電話が鳴っている。でも、君は出ない。
電話のダイアル音は鳴り続ける。そして今日も、君は出ない。
狭い1Kの部屋は急激に酸素を失い、有毒気体で満たされてしまったようだ。息は苦しく、視界はぼやけ、かすんでいく。
何がいけなかったのだろうか。
君の地雷を踏むようなことを言ってしまった?
それとも単に、忙しいだけか。
最後に会ったのは、もう一か月前だ。まるで誰かがスイッチを切り替えたように、あの日から季節は冬に変わってしまった。
✳︎✳︎過去
あの日の夕方、僕たちは新宿で待ち合わせして、繁華街にある映画館に向かった。
気温は冷え込んで今年初の十度未満を計測していたが、ハロウィンイベントに沸く街は、薄着の仮装をした若者たちで溢れていた。
僕がなんちゃってナースや魔女たちの、極端に短いスカートや大胆な胸元に目を奪われている傍らで、君はすたすたと、まるで仕事に向かうような足取りで映画館に向かった。大量にいた路上のキャッチも、君に声をかけようとしてはためらい、結局僕たちは最短時間で映画館に到着した。
そして、君のリクエストで恋愛映画を観た。大量の登場人物が出てきて、クリスマスがどうだと大騒ぎするオムニバス形式の映画。
連日の激務もあって途中で寝てしまい、ストーリーは全くと言っていいほど覚えていない。目が覚めて横を見ると、君は静かに涙を流していた。きっと、クライマックスシーンを見落としてしまったんだろう。もったいなく思う気持ちもあったが、君が満足したなら来た甲斐はあったなと思った。
映画の後は食事に行ったが、君はどこか上の空だった。
――最近仕事どうなの。
――こないだ言ってた友達との旅行、行く場所決まった?
どんな話題を振っても、君は少し曖昧に笑って、左手の手首に着けたシルバーのブレスレットを所在なさげに撫でる。頼んだレモンサワーにも手をつけず、時間が経つにつれて氷が解けて、暈は減るどころか次第に増えていった。
なんだか僕は焦ってしまい、延々と仕事の話をした。
――芸能人の〇〇と仕事したけど、裏の顔はこうなんだ。
――あのCMには裏話があってね、実はキャスト二人は元恋人同士で共演NG、急いで再キャスティングしたんだよ。
大抵の女の子は、この手のゴシップに喰らいつく。
「〇〇君、すごいね、やっぱり広告代理店は華やかでいいなあ!」なんて、空虚な尊敬のまなざしを向けてくれるんだ。
でも、君はそうじゃなかった。真っすぐな瞳で礼儀正しく頷きつつも、僕にあるのが退屈な日常で、その日常は一見すると華やかだけど、地味で退屈な仕事で占領されていることを見透かしているようだった。
君はブレスレットを回し続けた。
一周、二周、すぐに十周。
僕は途中で数えるのを辞めた。お店を出るとき、君のブレスレットはちょうど何十周かしたようで、ロゴは正しい位置で光を放っていた。
店を出ると、凍えてしまうほどの寒さで、君は鞄から白いマフラーを取り出し、首に巻いた。
「今年初マフラー」
そう言って笑い、マフラーの中に顔を半分隠してしまった君は、小動物のようだ。むき出しで赤くなった手を温めようと手を伸ばしたが、君は足を早め、半歩先に行ってしまった。
「早く。電車に乗り遅れちゃう」
僕は頷くと、君を抜き返して、「遅いよ」と言い返してやった。それで結局、二人で駅まで競争して向かった。ゾンビやヴァンパイア、海賊たちを追い抜き、駅に向かって駆けて行く。本気を出せば余裕で勝てたが、君に華を持たせたくて、駅の改札前でわざとスピードを落とした。君は僕の方を振り返り、笑顔を浮かべた。マフラーは風でとっくに外れ、空っ風で顔は真っ赤になっていたが、僕は今まで見た君の笑顔の中で、一番美しいと思った。
✳︎✳︎現在
部屋の中は息苦しい。
このままでは窒息するのではと怖くなって、外に出る。息を吸い込むと肺に冷たい空気が入り、一気に頭が冴えわたる。しかし、師走の夜の寒さは強烈で、パジャマと薄手のコートでは堪えられるはずもなく、すぐさま薄着での外出を後悔した。とりあえず、酒でも買おうかと最寄りのコンビニに向かって歩き始める。
体温を逃がさないように縮こまって歩いていると、目の前には中学生らしき男女の集団が横並びで歩いており、ちょっとした壁を作っている。
その中の少年の一人は、隣りの少女が気になっているようで、しきりに話しかけるが、少女の方は無関心だ。他の女子と熱心に話し込み、少年を鼻であしらっている。そんな扱いに慣れているのか、はたまた鈍感なだけか、「長谷川、リュック開いてるよ」なんて嘘をついてまで、少女の気を引こうとしている。
――その子はやめておけよ。傷つくだけだぜ。
僕は心の中で少年に向かって呼びかけるが、通じるはずもない。少年は慌てて鞄を確認する少女を、「馬鹿だな」なんて言いながら、愛おしそうな表情で見つめていた。
✳︎✳︎過去
僕たちが出会ったのは所謂合コンの席で、幹事は僕と、その時よくつるんでいた女の子だった。僕はその子の華やかな容姿と社交的なところを気に入っていて、彼女も僕を、というか、僕の社会的ステータスをとても気に入っていた。
途中から打算的なところに辟易して、恋愛には発展しなかったが、友人としてたまに食事に行ったり、仲間を紹介しあっていた。彼女が連れてきた女の子はたくさんいたが、今となっては殆ど思い出せない。
どんな飲み会だって僕たちは全力を尽くした。司会役、盛り上げ役、料理取り分け役と役割分担して、場を盛りあげる。会社仕込みの接待力だ。
盛り上げなきゃ、仕事は取れないから――。盛り上がる場の中で、君だけはどこか退屈そうにしていた。
「あの子、どうして連れてきたの」
幹事の女の子を隅に呼び出し、問いつめた。
酒も飲まず、周囲に関心があるわけでもなさそうな君に、僕はちょっとイラついていた。
他の連中はすごく盛り上がって、隣の個室から苦情が来るほどだった。一組に至っては、この場で一線を越えるのではないかという勢いだったから、「見ているぞ」と友人の方に牽制の視線を送り、友人はにやりと調子のよさそうな笑みを返してきた。
彼女は申し訳なさそうに肩をすくめて、
「ごめんね。でもあの子、最近失恋して、ひどく落ち込んでたの。元気づけたくて連れてきたけど、失敗だったみたい」
と言った。
周りが楽しそうに盛り上がる中、一人ぽつんと座っている君に目をやる。
薄手の白いタンクトップに、黒のパンツというオフィスカジュアルスタイル。容姿も、他の子達と比べて地味だし、華がない。言われてみれば、確かにやつれた顔をしている気がした。
帰り道、女の子達を駅に送り届ける時、僕は君に声をかけた。
「ごめんね。あまり楽しめなかったかな」
ちょっと嫌味も籠っていたかもしれない。自分が幹事した会を楽しめなかった人がいるなんて、プライドが傷ついたから。
前方ではすでに出来上がっている友人たちが、この期に及んで三軒目に行こう、などと騒ぎだしている。いい雰囲気になっていた一組は、すでに姿をくらましていた。
君は目を丸くして、思いがけず柔らかく微笑んだ。
「いえ、久々にたくさん笑いました。行くか迷ったけど、来てよかったです」
全く日焼けしていない白い肌が、ネオンに照らされて、彼女は室内で見るより不健康そうに見えた。
その時、何を思ったかはあまり覚えていない。
――笑顔は魅力的だが、僕の好みではないな。
そんなことを冷静に思っていたかも。なぜなら君は、今までの彼女たちのような、仲間に自慢できるタイプじゃなかったから。でも、今日限りにするには惜しいと感じたんだと思う。もしかしたら、近づいている夏の気配で、少し浮かれていたのかもしれない。でも、咄嗟に言葉が出た。
「連絡先、教えてくれる?」
✳︎✳︎現在
通常なら徒歩三分のコンビニまで、十分近くかかってしまった。それは交通マナーを無視した中学生のせいだけでなく、異様に重い自分の足取りのせいでもあった。
「いらっしゃいませー」
コンビニの中は妙に明るく、清潔さを印象付ける。でも、そんなのは全て紛い物。よく見てみると、雑誌ラックの隅は埃だらけ、商品が所狭しと並んでいる陳列棚も、空いたスペースにはよくわからない繊維が落ちていた。
食欲はないので、酒コーナーで持てるだけの酒を買い込む。たかがレモンサワーに、なぜ七種類もバラエティーがあるのだろう?
コンビニで買う酒なんて究極酔えればよく、こんな差別化に興味を持つ人などほとんどいないのに。
会計を終え、コンビニを出る。ロング缶ばかり十本以上買ったから、帰り道は意図せず筋トレになった。重さのあまり、空を仰ぐと、街の明かりに負けない星の光が目に入った。
✳︎✳︎過去
今年の夏、あの飲み会のメンバーで、星を見に行った。昼間は急流下り、夜は天文台まで足を延ばして天体観察と、盛り沢山な一日だった。途中で酒が切れて、車を出しているが故にノンアルで我慢していた僕は、買い出しを命じられた。車まで出して使い走りになるなんて、とんだ役回りだったが、君が付き添ってくれるというから、損ばかりでもないかなと思った。
「ありがとね、付き合ってくれて」
「全然いいよ。実を言うと、少し疲れたから休憩したかったの。天体観察なんて言っても、だれも星座詳しくないし」
「まあ星空の下飲むことが目的だからね。着くまで少し寝ていたら」
僕たちは無言でドライブし、二十分かけて麓のコンビニに向かった。コンビニの駐車場に着いた時、君は浅い眠りについていたようだったから、僕は一人で買い物を済ませ、せっせと車に荷物を運びこんだ。その音で君は目を覚まし、僕に詫びた。
「ごめん、結構寝ちゃった」
「いいよ。それより、ちょっと外出てみる?」
僕たちは車を降り、空を見上げた。アイフォンで方角を調べ、東の方向を確認する。
「あの一番明るい星を頂点にして、十字架型になっているのわかる?」
僕は手で十字架を切った。空を見上げたまま、君は頷き、
「分かる。左斜めにでしょ?」
「そう。あれが白鳥座。翼を広げた白鳥みたいにみえない?」
「見える!すごい、星座分かるんだね」
「分かるってほどじゃないけど、子供の頃に覚えたのがまだ頭に残ってるんだ。都会に住んでて星なんて見えないから、全部教科書で覚えた。むしろ実物でちゃんと見るの初めてかも」
僕はそう言って、記憶をたどりながら星座を教えた。真夏の夜は蒸し暑く、数分もすると汗が噴き出してきた。今日の急流下りで焼けたのだろう、君の少し赤くなった首にも、汗が滴り落ちていた。僕たちは夢中になって、知っている星を探し続けた。
元気いっぱいになった君は、帰り道、ラジオを流していいかと僕に聞いた。君はびっくりするほど音痴だったが、それを気にせず、時には振り付け付きでラジオから流れる流行の歌を歌い続けた。だから僕も全力で歌い、僕たちは笑いすぎて、角から左折してきた車にあやうく激突しそうになった。
それからは運転に集中するようにしたけど、君は相変わらず鶏が喉を締められたような声で歌い続けて……。
でも、ある曲が流れ始めて、君はぱったりと黙ってしまった。最初はもしかして知らない曲なのかと思ったが、助手席の君に目をやると、驚いたことに泣いていた。
「大丈夫?」
君は首を横に振った。ラジオを止めて、車を路肩に着ける。
僕は言葉が見つからず、後部座席からクリネックスを取り出して、渡した。
「大丈夫。いきなりごめんね」
君はティッシュペーパーを受け取ると、思いがけないほど大きな音を立てて鼻をかんだ。僕たちは顔を見合わせて、ちょっと笑う。場の空気は、少しだけましになった。
「あの曲、前に好きだった人がよく聴いてたの」
君は肩をすくめ、おどけたように笑おうとしたが、失敗して顔をくしゃくしゃにした。
「こないだ別れたっていう元カレ?」
「うん。五年付き合っていたから」
彼女はそういってまたティッシュペーパーで鼻をかんだ。左手首のシルバーのブレスレットが、街灯に反射してきらりと光る。今度は僕も君も笑わなかった。
僕は何を言っていいのか分からず、君から視線を逸らした。ありきたりな言葉をかけてその場をしのぐこともできたが、僕の口は糊で固定されたようにそれを拒否していた。
「……雨が降ってきたね」
夏の山の天気は変わりやすく、窓には雨が一筋、二筋と軌跡を作り始めていた。僕は雨が入らないように、助手席側の窓を閉めようと君の方に身を乗り出した。君はびくりと表情をこわばらせ、僕はやり場のなくなった腕を、「……ごめん」と言って引っ込めた。
「ううん、私こそごめん」
慌てて窓を閉め、僕の方に向き直った君は、バツが悪そうに笑った。
それからまた車を走らせたけど、車内は先ほどとは打って変わり、沈黙が支配していた。やっと駐車場につき、降りようとしたとき、君は「待って」と僕を呼び止めた。
「泣いちゃってごめん。せっかく楽しい時間だったのに、盛り下げちゃった」
「いいよ、僕も楽しかった」
正直言うと、後半は気まずいの方が勝っていたが。
君は何事かを言い淀んだあと、意を決したかのように僕に言った。
「一緒にいると、とても落ち着く。なんていうか……しっくりくるの」
そう言って恥ずかしそうに笑った君のまつ毛には、涙の後が残っていた。僕は手を伸ばし、君の頬に触れた。滑らかな白い肌は見た目よりもずっと温かく、夏にもかかわらず、僕は自分の手が冷たくないか、ふと心配になった。君が目を閉じ、僕はその長いまつ毛と瞼の上でキラキラと光るラメを数えたーー。
✳︎✳︎現在
家に着くと、僕はひたすらに酒を空け続けた。つまみなんていらない、今必要なのは、酔いとそれがもたらす無感覚だけ。
空けた缶が七本を過ぎたころから思考が曇り始め、「もしかして嫌われた?」「最初から遊ばれてたのかも」「いや、あの時僕が間違えたんだ」。そんな断片的な思考が脳を飛び交い、感情だけが高ぶっていく。
百のことが頭をよぎるのに、そのどれから手を付ければよいのか分からない。完成図は分かっているのに、全てのピースがばらばらになっているジグソーパズルのようだ。
酒の缶が十本を超えると、強烈な吐き気が襲ってきて、トイレで吐いた。何も食べていないから、ただ胃酸を含む液体だけがびちょびちょと流れ出て、口中にレモンサワーとは違う苦味が広がった。ひどい頭痛と闘いながら、バスタブにうずくまり、友達に連絡する。何人かに電話するが繋がらず、最初に出たのはあの幹事の女の子だった。
彼女はどうやら宴会中のようで、背後が笑い声などで騒がしい。
「元気にしているの?連絡くれないから、どうしているのかと思ってた」
彼女は明るく嬉しそうに話す。ちょっとした世間話もしたが、堪えきれなくなって、話題をぶった切り、君のことを尋ねた。
「……私も最近話してないの。いま忙しいから、もう行くね」
少し沈黙した後、怒ったように彼女は言って、一方的に電話を切られてしまった。
いつの間にかバスタブの中で寝てしまったようで、気づくと外が明るくなっていた。
固い場所で体を丸め、長時間寝ていたものだから、筋肉も関節もとにかく痛んだ。それでも、二日酔いの強烈な頭痛と比べれば、大した痛みではなかったが。
這いつくばるようにしてベッドまでたどり着き、時計を見たらすでに朝の七時だ。
僕はスマホを手にして、何も考えずに君の番号をダイヤルした。
何度かコール音が鳴るが、帰ってくるのはプルルという無機質な機械音だけで、君が電話に出ることはなかった。
(終)
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