サレ妻ですが、妹に手を出す夫は許しません
「はあ……いい加減、どうにかならないかしら」
私は大きく溜息をついた。
子爵家の三男のアルフォンス・エルディアを入り婿として迎えて二年。昨夜も彼は、夜会で若い令嬢の手を取り、笑いかけていたそうだ。
その手の噂は、初めてではなかった。似たような話が、何度も届いている。見かけの良い侍女に贈り物をしただとか、他家の令嬢を馬車まで見送っただとか、どれも決定的な話ではないが、夫には常に女性の影がちらつく。
我が家には跡取りの男子はいない。伯爵家の長女クラリス・フォン・エーレンベルクの責務として、子爵家の三男だった彼を入り婿として迎えたが、間違いだったかもしれない。
父ローレンス・フォン・エーレンベルク伯爵は、結婚前からアルフォンスを快く思っていなかった。容姿と口だけは良い男だと、苦い顔で言う。それでも、私が選んだ相手だと、渋々認めた。
彼は、美しい顔立ちと礼儀正しさを持っており、とにかく私に優しかった。何かと細かいところに気がつく男で、気のきいた贈り物など心使いを度々してくれた。
「そこまでは、良かったのだけどね」
そう、呟いた。
◇
朝食の席で夫のアルフォンスは、何事もなかったように微笑んでいた。淡い金髪を丁寧に撫でつけ、仕立ての良い上着を着こなし、給仕の侍女にも気さくに声をかける。見慣れた仕草のはずなのに、いちいち鼻につく。
「クラリス、昨夜は少し遅くなってすまなかったね。久しぶりに会う友人が多くて、つい話し込んでしまったんだ」
アルフォンスは紅茶に砂糖を入れながら言う。すまないと言いながら、悪びれた様子が無い。
「友人との話なら構いません。ただ、女性の方もいたのでは? エーレンベルク家の跡取りとなった事は、忘れないで下さい」
「もちろんだよ。君はいつも真面目だね。そこが君の美点だと、私は本気で思っている」
その言葉だけ切り取ったなら、問題は無い。しかし、行動の全てを考えてみると、どこか浮ついている。
私が返事を探している間に、彼の視線は給仕の侍女へ流れ、彼女の耳飾りを褒めた。
侍女が頬を赤らめて目を伏せる。アルフォンスは何気ない顔で笑った。それを見ているのが嫌だった。
「あなた、仕事中にそんなアクセサリーを付けて!」
私は、思わず声を荒げた。
「これくらい、いいじゃないか、クラリス。これは、私が送ったものだ。いつも頑張っている彼女に、ほんのご褒美さ」
夫は、悪びれた風も無く言い放った。
「そうですか……」
私は、ナプキンを握りしめて、それ以上言うのを我慢した。
食後、アルフォンスは外出の支度を命じた。友人と競馬を見に行くのだという。クラリスは玄関広間まで見送りに出たが、夫の背中に声をかける気にはなれなかった。
◇
午後になると、妹のリリア・フォン・エーレンベルクが部屋を訪ねてきた。彼女は、社交界では春の花にたとえられるほど評判の美少女だったが、本人は人前に出るより本を読んでいる方が好きな子だった。
いつもなら入室してすぐ、私の机の上に用意された菓子と紅茶へ目を向ける。だが、その日のリリアは扉を入ったところで立ち止まり、手袋を握ったまま動かなかった。薄桃色のドレスが似合っているのに、顔色だけが悪かった。
「リリア、どうしたの。そんな所にいないで、こちらへいらっしゃい」
私が声をかけると、リリアは一歩だけ近づいた。椅子へ座るよう促しても、すぐには腰を下ろさない。何度も言葉を飲み込んでいるのが分かった。
「お姉様、少しだけお話ししてもよろしいでしょうか。その、出来れば、人払いを」
その声は細かった。私は侍女を下がらせ、扉が閉まるまで待った。侍女の足音が遠ざかってから、リリアはようやく椅子に座った。
「誰にも聞かれたくない話なのね。急がなくていいから、言えるところから話して」
「言ったら、お姉様を傷つけてしまうかもしれません。それでも黙っている方が、もっと悪い気がして」
妹がここまで怯える相手は限られている。嫌な予感が胸をよぎった。
「リリア、あなたが悪いことをしたわけではないのでしょう。私の事は気にせず、正直に話しなさい」
リリアは顔を上げた。今にも泣きそうな顔だった。
「お義兄様が、怖いんです。最初は冗談だと思っていました。でも、最近は二人きりになろうとしてきます」
大体の予想はついていた。夫のことだとは思っていたが、実際に言葉にされると軽くめまいがした。
「アルフォンスが、あなたに何を言ったの」
「お姉様には内緒だよ、と言われました。君は本当に可愛らしくなったとか、もう子供ではないとか、そういうことを」
リリアは手袋を握りつぶして言った。私は、その手へ自分の手を重ねた。
「他には? 何でも隠さず言いなさい。あなたを守りたいの」
「お姉様は真面目すぎるから、自分の気持ちを分かってくれないと言っていました。それから、君のような女性といる方が楽しいと」
私は、目を閉じて自分を落ち着かせた。自分への中傷、妹を不安にさせたこと。色々と、怒りがこみあげてくる。
リリアはさらに小さな声で続けた。廊下で偶然を装って待たれたこと。庭で花の名を教えるふりをして距離を詰められたこと。どれも幼稚で薄汚く、断りにくい誘い方だった。
「もっと早く言うべきでした。でも、お姉様が選んだ方な以上、悪く言うべきではないと思って」
「あなたが嫌だと思ったなら、言っていいんですよ。私が選んだ相手だからといって、我慢する必要はありません」
リリアは、ようやく落ち着いたようだった。
彼を信じたい気持ちが、まだ完全には消えていない。たとえ愚かでも、二年を共にした夫だった。けれど、妹の言葉を聞くと、その気持ちは薄れていった。
「リリア、アルフォンスに触れられたことはありますか。答えたくなければ、今は答えなくても構いません」
「手を掴まれたはあります。すぐに振りほどきましたけれど、その時に笑われました。恥ずかしがる必要はないと言われて、吐き気がしました」
私は思わず妹をにらんだ。すぐに目をそらす。怒りを向ける相手を間違えてはいけない。妹の前で感情を爆発させれば、また彼女を怯えさせる。
「教えてくれてありがとう。今日から、あなたを一人にしません。アルフォンスと二人きりになる場所へは、絶対に行かせません」
「でも、お姉様はどうされるのですか。私のせいで、お二人の仲が壊れてしまうのは嫌です」
「壊したのはあなたではありません。壊したのは、妻の妹にそんな目を向けた、あの男です」
リリアは唇を震わせた。泣き出す代わりに、何度も頷いた。妹の背に手を回し、幼い頃のように抱き寄せた。
しばらくして、リリアは私の胸から顔を起こした。頬は赤くなっていたが、瞳には先ほどより力が戻っていた。私は考えた。
すぐに父へ告げれば、アルフォンスを問い詰めるだろう。父は娘達を守るためなら、彼を遠慮なく追い出すだろう。その姿は想像できたが、アルフォンスは口が上手い。証拠もなく責めれば、妹の思い違いだと逃げるかもしれない。
「リリア、つらいことを頼むことになります。もう一度だけ、あの人の行動を確かめたいのです」
「私が、お義兄様と話すということですか」
「一人にはしません。必ず近くで聞いています。あなたに危ないことはさせません」
リリアはすぐには答えなかった。そして、口を開く。
「分かりました。お姉様がそばにいてくださるなら、もう少しだけ頑張れます」
「頑張らせてしまって、ごめんなさい。けれど、ここで終わらせます。あなたがこの家で怯えずに過ごせるように」
リリアは小さく頷いた。夫を信じたい気持ちは、ほとんど残っていない。しかし、証拠をおさえなければならない。
◇
夕方、アルフォンスが屋敷へ戻った。玄関広間にはいつもの軽やかな足音が響き、外套を受け取った侍女へ彼は笑いかけた。その姿を階段の上から、蔑む目で見下ろした。
アルフォンスが顔を上げた。目が合うと、彼はいつものように微笑んだ。その笑みで、何人の女に同じ声をかけてきたのか。私は手すりを握り、リリアの部屋の方へ視線を移した。
今夜は何も言わない。問い詰めるのは、妹を守るだけの材料をそろえてからだ。夫に声をかけず背を向けた。
◇
翌朝、クラリスは父ローレンス・フォン・エーレンベルク伯爵の書斎を訪ねた。父は娘の顔を見るなり眉をひそめた。
「クラリス、お前がその顔で来る時は、たいてい悪い話だ。アルフォンスのことか」
名を出されただけで、胃が痛くなる。椅子に座るよう促されても、すぐには腰を下ろせなかった。父に夫の不実を告げることは、自分の選択が間違っていたと認めることでもあった。
「リリアが、アルフォンスから言い寄られています。噂ではなく、本人から聞きました」
父の表情はほとんど動かなかった。予想通りという顔だ。クラリスは昨日起きたことを順に話し、妹がどれほど怯えていたかを伝えた。
「お前が悪いわけではない。まず、それだけは言っておく」
「けれど、あの人を選んだのは私です。父上が反対していたのに、私が望んで迎えました」
「夫が裏切ったのなら、責められるべきは夫だ。お前が今すべきことは、自分を責めることではなく、リリアを守ることだ」
父の言葉は硬かったが、私を責める事はなかった。父は、しばらく私を見ていた。
「問い詰めれば、あの男は笑って逃げるだろう。リリアの勘違いだと言うはずだ」
「だから、現場をおさえます。リリアにはつらい役目になりますが、私が必ず近くにいます」
「お前だけでは駄目だ。使用人の中から口の堅い者を選ぶ。私も行く」
父の口調には迷いがなかった。
◇
昼過ぎ、リリアは姉の部屋へ呼ばれた。侍女を下がらせると、クラリスは昨日より落ち着いた声で作戦を伝えた。温室なら花を見る口実があり、奥の茶室には人が隠れられる。そこでアルフォンスに話をさせる。
「怖ければ、いつでもやめていいのです。あなたが合図をしたら、すぐに私が出ていきます」
「大丈夫です。昨日は震えてばかりでしたけれど、もう一人で抱えなくていいと分かりましたから」
リリアはそう言ったが、少しだけ震えている。その手を、しっかりと握った。
◇
夕方近く、リリアは庭へ出た。淡い藤色のドレスをまとい、白い帽子のリボンを風に揺らして歩く姿は、遠目にはいつもの美しい姿に見えた。温室へ向かう小道の途中で、予定通りアルフォンスが現れた。
「リリア嬢、こんな時間に庭を歩いているとは珍しいね。今日は姉上と一緒ではないのかな」
アルフォンスの声は嬉しそうに弾んでいた。リリアは胸元で手を重ね、少しだけ視線を伏せた。
「少し、花を見たくなっただけです。お義兄様こそ、こんな所で何をされているのですか」
「君に会えたのだから、用事など忘れてしまったよ。よければ温室まで一緒に歩かないか」
温室の奥の茶室へ続く扉の陰で、息を殺して待つ。父ローレンスと、古くから家に仕える執事のバルトもそこにいる。扉一枚を隔てた向こうで、夫の軽口が聞こえた。
リリアは温室の中央まで歩いた。アルフォンスは、少しづつ距離を詰めた。
「最近の君は、本当に綺麗になったね。社交界で噂になるのも当然だと思う」
「そのようなことを、お義兄様が言うのは困ります。お姉様に聞かれたら、きっと悲しまれます」
「彼女には内緒だよ。クラリスは真面目すぎるから、こういう軽い褒め言葉まで重く受け止めてしまう」
思わず飛び出しそうになった。父が横から視線だけで制したため、どうにか踏みとどまる。
「お姉様は真面目ですが、それは悪いことではありません」
「君は優しいね。だが、私は君のそういうところに惹かれるんだ。堅苦しいクラリスの隣にいると、息が詰まる」
リリアは一歩だけ後ろへ下がった。アルフォンスはその分だけ近く。
「君と話していると気分がいい。あの家で、私を本当に男として見てくれるのは君だけかもしれない」
「私は、お義兄様をそのように見たことはありません。お姉様の夫だから、家族として接しているだけです」
「つれないことを言うね。けれど、そういうところも可愛い。君はまだ自分の魅力を分かっていないんだ」
リリアの体がこわばる。控えの間で聞いている私達にも、それが見えるような気がした。しかし、妹は逃げずに立っていた。
「お義兄様は、いつもそのようなことを女性に仰るのですか。夜会でも、侍女にも、同じように」
「女性を褒めるのは礼儀だよ。美しいものを美しいと言って、何が悪いのかな」
「では、私にだけ特別な言葉をかけているわけではないのですね」
リリアの言葉に、アルフォンスは少しだけ目を瞬かせたあと、すぐに甘い笑みを浮かべた。自分が追い詰められているとは、まだ気づいていない顔だった。
「もちろん、君は特別だよ。クラリスには悪いが、もっと早く君の魅力に気づいていれば、私は違う選択をしていたかもしれない」
温室奥の茶室で、父は何も言わなかったが、怒っているのは分かった。
「違う選択とは、何ですか。まさか、お姉様ではなく私を選んだという意味ではありませんよね」
「そんなに怯えなくていい。私はただ、君のような女性が相手だったら、毎日がどれほど明るかっただろうと思っただけだ」
アルフォンスは手を伸ばした。リリアの肩に触れようとする動きだった。リリアはその手から逃れるように身を引き、鉢植えの台に軽く足をぶつけた。
その瞬間、さすがに扉を開けかけた。だが、妹の頑張りを裏切るわけにはいかない。
「お義兄様、お姉様に知られたら困ることを、どうして私に仰るのですか」
「君が分かってくれると思ったからだ。クラリスは妻として悪くないが、女としては少し息苦しい。君なら、私を責めずに笑ってくれる気がした」
「笑えません。お姉様をそんなふうに言う方の前で、笑えるはずがありません」
リリアの声が少しだけ強くなった。アルフォンスはそこで初めて眉を寄せ、笑うのをやめた。
「君も姉に似て、ずいぶん堅いことを言うんだね。私はただ、君と親しくなりたかっただけなのに」
「親しくなりたいなら、お姉様に隠す必要はありません」
誰も口を開かなかった。リリアの声は震えていたが、最後まではっきりと拒絶を伝えた。
アルフォンスはため息をつき、今度は被害者のような顔をした。困った子供を諭すように首を傾ける仕草で、私も何度も黙らされてきた。
「そんなに怖い顔をしないでほしい。君が可愛いから、少し冗談を言っただけだよ」
「冗談なら、お姉様の前でも同じことを仰ってください」
「それは困るな。クラリスは冗談を冗談として受け止めるのが苦手だから」
クラリスはそこで扉を開けた。これ以上、妹に頑張らせる必要はなかった。扉を開け、2人の前に出る。アルフォンスが振り返った。彼の顔から笑みが消えるまで、ほんの一瞬だった。
後ろから、父ローレンスと執事バルトも姿を見せた。リリアは姉の姿を見るなり、体の力を抜いた。私は妹の前へ立ち、夫をにらんだ。
「続きをどうぞ、アルフォンス。私の前でも、同じ冗談を聞かせてください」
アルフォンスは口をパクパクさせたが、言葉は出てこなかった。
◇
温室の中で、アルフォンスは、必死で作り笑いをしていた。彼は私と父ローレンス・フォン・エーレンベルク伯爵を交互に見る。先ほどまで妹へ向けていた甘い表情は消え、何も言えなかった。
私は、もう彼を夫として見る気にはなれなかった。
「クラリス、誤解だよ。リリア嬢が少し不安そうだったから、私は義兄として励ましていただけなんだ」
「励ますために、妻より妹の方が魅力的だと言ったのですか。私には内緒だと、わざわざ念を押した上で」
甘い顔をすれば、彼は被害者面を続ける。怒りが収まらない。
「言葉のあやだよ。君は昔から真面目だから、少しの冗談も通じない」
「その真面目な妻の妹を、冗談を聞かせるために、肩へ触れようとしたのですね。励ますために、人気の無いところで話しかけたのですね」
アルフォンスは、悪びれもなく返した。
「私は触れていない。やっていない事を責められる筋合いはないはずだ」
リリアが表情を曇らせた。私は、彼を問い詰めた。
「未遂なら許されると思っているのですか。リリアが嫌がっていたことも、逃げようとしていたことも、あなたには見えていなかったのですか」
「彼女は若いから、男に褒められることへ慣れていないだけだ。私は、悪いことは何もしていない」
「お義兄様、もうやめてください。あなたに褒められて嬉しかったことなど、一度もありません」
リリアは、はっきりと言った。
アルフォンスは妹の方を見た。思い通りにいかないことにいらだっていた。
「君までそんな言い方をするのか。私は君を傷つけるつもりなどなかった。むしろ君を大切に扱ったつもりだ」
「大切に扱う方は、相手が嫌がる顔をしたら近づいてきません。お姉様に隠そうともしません」
私は、彼との結婚式を思い出した。
あの日、アルフォンスは誰より優しい顔をしていた。父の反対を押し切った自分を見つめ、必ず幸せにすると囁いた。けれど、その時と同じ口で、今度は妹に向かって妻を貶めていた。
「アルフォンス、リリアに謝ってください。言い訳ではなく、あなたがしたことを認めた上で」
そう告げると、アルフォンスの顔が歪んだ。謝れば罪を認めることになる。
「謝る必要があるほどのことをしたとは思っていない。君達が大げさに騒いでいるだけだ」
その一言で、父ローレンスが口を開いた。
「アルフォンス、私はお前を婿として迎えた日から、軽薄な男だとは思っていた。それでもクラリスが選んだ相手だから、家族として扱う努力はしてきた」
「義父上、私はこの家に尽くしてきました。少し女性と話した程度で、そこまで責められるのは納得できません」
「少し女性と話した程度かどうか、ここで確かめよう」
父が視線を向けると、執事バルトが一歩前に出た。バルトはエーレンベルク家に長く仕える老執事で、父が若い頃から屋敷を見てきた男だった。普段は必要なことだけを短く告げる彼が、この時だけは深く頭を下げてから、ゆっくり口を開いた。
「アルフォンス様が侍女へ私的な贈り物を渡された件は、確認できるだけで七件ございます。夜会で他家の令嬢を人目の少ない回廊へ誘われた件も、複数の証言が残っております」
アルフォンスは目を見開いた。怒りより先に、なぜ知られているのかという驚きが顔に出た。
「馬鹿な。使用人の噂を信じるのですか。私に恥をかかせたい者が、話を大きくしているだけでしょう」
「贈り物を受け取った侍女から、品をおさえております。令嬢方の証言も」
バルトの声には、怒りよりも失望があった。屋敷の使用人に色目を使う婿を、彼はずっと見てきたのだろう。
「私は妻帯者として軽率だったかもしれない。だが、それは男なら誰にでもある気の迷いだ。クラリスも、そこまで深く考える必要はない。これが、男の甲斐性というものだ。何も無い男など、魅力が無いだろう?」
アルフォンスは、私に許しを請うた。だが、許す気はない。妻として傷つくより先に、姉として許せないことがあった。
「あなたの気の迷いで、リリアがどれほど怯えたか分かりますか。自分が告げれば姉を傷つけると、あの子がどれほど迷ったか分かりますか」
「それはリリア嬢が繊細すぎるだけだ。君達姉妹は、少し男の冗談に過敏なのではないか」
その時、私は完全に、この男を見放した。
「はあ? あなたは今、最後の機会を失いました」
「最後の機会だと?」
「リリアへ謝り、自分のしたことを認める機会です。それを、あなたは私達のせいにしました」
アルフォンスの顔が赤くなった。彼は父へ向き直り、声を少し強めた。
「義父上、クラリスは感情的になっています。夫婦の問題に妹の話が交ざったから、おかしなことになっているだけです」
「夫婦の問題ではない。お前が、私の娘を二人とも傷つけたからだ」
父が、そう断言する。アルフォンスは言葉を失った。
「クラリスは私の反対を押し切って、お前を選んだ。だから私は、娘の選択を尊重した。だが、お前をエーレンベルク家へ迎えた責任は私にもある」
「では、どうなさるおつもりですか」
アルフォンスの声が、初めて震えた。彼は婿として迎えられた男であり、家督はまだ父が握っている。
「決めるのはクラリスだ。夫として許すかどうかは、妻である娘が決める」
父の言葉を受け、アルフォンスを見た。愛していた時期がある。信じようとした夜もある。噂を聞くたびに胸が痛んでも、いつか落ち着いてくれると願ったこともある。
だが、その願いが、妹を傷つけることになった。
「アルフォンス・エルディア。あなたと離縁します。実家に帰りなさい」
言葉にすると、胸の奥が痛んだ。けれど、その痛みは迷いではなかった。
「待ってくれ、クラリス。離縁など大げさだ。私は君を愛している」
「愛している妻の妹に、あのような目を向けるのですか」
「男には、つい魔が差すことがある。だが最後には妻のもとへ戻るものだろう」
「戻らなくて結構です」
アルフォンスは、凍りついた。今までの夫婦喧嘩なら、彼が甘い言葉を重ねれば、黙った。だが今日は違う。もう許す気はなかった。
「あなたは夫失格です。婿としても、家族としても、この屋敷に置く理由がありません」
父が頷いた。
「我が家から出て行ってもらう。家督を継がせる予定も白紙とする」
アルフォンスの顔から血の気が引いた。彼は何か言おうとしたが、舌がうまく動かないようだった。美しい顔立ちも、整った服装も、この場では何の役にも立たなかった。
「義父上、それはあまりにも……私の実家にも面目があります」
「面目を守りたかったのなら、妻の妹へ色目を使う前に思い出すべきだった」
父の声は冷たかった。アルフォンスは次に私を見たが、助けるつもりはなかった。最後にリリアへ目を向けた瞬間、私は間に入った。
「リリアを見ないでください。あなたが言葉をかけてよい相手ではありません」
アルフォンスは、がっくりとうなだれた。
「今夜中に私物をまとめろ。明朝、実家へ戻れ。以後、娘達へ近づくことは許さない」
ローレンスがそう告げると、アルフォンスは唇を噛んだ。彼は私を睨み、温室の出口へ向かった。
扉が閉まる音がした。
その音を聞いた瞬間、リリアの膝が崩れかけた。振り返り、妹を支える。妹は泣かなかった。ただ、息をするたびに胸元が大きく上下していた。
「怖かったでしょう。最後まで立っていてくれて、ありがとう」
「お姉様こそ、つらかったはずです。私のことで、こんな形になってしまって」
「あなたのせいではありません。あの人が自分で選んだ結果です」
リリアはしばらく黙っていた。それから私に抱きつき、子供の頃のように額を寄せてきた。その重みを受け止めながら、温室の硝子の向こうに沈みかけた夕日を見た。
◇
アルフォンスがエーレンベルク伯爵家を去ってから、三か月が過ぎていた。庭園には初夏の花が並ぶようになっている。ふとした拍子にあの日の硝子越しの光を思い出した。
屋敷の中は穏やかになった。侍女達の笑い声も以前より聞こえるようになった。夫だった男が消えただけで、家の空気がこれほど変わるのかと思った。
自分だけが最後まで認めなかったのだろうか。
父も、使用人達も、妹も、どこかでアルフォンスの軽薄さに気づいていたのではないか。自分だけが見ようとしていなかったのではないかと思った。
扉を叩く音がした。
「お姉様、少しだけお邪魔してもよろしいでしょうか。お茶を淹れて参りましたので、お暇であれば、ご一緒したいのです」
入ってきたのは、妹のリリアだった。両手で盆を持ち、紅茶と焼き菓子を運んできた。
「ちょっと考えごとをしていただけ。どうぞ、お入りなさい」
私達は、窓際の小卓へ座った。リリアは茶器を並べながら、姉の顔を何度か見た。言いたいことがあるようだ。彼女が口を開くのを待った。
「お姉様は、まだご自分を責めていらっしゃるのですね。最近のお顔を見ていると、何も終わっていないように見えてしまうのです」
リリアの言葉は遠慮がちだったが、的を射ていた。カップを手に取り、湯気の向こうで妹の目を見る。誤魔化しても通じない相手だと、幼い頃から知っていた。
「離縁も済みましたし、あの人と二度と会う事もありません。ただ、自分が選んだ相手だったという事実だけは、どうしても消えないのです」
リリアはカップを置き、言った。
「お姉様があの人を選んだことと、あの人が裏切ったことは別です。信じた側まで悪いのなら、人を好きになること自体が罪になってしまいます」
「そう言ってくれるのは嬉しいのですが、あなたに嫌な思いをさせたことまで消えるわけではありません。もっと早く気づいていれば、あなたがあそこまで怯えることはなかったはずです」
「怯えていたのは確かです。でも、お姉様が気づかなかったからではありません。私が黙っていたからでもありますし、何より、悪いのはあの人です」
リリアの言葉に返事ができなかった。彼女は私を責めるどころか、自分の責任だと言う。余計に罪悪感が胸に広がった
「あなたが黙っていたことを責めるつもりはありません。姉を傷つけたくなかったのでしょう。あなたがあの日どれほど迷っていたか、今でも覚えています」
「だから、お姉様もご自分を責めないでください。私達はどちらも悪くありません。あの人が妻の妹へ目を向け、嫌がる相手へ近づいたのが悪いのです」
自分が妹に支えられていることが嬉しかった。守るつもりだったはずなのに、今は守られている。
「リリア、あなたは強くなりましたね。あの時のことを思い出すのも嫌でしょうに、私のために声を掛けてくれる」
リリアは少しだけ照れたように笑った。私はカップを置き、妹の手へそっと自分の手を重ねた。
「ありがとう。あなたがそう言ってくれたことを忘れません」
「お姉様は悪くありませんし、あの頃幸せそうに笑っていたお姉様まで間違いだったことにしないでください」
すぐに返事は出来なかった。失敗した結婚だったとしても、その時の自分の思いまで否定する必要はないのかもしれない。
扉の外で足音が止まった。続いて控えめに扉が叩かれる。
「入るぞ。二人に割り込むのは気が引けるが、少し話しておきたいことがある」
入ってきたのは、父ローレンス・フォン・エーレンベルク伯爵だった。領主としての威厳をまとった姿ではあったが、娘達を見る目には父親の気遣いがあった。彼は二人の向かいへ腰を下ろす。
「クラリス、一つだけ確認しておきたい」
「何でしょうか」
「アルフォンスを選んだことを、今でも自分だけの失敗だと思っているのか」
父の問いは真っ直ぐだった。クラリスはリリアの言葉を思い返しながら、少し時間を置いて言葉を探す。
「失敗だったとは思います。けれど、その失敗だけで過去の全てを否定する必要はないのだと、今リリアに言われて気づきました」
ローレンスはゆっくり頷いた。その表情には安堵が滲んでいたが、娘を甘やかす言葉はなかった。
「それでいい。人を見る目は、一度も傷つかずに育つものではない。だが、お前が今回のことで誰も信じられなくなったなら、その方がよほど大きな損失になる」
「父上は、最初からあの人を信用していませんでした。それでも結婚を認めてくださったことを、今になって申し訳なく思っています」
「私が認めたのは、アルフォンスではなくお前の選択だ。娘が自分で選んだ道を、失敗する前から奪う父親にはなりたくなかった」
父は反対していた。それでも最後には娘の意思を尊重してくれた。
「では、父上は後悔していないのですか。私の選択を止めなかったことを、少しも悔やんでいないのですか」
「悔やんではいる。もっと強く止めれば、娘達を傷つけずに済んだかもしれないとは何度も考えた」
ローレンスはそこでリリアへ目を向けた。リリアは驚いたように父を見返したが、すぐに口を結んでその視線を受け止めた。
「だが、過ぎたことだけを考えていても人生は進まん。私達にできるのは、同じような男を二度と屋敷へ入れないことと、傷ついた家族を一人にしないことだ」
父の言葉を胸の内で繰り返した。
「午後の視察には同行します。部屋の中で考えているだけでは、何にもなりません」
「それでこそ私の娘だ。領民達はお前の事情など知らぬまま、いつも通りの暮らしを続けている。だからこそ、こちらも顔を上げて向かわねばならん」
父はそう言って立ち上がった。リリアも席を立ち、私と父を見送りについてきた。
玄関前には、馬車が用意されていた。馬の鬣が初夏の風に揺れ、御者が手綱を確かめている。私が階段を下りると、リリアが話しかけてきた。
「お姉様、北部の村へ行かれるなら、帰りに丘の上の花畑も見てきてください。去年は見事だったと聞きましたし、今年の様子も知りたいです」
「帰ったらあなたへ話せるように、必ず立ち寄るわ」
「お姉様には、嫌な思い出ばかりでなく、ご自分の目に入る綺麗なものも覚えて帰ってきてほしいのです」
彼女の言葉に、胸を動かされた。妹はただ見送りに来たのではない。私を元気づけてくれる。
「分かりました。花の色も空の広さも覚えて帰ります」
「お姉様が戻られたら、私が紅茶を淹れますから、途中で見たものを全部聞かせてください」
頷き、リリアの手を軽く握った。その手は温かかった。その温度を確かめてから、馬車へ乗り込む。
窓の外では、父が御者に出発を告げていた。リリアは玄関前に立ち、両手を胸元で重ねながらこちらを見ている。その表情には、姉を心配する妹の顔と、姉を送り出す家族の顔が重なっていた。
「行ってきます、リリア。今日見たものを、帰ったらきっと話します」
「行ってらっしゃいませ、お姉様。お姉様が前を向いて帰ってこられるのを、ここで待っています」
馬車が動き出した後も、リリアはずっと手を振っていた。私も窓から手を振り、屋敷が遠ざかるまでその姿を見つめ続けた。やがて庭園の門を抜け、見慣れた白い壁が木々の向こうへ隠れる。
失ったものは確かにある。けれど、大切なものが残った気がした。
馬車は北部の村へ向かって進んでいく。窓の外には初夏の光と道が続き、遠くの丘には黄色い花々が見えた。その景色を目に焼きつけた。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。
過去作もよろしければ、お読み下さい。
離縁されましたが、義理の息子が「いかないで」と泣くので困っています
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【書籍化進行中】「またあの子を優先するのですか?」と言うのをやめた日
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