神様、予算がありません
ハルが天界に着任して最初に渡されたのは、辞令でも、白い装束でも、後光の使い方の手引きでもなかった。
一枚の、ぶ厚い帳簿だった。
「これが今期の奇跡予算です」
受付の女神は事務的にそう言って、判を押すための朱肉をすっと差し出した。爪の先まで完璧に整った、けれど少しも笑っていない顔だった。
「予算……ですか」
「ええ。奇跡には予算があります。無限だと思っていました?」
思っていた。正直に言えば、心の底からそう思っていた。神様というのは、願えばなんでも叶えてくれるものだと──少なくとも、地上にいたころのハルはそう信じていた。だからこそ、新しく神になれたと聞いたとき、まっさきに思ったのだ。
(これで、みんなを幸せにできる)
合格しますように。あの人と結ばれますように。病気が治りますように。お金が欲しい。世界が平和になりますように。地上から立ちのぼる無数の祈りの一つひとつに、ハルは「いいよ」と答えてあげるつもりだった。全部、叶えてあげるつもりだった。
だが、帳簿の最初のページを開いて、ハルは固まった。
数字が、あまりにも小さかった。
「あの、これ……桁が、足りていないのでは」
「足りています。今期も例年どおり、厳しく組みました」
「でも、地上からは毎日……」
「数十億件です。今日のぶんだけで、ね」
受付の女神は、ようやく少しだけ表情をやわらげた。憐れみに似た、けれど慣れすぎてもう乾いてしまった種類の、やわらかさだった。
「ようこそ、奇跡課へ。あなたの席は、いちばん奥です」
奇跡課の朝は、会議から始まる。
長い長い机の上座に座るのは、局長だった。眉間に深いしわが刻まれ、肩には万年の疲労が乗っているように見える。けれど目だけは、不思議と澄んでいた。何千年ぶんもの祈りを裁いてきた目だ、とハルはあとで知ることになる。
「では、今期第二四半期の配分会議を始める」
ぱん、と乾いた音がして、巨大な円卓に光の図表が浮かび上がった。色とりどりの帯が、円を分け合っている。受験、恋愛、健康、金運、災害、世界平和──地上の祈りが、ぜんぶ面積になって、そこにあった。
そして、どの帯も、ハルが思っていたよりずっと細かった。
「まず受験枠だが」と、健康そうな顔をした担当神が口を開く。「今期は例年比で祈願件数が三割増だ。少子化だなんだと言うわりに、一人ひとりの祈りが濃くなっている。親も、本人も、塾の先生まで祈ってくる」
「困りましたな」と局長。「で、どこから引く」
「……恋愛枠から、少々」
会議室がざわついた。恋愛担当の女神が、はっと顔を上げる。
「困ります。春は出会いの季節ですよ。ここで削られたら、成立件数が前年を大きく割ります」
「割ってもらうしかない。受験に落ちれば人生が変わる。だが恋に破れても、人は案外、生きていく」
「身も蓋もないことを……!」
「身も蓋もないのが、この仕事だ」
局長はため息をついて、次の議題を指でなぞった。
「次。自然災害枠」
今度は、ひどく疲れた顔の神が立ち上がった。台風と地震を兼任しているのだという。
「先月の大型台風で、ほぼ使い切りました」
「ほぼ、とは」
「正確には、使い切りました。あの規模の高潮を逸らすのに、半期ぶんの奇跡を一晩で投入しています。あれをやらなければ、沿岸の町が二つ、海に消えていました」
「……やむを得んな」局長は静かにうなずいた。「よくやった。残りの半期は、祈ってもらうしかない」
「祈ってもらう、しか」
「祈ってもらう、しかない」
ハルは、いちばん奥の席で、口をぽかんと開けていた。
ここに集まっているのは、全能の神様のはずだった。指を一本鳴らせば嵐を止め、病を払い、死者すら呼び戻せる──そう思っていた。なのに、彼らは会議をしている。予算を削り合い、頭を下げ合い、「祈ってもらうしかない」と言い合っている。まるで、地上のどこかの、小さな役所のように。
「最後に、宝くじ枠」
局長が言うと、金運担当の神がにやりと笑った。この神だけは、なぜか妙に羽振りがよさそうだった。
「一等は、今月もう出ました。九州の、五十代の男性です。住宅ローンが残り三百万、奥さんが内緒でパートを増やしていた家庭でしてね。あそこに当てておけば、間違いなく良い使われ方をする。投資効率は満点です」
「来月ぶんの前借りはするなよ」
「しませんよ。前にやって、こっぴどく叱られましたから」
どっと笑いが起きた。万年の疲労を抱えた神々が、つかのま、肩をゆらして笑った。
会議のあいだ、この円卓では、何度も同じ言葉が繰り返されていた。削ります。使い切りました。もう残っていません。──言い方は違っても、中身はいつも、たった一つだった。
予算が、ありません。
全能のはずの神々が、毎期、毎期、頭をつき合わせて、同じ報告を繰り返す。──神様、予算がありません、と。
ハルだけが、笑えなかった。
会議が終わって、ハルは自分の席に戻った。
奥の席には、一台の古い受信機があった。地上の祈りが、文字になって流れてくる装置だ。蛇口をひねるように開けると、それは止めどなく溢れた。
『合格しますように』
『あの子とうまくいきますように』
『おばあちゃんが長生きしますように』
『宝くじ、せめて三等でいいので』
『戦争が、はやく終わりますように』
文字の滝だった。一つひとつが、誰かの一日で、誰かの一生だった。読んでいるだけで、胸が潰れそうになる。
ハルは決めた。全部は無理でも、せめて一つは、自分の手で叶えよう、と。新人の自分にも、きっと、一件くらいは。
そして、滝のなかから、たった一つの祈りが、ハルの指に引っかかった。
『おかあさんのびょうきが、なおりますように』
子どもの字だった。文字を覚えたてのような、まるい、たどたどしい字。何度も、何度も届いていた。毎晩、同じ時刻に。
ハルは地上に目を凝らした。
小さな町の、小さな家。その玄関先に、ひとつの古い祠があった。苔むして、半分忘れられたような、誰も手を入れていない小さな祠──ハルが任されることになった、ハル自身の祠だった。
その前に、女の子がいた。
サキ、八歳。毎晩、寝る前にここへ来る。手を合わせて、目をぎゅっとつぶって、同じことを祈る。お母さんが、入院しているのだ。重い病気で、もう半年も帰ってこない。サキは祖母と二人で暮らし、毎日この祠に、なけなしのお小遣いから買った飴を一つ、お供えしていた。
「神様。神様、おねがいします」
その声を聞いたとき、ハルの胸に、火がついた。
これだ。この子だ。この子の願いを、自分が叶えるんだ。
ハルは帳簿を抱えて、局長の部屋に飛び込んだ。
「局長! 病気平癒の枠を、一件、使わせてください!」
局長は書類から顔も上げず、低く言った。
「病気平癒枠は、今期、もう残っていない」
ハルは凍りついた。
「な……ないって、そんな」
「先月、大きな流行病があっただろう。地上では数えきれない数の人間が祈った。それを受けて、こちらも投入できるだけ投入した。重い病をひとつ消すのに、どれほどの奇跡がいるか、君は知らないだろう。細胞ひとつひとつに手を入れる。因果をねじ曲げる。あれは、いちばん高くつく奇跡だ」
「でも、たった一件です。子どもなんです。八歳の女の子が、毎晩──」
「八歳の女の子は、地上に何億人いると思う」
局長の声は、冷たくはなかった。だからこそ、ハルには応えた。
「みんな祈っている。みんな、たった一件だと思っている。そして、そのほとんどに、こちらは応えられない。それが、この仕事だ」
「じゃあ……じゃあ、なんのための神様ですか!」
言ってしまってから、ハルは自分の声に驚いた。けれど、止まらなかった。
「全能なんでしょう。なんでもできるんでしょう。なのに予算がないからって、見捨てるんですか。あの子は、毎晩、飴をお供えしてるんですよ。半分忘れられたぼくの祠に、たった一人で来て、手を合わせて……それを、予算がないからって……!」
局長は、しばらく黙っていた。
それから、ペンを置いて、はじめてハルの目をまっすぐに見た。
「……奥の倉庫へ行きなさい。翁という、古い神がいる。私が話すより、あれが話したほうがいい」
倉庫は、ほこりと、線香と、古い木のにおいがした。
奥の奥、うずたかく積まれた帳簿の山のなかに、ひとりの老神が座っていた。背を丸め、小さな筆で、古い記録を一文字ずつ書き写している。しわだらけの顔。けれど、その手つきは、おどろくほど丁寧だった。
「新入りかい」翁は顔を上げずに言った。「予算がない、と泣きついてきた口だね」
「……はい」
「みんな、最初はそうだ。わしも、そうだった」
翁は筆を置いて、ハルに、隣に座るよう手で示した。
「全能だと思っていたろう。なんでも叶えられると」
「思っていました。今でも、思いたいです」
「ふぉっ、ふぉっ」翁は笑った。乾いた、けれどあたたかい笑いだった。「いいことだ。それは、いいことだよ。でもな、ひとつ、教えておこう。──奇跡の予算が、なぜこんなに小さいか、考えたことはあるかい」
「足りないから、です。願いが、多すぎるから」
「ちがう」
翁は、首を横に振った。
「予算が小さいのはな、奇跡のほとんどを、わしらが起こしていないからだよ」
ハルは、意味がわからず、まばたきをした。
「いいかい。地上で起きる奇跡を、百としよう。そのうち、わしら神が直接の手をくだすのは、ほんの、二つか三つだ。残りの九十七、八は──」翁は、節くれだった指で、天井ごしに地上を指した。「ぜんぶ、人間が起こしている」
「人間が……?」
「そうだ。倒れた人に、見知らぬ誰かが駆け寄る。腹をすかせた子に、隣の家がそっとおにぎりを置く。眠れぬほど苦しんでいる者の手を、だまって握る者がいる。──あれは、ぜんぶ奇跡だよ。わしらの帳簿には、一円も計上されていない、人間が手弁当で起こしている、いちばん数の多い奇跡だ」
翁は、積まれた帳簿の山を、いとおしそうに見回した。
「ここにあるのはな、人間が起こした奇跡の記録だ。わしの仕事は、それを、一つひとつ書き写すことさ。神がやったことより、人がやったことのほうが、ずっと、ずっと多いんだよ」
ハルの胸の奥で、なにかが、ゆっくりとほどけていった。
「じゃあ……ぼくたち神様の仕事って、なんなんですか」
翁は、にっこりと笑った。
「最初の、ひと押しさ」
「奇跡をまるごと起こす予算は、わしらにはない。だが、ひと押しぶんなら、いつだってある。それは、ただだからね」
翁は、ハルの手のひらに、自分のしわだらけの手を重ねた。
「人の心に、ほんの小さな思いつきを置く。ふと顔を上げさせる。もう一歩、踏み出す勇気を、耳もとでそっとささやく。──金はかからん。だが、それが、ときに百の奇跡の、最初の一粒になる」
「でも……そんな小さなことで」
「小さなこと?」翁は、目を細めた。「いちばん大きな奇跡は、いつだって、小さなことから始まるんだよ。──行ってきなさい。あの子の祠の、新しい神様。君にできることが、きっとある」
ハルは、地上へ降りた。
夜の病院。長い廊下の、白い灯り。その一室で、サキの母は、静かに眠っていた。痩せた頬。浅い呼吸。傍らの椅子には、当直の若い医師が、ひとり座っていた。
白石という名の、その医師は、疲れきっていた。何日も家に帰っていない。サキの母の容態は、よくない。手はすべて尽くした、と上の医師たちは言う。あとは、見守るだけだ、と。
白石は、机に積まれた古いカルテの山を、ぼんやりと見ていた。あきらめかけていた。自分にできることは、もう、ないのかもしれない、と。
ハルは、その背中の、すぐうしろに立った。
大きな奇跡は、起こせない。病を消すことは、できない。予算は、一円もない。あの子の「神様、おねがいします」に、帳簿どおり正直に答えるなら、返事はたった一言だ。──神様、予算がありません。
けれど、とハルは思った。
けれど──ひと押しぶんなら。
ハルは、そっと、白石の心に、ひとつぶの思いを置いた。
(もう一度だけ、最初のカルテを、読み返してみたら)
白石の手が、止まった。
ふと、彼は顔を上げた。理由は、自分でもわからなかった。ただ、なんとなく──ほんとうに、なんとなく、いちばん古い、半年前の最初のカルテを、もう一度だけ開いてみる気になった。
そして、読み返すうちに、白石の指が、ある一行で止まった。
半年前、まだ症状が軽かったころに、一度だけ試して、効かないと判断された、古い治療法。だが当時とは、検査の数値が、わずかに変わっている。あのときは合わなかった条件が、今なら──ひょっとしたら。
白石は、立ち上がった。眠気が、吹き飛んでいた。
「……いや。可能性は、低い。でも」
彼は、夜勤の看護師を呼んだ。電話で、指導医を起こした。最初は渋っていた指導医も、白石の説明を聞くうちに、声色を変えた。
「……やってみる価値は、あるかもしれん。よし、明日の朝いちばんで、検討会だ」
ハルは、廊下の隅で、それを見ていた。
自分は、なにもしていない。病を消してなどいない。ただ、疲れた医師に、「もう一度読み返したら」と、ささやいただけ。あとはぜんぶ──白石が、自分の意志で、立ち上がったのだ。机に向かい、電話をかけ、頭を下げ、もう一度、闘うと決めた。それは、ハルの奇跡ではなかった。白石の、奇跡だった。
それからのことを、ハルは祠の上から、毎日見守った。
新しい治療が、はじまった。効くかどうかは、まだ、わからない。奇跡は、一夜では起きない。地上の奇跡は、いつも、ゆっくりと、人の手で編まれていく。
ある夜、サキが、いつものように祠へやってきた。
飴を一つ、そっと供えて、手を合わせる。
「神様。きょう、おかあさん、ちょっとだけ、目をあけたの。わたしのこと、わかったみたいだった。……まだ、わからないって、お医者さんは言うけど。でも」
サキは、ぎゅっと、目をつぶった。
「でも、白石先生が、あきらめないでくれて。ありがとう。神様が、いいお医者さんに、会わせてくれたのかな」
ハルは、祠のなかで、そっと首を横に振った。
(ちがうよ)と、聞こえない声で、答えた。
(ぼくは、なにもしてないんだ。あきらめなかったのは、白石先生だ。看護師さんも、お医者さんたちも、みんな、夜どおし考えてくれた。そして──毎晩ここに来て、飴を供えて、手を合わせ続けた、君だよ。君が祈り続けたから、ぼくは、この祠から、君たちを見ていられた。奇跡を起こしたのは、ぼくじゃない。──君たちだ)
けれど、その夜、ハルは、ひとつだけ、自分のぶんの奇跡を使うことにした。
病気を消すのではない。因果をねじ曲げるのでもない。ただ──ひと押しぶんの、ただの奇跡。
飴の包み紙が、夜風もないのに、かさり、と鳴った。
サキが、顔を上げる。祠の奥が、ほんの一瞬、あたたかい色に光った気がした。気のせいかもしれない。でも、サキには、たしかに見えた。
「……神様。いま、笑った?」
ハルは、笑っていた。
天界に戻ると、翁が、倉庫の入り口で待っていた。
「どうだった」
「……一円も、使いませんでした」ハルは言った。「いえ、最後にひとつだけ。包み紙を、鳴らしました。それは、勘定に入れなくていいですよね」
「ふぉっ、ふぉっ。それは、ただだ。いくら使ってもいい」
翁は、新しい帳簿を一冊、ハルに手渡した。まっさらな、まだ一文字も書かれていない、ぶ厚い帳簿だった。
「これは、なんですか」
「君の、記録帳だよ。これから君が見守る、人間たちの奇跡を、書き写していくんだ。──言っただろう。神がやったことより、人がやったことのほうが、ずっと多い。書ききれないほど、多いんだ。覚悟しておきなさい」
ハルは、その重みを、両手で受けとめた。
あんなに小さく見えた奇跡予算が、いまは、ちっとも、心細く感じなかった。だって、本当の予算は、こんなところには無いのだ。本当の奇跡は、地上にある。倒れた人に駆け寄る足のなかに。だまって握られる手のなかに。あきらめないと決めた、誰かの夜のなかに。
神様には、限界がある。奇跡の帳簿には、いつだって「予算がありません」と書いてある。なんでもは、叶えられない。
けれど──ひと押しぶんなら、いつだって、ある。
そして、そのひと押しの先で、人が、誰かのために動いたとき。
奇跡は、ちゃんと、起きるのだ。
ハルは、まっさらな帳簿の一ページめを開き、震える手で、いちばん最初の記録を書きはじめた。
『ある夜、ひとりの医師が、もう一度だけ、カルテを読み返した──』




