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スポーツセンターへ

 マルカ堂を脱出した俺たちは、スプリンターの停まっている場所まで戻った。

 これから当分は歩きで移動する事になるので、持っていく道具は限られていた。地図や水筒、懐中電灯などをリュックに詰め、俺に会う前にタクマが集めた防災グッズと一緒にした。

 しかし、大した食料は無く、2日間保てば良い方だった。それに加え、7号の体調も楽観視出来なかった。たまに呼吸が苦しそうになり、水を欲する。彼女のためにも、いち早く安全な場所を探さなければならない。俺たちは焦っていた。

「レミントンは置いていくしかないな。」

 愛銃を握ったタクマが首を振った。確かに、長い銃身は携行するには不便かもしれない。でも、昔からタクマが特別大事に手入れしてきた代物だ。

「お気に入りなのに勿体無いだろ。それに、結構役に立ったじゃねえか。」

 一時的とはいえ、追跡者を撃退したのはこの銃だ。現在ある唯一の武器でもあるし、捨ててしまうには惜しいのではないだろうか。

〈その銃はお前だ、お前が持っていけ。〉

 スプリンターのボンネットに横になっている7号が俺に言った。タクマが上から制服のブレザーを被せてやり、服も体育着を下着代わりに着せて暖かくしている。それまではぶかぶかのYシャツをぺろっと一枚身に付けているだけだったので、外の寒さに耐えるにはさすがに無理があった。

 ボンネットの上でミノムシのように服にくるまって寝ている7号を見ていると、俺もつい表情がほころんだ。レナに瓜二つなだけあって、幼いながらも整った顔立ちをしている。こんな少女が変種だなんて、正直今でも信じられない。

〈荷物は全てお前が運べ。〉

「えーっ!」

 俺は思わず不満の声を上げた。

「悪い。僕は7号さんを負ぶさるから、荷物までは持てそうにないよ。」

 それは分かっているんだがなあ・・。俺はため息をついた。

 でもまあ、この状況じゃ仕方ないか。いつ敵に襲われてもおかしくない今、荷物の重さなんて気にしている場合じゃない。

 俺はリュックに手をかけた。中身がパンパンに詰まったグレーのスポーツリュックはずっしりと重かった。背負うと、危うく後ろによろけそうになるくらいだった。

「よし!じゃあ移動しようぜ。」

 すると、タクマが真っ先に手を上げた。

「提案なんだけどさ、まずは東久留米スポーツセンターに行かせてくれないかな?」

 そういえば、追跡者に遭遇する前はスポーツセンターを目指していたんだっけ。俺は思い出した。

「ああ、たしか、避難所があるんだっけ?」

「うん・・。」

 すると、タクマは急に暗い顔をした。唇を噛みしめ、俯いている。

「タクマ?」

 俺が聞くと、タクマは慌てたように首を振った。

「いや、何でもないよ・・!あそこならきっと安全だろうなって思って。」

「そっか。ならいいんだ。」

 とは言っても、タクマのこの不自然な挙動は何だかひっかかった。

〈その場所は本当に安全なのか?〉

 7号が言った。

「うん。携帯が繋がってた頃、そこに避難してる知り合いから連絡があったんだ。数十人で集まってバリケードみたいな物を作ってるって言ってた。」

「へぇ!じゃあかなり安全そうじゃん。」

「ああ。」

 タクマは頷いた。

 俺は7号の方を向いた。

「文句ないだろ?お前も早く落ち着いて休める場所に行った方がいい。」

 すると、7号は少し考え込むような仕草をした。

〈そこが今も安全だとは限らない。その場所に着く前に敵に遭遇する危険性もある。〉

「いや、ここから近いし大丈夫だと思う。ガムシャラに放浪するよりは安全じゃないかな。」

 確かにな、と俺は思った。俺としても、出来るだけ早く座って休める場所に行きたい。それに、何と言ってもお腹が空いた。今朝は朝食だって食べなかったし、あんなに激しく動いた後は腹も減る。どうせなら、マルカ堂でくすねてくれば良かった。スナック菓子やカロリーメイトなら腐ってはいないだろう。ああ、想像したら余計に腹が減ってきた。

 その時だった。

〈何か来る・・!〉

 ボンネットで寝ていた7号が、突然酷く焦った様子で言った。

「何だって!?」

 俺は7号を見た。

 彼女は目を固く瞑って集中しているように見えた。第六感覚を使って神経を周囲に集中させているのだ。

〈動きが速い。それに大型だ。しかし、それ自体は生物ではない・・・?〉

 7号は苦悶の表情でブツブツと呟いた。しかし、言葉は余りに断片的で謎解きみたいだ。

「こっちに来てるのか?隠れた方が良いんじゃないか?」

 俺はあたふたしてタクマに言った。

「この場所じゃ無理だよ!7号さん、いったい何が来るんだ?」

 しかし、7号は険しい表情のまま黙っている。額からは大量の汗が流れ、顔色も悪い。かなり辛そうだ。

 その時、かなり遠くの方から微かに自動車のエンジン音のような音が聞こえてきた。そして、それはだんだんハッキリと聞こえるようになってきた。

 タクマもそれに気づいたようで、その方向を向いた。

 音はマルカ堂の反対側から聞こえていた。俺たちがスプリンターで走って来た方向だ。真っ直ぐ伸びる道路の先に、一台の白いマイクロバスが確認できた。

「サクト、車だ。きっと避難者だよ!」

 興奮したようにタクマが言った。

「ああ・・本当だ。」

 そうは言ったものの、俺はある種不思議な感覚を覚えていた。ここに至るまで嫌と言うほど非日常的な光景を見せつけられ、今もまさに凄惨な光景が広がるこの状況にやって来た一台のマイクロバス。きっとあの車内には何人かの生存者が乗っているに違いない。生きている人間に会うのは久しぶりな気がした。

 しかし、何故だかそれが周囲の景色と噛み合わない。当たり前のようにマイクロバスが走っている事が、とても信じられない事のように思える。

 マイクロバスは速度を一定に保ったまま、どんどん近づいてくる。

 タクマは手を大きく振った。

「むこうも手を振ってる!僕たちに気づいたんだ。」

 見ると、マイクロバスの窓から黄色いタオルが振られていた。

 クラクションが鳴った。

「おーい!」

 低い男の声がした。続いて、窓から数人の男女が顔を出した。性別はバラバラだが、年齢はいずれも60代前後に見える。

 マイクロバスはスプリンターの近くに停まった。

 運転手の男性が慌ただしく降りてきた。

「君たち、大丈夫か!?」

 背が高くて体育会系っぽい運転手は、他の人に比べるとかなり若い。彼はこちらに歩み寄って来たが、突然、腕で鼻を覆った。

「あ・・すみません。ちょっとワケがあって、お酢が体にかかってしまったんです。」

 タクマが恥ずかしそうに答えた。すると、男は一瞬怪訝そんな顔を見せたが、すぐにホッとしたようで微笑んだ。

「そうか・・いや、こちらこそ失礼。君たちもいろいろ大変だったようだな。しかし、こんな所に居ては危険だぞ。早く私たちの車に乗りなさい。」

 後半部分の勢いに、俺もタクマも目を白黒させた。

「ちょ、ちょっと待って下さい!すみません・・失礼ですが、あなた方は何の団体なんですか?」

 タクマが尋ねると、男は「ああ、そうか。」と謝った。

「私は小本です。市が主催する卓球教室の講師をしていてね。こちらの皆さんはそのメンバー。まあ、それ以外の人も混じっているんだが。」

 小本は、車内を示すと、窓から顔を出していた何人かが会釈した。

 タクマも俺たちに関して簡単に自己紹介した。7号については、どういう訳か俺の妹として紹介した。

「実は車のガソ・・いや、僕たち、これから歩きでスポーツセンターまで行くんです。避難所があるそうなので、皆さんも一緒に行きませんか?」

 無免許運転をしたという事実は、やっぱり隠して置いた方がいいかもしれない。タクマはその点を言いかけたが、なんとかごまかした。

 すると、小本は突然黙り込んだ。車内の人々も、何故だか妙にそわそわしている。何だろう、この嫌な空気は。

「どうしました・・・?」

 俺は不信に思って尋ねた。

「お兄ちゃん、東久留米スポーツセンターの事を言っているのなら、あそこは行かない方がいいよ。」

 車内から一人の老婆が言った。黄色いタオルを振っていた人だ。

 小本は下を向いたまま黙っている。明らかに気まずそうな雰囲気だ。

「すみません・・。それは、あの・・・どういう意味ですか?」

「ちょっとトラブルが起こったんだ。それで、私たちはあそこから逃げて来た。」

 小本が答えた。

「トラブルって、いったい何が起こったって言うんですか!?」

 タクマが小本の服の首もとを掴んだ。珍しく冷静さを失っている。

 小本は車の方をちらと見ると、やがて押し殺したような声で話し始めた。

「あの時は場が酷く混乱していて、私も詳しい事はわからない。これはあくまで推測なんだが、おそらく、避難者の中にあれが混じっていたのだ。大きな混乱が生じ、逃げようとする人たちによってバリケードも破られてしまった。」

 小本は一旦そこで言葉を切った。不可解な説明だったが、俺にはすでに意味が分かっていた。

〈あれがいたとはつまり感染者が混じっていた、という事か。〉

 長い間黙り込んでいた7号が突然口を開いた。

〈それが通常種か、変種か。まあ、そんな事はどうでも良い。ただし、これでもうその場所へはもう行けなくなったな。〉

「待って下さい!避難者の中に感染者がいたって事ですか?それじゃあ、避難していた人たちはどうなったんだ!」

「タクマ落ち着け!」

 俺はタクマの肩を掴んで止めた。タクマは声を荒らげて、明らかに取り乱しているようにみえた。友達の安否が心配なのは無理もないが、こんな事をしていても仕方がない。

「友達はきっと大丈夫だって。今すぐ助けに行こう!」

「女の子・・・・小学生の女の子を見ませんでしたか!?短髪で背も低いんですが!」

 タクマはバスの人たちに問いかけた。しかし、誰も何も答えない。

「すまない。あの時は逃げる事に夢中で、よく・・・。」

 小本がそう言うと、タクマはがっくりと膝を折って倒れた。俺は慌てて声をかけたが、彼には聞こえていないようだった。

 俺は驚いた。彼の目には涙が浮かんでいた。

「タクマ・・?」

 タクマはぎゅっと固く目を閉じ、歯を食いしばっていた。僅かに体を震わせて泣いている。

 やがて、タクマは震える声でぽつりと言った。

「友達じゃないんだ・・・友達じゃないんだよ。あそこにいるのは、ユイなんだ・・・。」

 俺は言葉が出なかった。冷たい手で心臓を掴まれたような感触がした。

 どうして今まで忘れていたんだろう。タクマにはたった一人の妹がいるのだ。今年小学三年生になる妹が。

 彼の家に遊びに行く時、いつも軽く見かけるくらいだけど、はっきり顔は覚えている。昔から、タクマはいつだって妹の事を本当に気にかけていた。地域の夏祭りなんかの時には、ユイちゃんの手を引いて必ず一緒に来ていた。

「僕は最低の兄だ!僕がもっと早く助けに行っていれば・・・くそッ!くそッ!」

 タクマは自分の膝を殴り続けた。

 俺は胸がキリキリと締めつけられるようだった。

 タクマがユイちゃんの事を今まで忘れていたはずがない。おそらく、タクマはずっと前から彼女を助けに行きたかったのだろう。行かせてやれば良かった。それなのに、俺は彼を無理に引き止めてしまった。マルカ堂で、タクマはあんなに反対していたのに・・・。全て俺の責任だ。

 常に他人を慮る性格をしている彼の事だ。俺の家族が行方不明だから、自分だけわがままを言うわけにはいかないと遠慮していたのかもしれない。

 いずれにせよ、俺はなんて馬鹿だったんだろう。俺は拳を握りしめた。

「お・・あの・・。」

 考えもなく口に出しかけた言葉は弱々しく消えた。

 駄目だ。言葉が見つからない。俺の心に罪悪感がさらに重くのしかかる。

「そうだったのか・・。妹さんが・・。すまない。」

 そう言ったのは小本だった。

 それから小本は何やらぶつぶつと下を向いて呟き、くるりとバスの方に向き直った。

「古館さん、たしか車の運転できましたよね?」

 小本はマイクロバスに向かってそう言うと、車内に戻っていった。俺には彼が何を考えているのか分からなかった。

「できるけど、それがどうかしたんですか、先生?」

 車内の奥から、驚いたような男性の声がした。

「車の運転をお願いしたい。僕は・・・この子たちと一緒にスポーツセンターにもどります。」

「なんだって!?」

 俺は素っ頓狂な声を上げた。こいつはいったい何を考えているんだ?さっきまで危険だとか言っていたのに、どうして突然・・・。バスの人たちもざわめいた。

「何を言ってるんですか、先生?」

「馬鹿な事言わないで下さいよ。」

「我々はどうなるんですか、ねえ、先生!」

 すると、小本は大きな声で彼らに言い放った。

「彼らを放ってはおけません!僕は彼らと一緒に助けに行きます!そうするべきだと思うんです。」

「そんな・・・!私たちはこれからどうすればいいんですか?」

 車内からはまた次々に不安そうな声が上がった。それに対し、小本は強い口調で、しかしすまなそうに答えた。

「皆さんには本当に申し訳ないです。ですが、皆さんはこのまま八国山方面に向かって下さい。なるべく道路が広くて、人通りも少ない安全な所へ。」

 しかし、車内の反論は止まない。抗議するものや今にも泣き出しそうな人もいる。当たり前だ。こんなタイミングでリーダーを失う事への恐怖はこの先への不安も生む。

 とうとう小本は仕方無さそうに彼らを無視して、再び車から降りてきた。彼は小さな黒いウエストポーチを腰に巻きながら、タクマに歩み寄った。タクマは顔を上げており、ただただ目を丸くして呆気にとられていた。

「伊出君、涙を拭きなさい。君の妹さんは必ず生きている。一緒に助けに行こう。」

 小本はにっこり笑った。

 タクマは感極まったのかまた少し涙ぐみ、かぶりを振った。

「・・・でも、巻き込むわけにはいきません。」

 小本は首を振った。

「気にするな。こういう時はお互いに助け合おう。」

 急な展開だ。俺はまだついて行けていなかった。

「こ、小本さん、本当に来てくれるんですか?」

 俺は思わず聞いてみた。

「ああ。君たちだけでは危ないからな。私も同行する。」

 小本は振り向いた。

 悪い人には見えないし、頼もしいかもしれないが、この人が7号の秘密を知ったら間違いなく面倒な事になるだろう。その点はどうにか隠さなければならない。とはいえ、隠していては彼女の能力を頼りにできない。これは少し厄介だ。

〈何故だ。何故わざわざ危険な場所に行く?〉

 噂をすればだ。俺は頭の中で返事をする事にした。

(あそこにタクマの妹がいるからだよ。助けるんだ。当たり前だろ。)

〈お前は本当にそう思っているのか?〉

(どういう意味だ?)

〈さっきあの男から聞いた情報から判断して、生きている可能性は・・・〉

(やめろ!)

 俺は7号を睨んだ。

(生きてる。まだ生きてる。例えどんなにヤバい状況でも、俺たちがこの目で確認するまでは分からない。そうだろ。)

 すると、7号は眠そうに目を瞑った。

〈私には理解できない。少ない可能性のために、何故命を危険にさらすのか。〉

(当たり前の事だ。)

〈お前たちの“当たり前”はよくわからない。しかし、これだけは忘れるな。お前の判断は私の命を道連れにしているのだ。〉

 そう言ったきり、7号はもう喋ろうとせず、やがて眠りについた。




「小本先生、どうしても行かれるんですか?」

 バスの窓から、太った老婆が言った。小本は険しい表情のまま静かに頭を下げ、運転席の古館に見た。

「任せて下さいよ。安全運転でみんなを守りますから。」

 古館は明るく笑ってみせた。

「本当にすみません。よろしくお願いします。」

 小本はまた頭を下げた。

「謝る事ないですよ。先生たちもどうかお気をつけて。」

 古館は右手の親指を立てて見せた。

 マイクロバスはゆっくりと動き出した。車内からはまだ不平も聞こえたが、何人かはずっとこちらに手を降り続けていた。

「さあ、行こう。」

 マイクロバスが見えなくなった後、小本が低い声色で言った。

「はい。」

 俺たちは同時に応え、歩き始めた。タクマはもう泣いてなどいなかった。背には7号を負ぶさり、だいぶ落ち着いている。

「タクマ。」

 俺は声をかけた。どうしても謝っておかなければならない事があるのだ。

「何?」

 俺はタクマの目を見た。泣きはらした目のまわりがほのかに赤い。俺は、何度も彼の目から目をそらしたくなるのをこらえた。

 俺が口を開きかけたその時、

「そういえば伊出君。妹さんの服装とか、容姿に関する特徴があれば教えてくれないか?」

 小本が口をはさんだ。タクマは一瞬、俺の顔色を窺ったが、俺は黙って頷いた。

 タクマは小本に向き直った。

 同時に俺は俯いた。謝るタイミングを失ってしまった。でも、かえって良かったのではないだろうかとも思え、内心軽くホッとしてもいた。なんとか持ち直したタクマに、また暗い話題を持ちかけるのは不謹慎だ。今はこの空気を乱してはいけない気がした。そうだ。また後で言えばいい。ユイちゃんを助けた後で、改めて謝ろう。

 俺たちは、スプリンターで通った道を少し戻り、なるべく広い道を選んでスポーツセンターに向かった。途中、何度も通常種を見かけたが、遠くに見えるだけで追っては来なかった。それにしても、生きている人間は全く一人もいない。昼間なのに凍りついたように静まり返った街の様子は、普段とさほど変わらないように見える。街路樹や標識、建物だって荒らされていないものの方が多い。人間だけが景色から切り取られているようだ。

 乗り捨てられた車があれば拝借させてもらおうかと軽く思っていたが、そんなに都合よく転がっている車は無かった。

 また、7号はまだ眠っているらしかった。さっきからずっと話しかけてこないし、本当に眠っているのかもしれない。7号のサポートが無いのはかなり不安だが、具合が悪いのは心配だ。スプリンターの所で水を飲んでいたが、苦しそうにして呻く原因はまだ分かっていなかった。彼女の身体の事も考えて、なるべく早く安全な場所に行かなくてはならない。

 でも、そもそも安全な場所なんてあるのだろうか。どこもかしこも通常種や変種だらけ。彼らの脅威から完全に逃れられる場所なんて、本当にあるだろうか。

 いや、考えるのは止そう。今そんな事を考えたって仕方がない。ユイちゃんを助ける事に集中しよう。

 



 やがて、黒目川を越えると、いよいよ東久留米スポーツセンターが見えてきた。黒目川は東久留米を代表する川で、下流では荒川に合流している。幅は狭く、割と浅い。飲み水に困った時の最終手段に使えそうだ。ここから上流に向かって少し行くと、落合川との分岐点に出る。この場所なら俺も知っていた。

「いよいよだな。」

 小本が呟いた。俺は身が引き締まるのを感じた。

「はい。建物の中へは僕と小本さんで入りましょう。」

「え?」

 俺が驚いていると、タクマは説明した。

「サクト、君には外で7号さんの様子を見ていて欲しい。」

 続けて、タクマは小声で囁いた。

「7号さんに、中の状況を外から教えてもらいたいんだ。どのみち、一緒には連れていけないからね。」

 タクマは7号に目をやった。なるほど、彼女の能力の援助があればいくらか安全かもしれない。

「でもさ、俺だけ安全地帯にいるなんて・・・なんかすっきりしないんだが。」

 すると、小本が諭すように言った。

「いや、なるべく少ない人数で行った方がいいだろう。中では何が起こるかわからないからな。」

 そんな事はわかっていた。ただ、自分だけ安全な場所に避難している事がひどく悪いことのように思えたのだ。

「サクト、大丈夫だよ。」

 俺の気持ちを察してか、タクマが声をかけてきた。

「外で待っててくれ。すぐに戻るさ。」

 タクマは爽やかな笑みを浮かべた。俺は一応頷いたが、やはり心配だった。7号のサポートがあるとはいえ、敵に囲まれたら一巻の終わりだ。館内は電気が切れていて暗いだろうし、逃げるにしてもかなり困難だと思う。

 だが、彼には行かなければならない理由があるのだ。どんな危険も、ユイちゃんの命には代えられない。彼にはもうその覚悟ができている。

 そうこうしているうちに、俺たちは東久留米スポーツセンターに到着した。

 駐車場にはたくさんの車が停まっている。銀色をした建物の外観に異常な点は見られない。外壁に取り付けられた螺旋状の避難スロープも、使用された形跡はない。辺りは不気味なほどの静けさに支配されていた。

 駐車場を通り、駐輪場を過ぎると、正面入口に来た。3つ並んだガラス戸の両端は大きく割られ、真ん中のガラスの奥には傘立てや長椅子が立て掛けられていた。おそらく、これが小本の言っていたバリケードだろう。しかし、ここからでは中の様子はそれ以上はよく見えなかった。

 タクマは7号を下ろし、地面に寝かせた。俺は駐輪場のそばに荷物を置き、そこで待つことにした。

 ふと見ると、タクマは7号の耳元で何かを囁いた。すると、7号は弱々しく頷いた。

「じゃあ行きましょう。」

 タクマが小本に言った。小本は黙って頷き、入り口右側の戸に身体を滑り込ませた。続いてタクマも戸に近づく。

 その後ろ姿を見ていた俺は、堪えきれずに押し殺した声で言った。

「絶対に戻って来いよ。」

 俺が呼び止めると、タクマは僅かにこちらを振り返り、ニヤリと笑った。




「7号、タクマたちは今どこにいるんだ?」

 俺は駐輪場の屋根の上で7号を抱きかかえながら、彼女に聞いた。タクマたちが中に入ってからもう随分時間が経ったように感じる。

 あれから7号は黙ったまま集中しているし、俺はずっとそわそわしていた。

 タクマたちは無事だろうか。ユイちゃんはまだ生きているのだろうか。そんな事を考えていると、俺は気が気じゃなかった。

(黙れ。集中できない。)

 7号が言った。額には玉のような汗が光っている。さっきから、彼女の様子は明らかにおかしい。呼吸も乱れており、咳き込む事も増えた。

 俺はリュックからタオルを取り出し、彼女の汗を拭いた。できれば早く休ませてやりたいのだが、今はそうもいかない・・・・。

その時だった。

 苦しげにふらふら揺れていた7号の頭が、突然、ガクリと脱力したようにうなだれた。

 一瞬、あまりに唐突な出来事に、俺は何がなんだか分からなかった。しかし、7号の顔を見た瞬間、俺は激しく狼狽した。

 7号は、白目を剥いて痙攣していた。口は半開きの状態でぱくぱくしている。

「お、おい!どうしたんだよ!7号!聞こえるか!」

 俺は7号を揺さぶった。しかし、7号は全然反応を示さない。

 今度は、頬を弱く叩いてみた。すると、俺は7号の頬がものすごく熱い事に気づいた。さらに、7号の顔色がみるみるうちに青ざめてきた。

 俺は唇を噛んだ。まるで悪夢のようだった。いきなり気を失うなんて、いったい7号の身に何が起きているのだ。

 俺はどうすればいい!このままではタクマたちに7号からの情報が届かない。そうしたら・・そうしたら・・・!最悪のビジョンが浮かび上がる。俺は頭にどんどん血が上るのを感じた。

 落ち着け。冷静になって考えるんだ。俺は頭をかきむしった。しかし、考えようとすればするほど、頭の中がごちゃごちゃして回らなくなってきた。

「タクマーーー!!!」

 俺は彼の名を呼んだ。絶叫は虚しく響いた。

 しかし、スポーツセンターは依然として残酷な静寂に包まれたままだ。外からでは中の様子など全く分からない。

 俺は拳を固く握りしめた。中はどうなっているんだ。もしかしたら、夥しい数の通常種に追われているかもしれない。畜生!助けに行くか?俺の頭にそんな考えが浮かんだ。いや、今7号のそばを離れるわけにはいかない。

 考えろ。考えろ。何か方法があるはずだ!


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