脳内に思いついたある唾棄すべき別の仮説を飲み込むのに必死だった。

「お前が・・命令したって事だな?」

「なあ、もういいだろ。早く逃げねえとヤバいんじゃねえのか?」

 男が話を変えてタクマの手に触れた瞬間、タクマは自転車の鍵を男の眼球に突き刺した。溢れた血液が指を伝う。男は悲鳴を上げて倒れこんだ。タクマはその腹を思い切り蹴りつけ、化粧室を後にした。

 男子トイレの前には小本の姿は無かった。まだ中に居る可能性はあったが、タクマは無視して2階へと駆け下りた。





「んぅ・・ふっ・・・。」

 7号が呻いた。俺は、その体をしっかりと抱き、できるだけ暖かくなるようにした。さっきから、7号は意識を失ったままだ。呼吸も苦しそうであり、一時も目が離せなかった。本当は、一刻も早くタクマたちを助けに行きたいが、この状況では諦めるしかなかった。

「じゃっく・・!」

 突然、7号がうわ言のように言った。一瞬、名前のようにも聞こえたが・・・。

「ジャック!」

 7号が叫んだ。今度はハッキリと聞き取れた。しかし、7号の両目は閉じたままだ。何か夢を見ているのだろうか。俺は7号の手を握った。

「はやく、来いよ・・・。みんな待ってるんだ。」

 7号がまた言葉を発した。こちらに対して問いかけているようにも思える。

「どうしたんだ・・7号!何を言ってるんだ?」

 俺は7号に呼びかけた。しかし、7号はそれっきり何も言わなかった。

 何だったんだろう。風邪で寝込んでいる時にうわ言を繰り返す事はあると聞くが、これもその一種だろうか。いずれにせよ、いま現在7号の容態があまり芳しくない事に違いは無い。だが、この状況では俺にはどうしようもないのも確かだ。こんな時に冷静なタクマが居てくれたらどんなに心強いことだろう。

 その時、遠くでガラスの割れるような物凄い音がした。音源を急いで捜すと、建物の南側のガラス戸が割れていた。そして、その向こうに見覚えのある姿があった。

「サクト・・!!」

 タクマが叫んでいる。割れたガラス戸の隙間から俺たちの姿を探しているのだ。俺は7号を置いて、そちらへ走った。

 非常用の通路だろうか。ガラス戸の付近にはバリケードを作った形跡は無い。

「こっちだ・・はやく出ろーッ!!」

 俺が呼んでも、タクマはもぞもぞと動くばかりで外に出ようとしない。何故だ!はじめ、俺には何故タクマがそうしているのかわからなかった。ガラス戸に近づくにつれて、徐々に彼の状態が確認できた。

 背後から数本の腕によって羽交い絞めにされ、タクマは必死にもがいていた。タクマの首筋に真っ赤な大口が噛み付いた。痛みに呻きながら、タクマは前かがみに倒れこんだ。背中を丸め、腹をかばうようにうずくまっている。その上から、数人の人影が覆いかぶさるように襲いかかった。

 それはまさに悪夢のような光景だった。気づけば、俺は無意識に走るのを止めて立ち往生していた。目の前の状況を飲み込めず、俺はあたふたしていた。

「サクトォオォーー!!!!」

 その時、タクマの恐ろしい絶叫が聞こえた。見ると、タクマはしきりに腹の下を示している。俺はタクマに駆け寄った。タクマの背後にいる通常種には目もくれず、ただ彼の腹の下に手を伸ばす。

 老婆の通常種が俺の腕に噛み付こうとした時、タクマがその頭を殴り飛ばした。しかし、老婆は今度はタクマの耳に齧り付いた。生温かい鮮血が俺の顔にかかった。

 俺はタクマの腹の下をまさぐり、細い腕を掴んだ。そして、そのまま渾身の力を込めて引っ張った。

 ユイちゃんだった。震えながら、声を出せずに泣いている。着ている黄色いパーカーは真っ黒に汚れていた。

 ユイちゃんを胸にしっかり抱きとめた俺は、タクマに手を伸ばした。

「頼んだ・・!ユイを頼んだ!!」

 タクマは歯を食いしばり、静かに首を振った。その目には涙が溢れていた。彼の背後から、新たな通常種がやって来た。タクマは恐ろしいうなり声を上げて立ち上がった。そして、自身の背中に噛み付いている数体の通常種を押し倒した。

「おい・・タクマ・・!!」

 叫んでいるうちに涙が込み上げてきた。

 タクマはこちらを振り返らなかった。ただ、俺とユイちゃんに背を向けて通常種と格闘していた。頭からはすでに大量の血液が流れ、服はどす黒い赤に染まっていた。しかし、彼は闘うのをやめない。そればかりか、こちらへ逃げようともしない。俺たちと彼との間には、ひどく距離があるように感じた。

「お兄ちゃん・・死んじゃうよ・・・はやく来てぇ・・!!」

 ユイちゃんは泣きじゃくりながらタクマを呼んでいた。

「おおい・・馬鹿やろう!!タクマ、タクマァァ!!!」

 俺は力の限り叫んだ。何度も何度も、声が嗄れようが関係なかった。目の前でボロボロに崩れていく親友を放っておけなかった。どうして彼がそれに答えてくれないのか理解できなかった。まだ彼は生きている。急いでこちらへ走れば奴らから逃れる事だってできるはずなのに・・。

 今まで、タクマは俺が呼べば必ず応じてくれた。たとえ妹の身が心配でも、危険な手段だとわかっていても・・。俺はそれが当たり前だと思っていたのかもしれない。自分の事しか考えずに、彼に甘えていたんだ。タクマはいつだって俺なんかより状況を深く理解していた。それなのに俺は・・・。

「生きろ!生きろおおぉぉおおおお!!!!」

 タクマは通路の奥へ走っていった。

 その時、俺はこれが彼との別れなのだと悟った。

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