第一話 走れメロス計画
『走れメロス』の話が、メロスとセリヌンティウスの二人による計画された物だったとしたらこうなるのではないか。
太宰治の『走れメロス』を並べて読み比べてください。
メロスは走っている。見える。はるか向こうに小さく、シラクス市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。もうすぐこの計画が完結する。
* * * * *
思い起こせば一年半前に遡る。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。そんなメロスが、未明に村を出発し、野を越え、十里はなれた此のシラクスの市に羊腸と毛皮を納品にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十八の、妹と二人暮らしだ。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。納品の後訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりで無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアキレスさまを。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信じる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮らしをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
聞いてメロスは、邪智暴虐の王に対し激怒した。何とかしなくてはと、親友のセリヌンティウスの元に行き相談した。セリヌンティウスも同じ事を考えていて、メロスに相談しようと思っていたようだ。邪智暴虐の王だからと言って諦めてはいけない。何とかしよう、「殴られるけれども、負けやしないんだ。」と言う思いからだ。何とかしようにも武力で現政権を倒すことは難しいし武力に対して武力をというのも感心しないと思った。あの王に、人の真実の存するところを見せてやろう。と二人で始めた計画だった。有志を募り内密に二人が立案した計画を進めていく事にした。
村人に一人一人計画を話し説得して協力を仰いだ。秘密裏に行っていたのでそれだけで半年間も掛かってしまった。妹がメロスのことを心配し最後まで反対したが、村人をまとめてくれた妹の婿になる牧人の数日間にもよる説得が功を奏した。その間1年かけて計画の細部を詰めていった。並行して毎晩走り込み等をして計画に備えた。
そして、気象予言士が、良い時期だとした、計画実行の日になった初夏のある日、メロスは、結婚式の買い物を背負ったままのそのそと王城にはいっていって、計画通り王の前に引き出されることが出来た。もちろん巡羅の警吏に捕縛され、調べられることを予想して、騒ぎが大きくなるよう懐中に短剣を隠し持っていた。
王に短剣の件を問われ、メロスは、うまく乗って来たなと思って、しれっと、
「市を暴君の手から救うのだ。」と答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえにはわしの孤独が分からぬ。」。と言われ、これ以上王にしみじみしゃべらすと向こうのペースになってしまうと思い、間髪入れずに、
「言うな!」。と、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
暴君は落ち着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
王が常識的なことを言い出したので、メロスは、ここは否定しておかないといけないと思い。
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
王はメロスの挑発に乗り、叫んだ。「だまれ下賤の者。」王は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
と言い出した。メロスは、磔と言う言葉を聞き、意外と早く筋書き通りの話に持って来ることが出来たので、畳みかけるように妹の結婚式の事を話さないといけないと思った。
「ああ、王は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟でいるのに。命乞いなど決してしない。ただ、 」と言いかけて、メロスは足もとに視線を落とし瞬時ためらって居るかのような仕草をし、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えてください。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰ってきます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
これを聞いたメロスは、やっとここまで持って来ることが出来た。あとは、セリヌンティウスの事を話すだけだと思った。
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許してください。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の親友だ。あれを、人質としてここに置いておこう。私が逃げてしまって、三日目の日暮れまで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにこまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代わりの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔をして、その身代わりの男を、磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代わりを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代わりを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。お前の罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
それを聞いたメロスは一瞬計画の事も忘れ心底から怒りはじめた。
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは本気で、口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、深夜、王城に召された。暴君ディオニスの面前で、佳き友と佳き友は、久し振りで逢ったかのようにふるまった。メロスは、友に計画通りであることを教えるために、一切の事情を語った。それを聞いたセリヌンティウスは計画通り進んでいることを知り、無言で首肯き、よく王を誘導出来たなと思い、よくやったと、メロスをひしと抱きしめた。一緒に計画を立てた友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
メロスは王を計画に誘導できた時は、安堵したが、我慢して顔には出さずにいた。走り出してすぐに、道端に隠してあった鳩を入れた籠を手に取り、素早く密に暗号を記した伝書鳩メールを村に放った。
王は、メロスを監視させるため密偵に馬で村へ先回りするよう命じた。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで村へ到着したのは、翌る日の午前、日は既に高く昇っていた。メロスが村に着くとまず目に付いたのが繋いであった見知らぬ馬だ。王の密偵が旅人に変装しすでに馬を飛ばしてこの村まで来ているのだと思った。疑い深い王の事なので想定内だ。村の皆も分かっていたようで、村人たちは野に出て仕事をはじめていて、私が着くまで結婚式の準備は控えてくれていた。メロスの十六の妹も、何事も無いかのように、兄の代わりに羊群の番をしていた。メロスは結婚式の準備を指示した。その夜花婿の家を訪れ、密偵がいる場合のバージョンで計画を遂行できるように夜明けまで最後の打ち合わせをした。翌日の結婚式にも宴席にも何食わぬ顔をして密偵は参加していた。
結婚式は、予定通りに真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、密偵がいる手前、めいめい気持ちを引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい手を拍った。
村人は、メロスの妹に密偵に聞こえるよう言った。「あなたの兄さんの、一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。あなたの兄さんは偉い男なのだから、あなたもその誇りを持っていなさい。」そして、花婿にも密偵に聞こえるように、「メロスの弟になったことを誇りに思いなさい。」と言った。
雨は、ますます激しくなってきた。経験豊富な気象予言士ですら、この地方の初夏には予想できないほどの線状降水帯が発生した様だった。
メロスは、昨夜は満天の星が輝いていたのに、予想外の豪雨に困惑したが、急な計画変更を思い付き、村人の一人に密偵に強い酒をむりやり進め酔いつぶすように耳打ちした。今後橋が流される可能性があったので、密偵が酔いつぶれるのを待って、村人に川の底に増水する前にロープを張るように命じた。この状況を利用し密偵に苦労して川を渡る所を見せようとしたのだ。祝宴は、夜に入って、密偵が酔いつぶれるのを機に、いよいよ乱れ華やかになり、人々は、ロープを無事張り終えた為、外の豪雨を全く気にしなくなった。
メロスは密偵に後をつけやすくするため翌日の薄明の頃まで待ってから悠々と身支度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身支度は出来た。メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。村を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃、密偵が付いてきていないのに気づいた。二日酔いで寝坊し遅れているのだと思い、居場所を教えてやる為にわざと小歌を大声で歌いながらぶらぶら歩いた。三里程行った所でやっと密偵が追い付いてきた。
メロスは全里程の半ばにあたる川に到達した。やはり、きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木端微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。茫然と、立ちすくむ演技の後、あちこち眺めまわしロープの張ってある場所の目印を見つけそこで、男泣きに嘘泣きしながら、ゼウスに手を挙げて哀願するふりをした。そして、メロスは、ざぶんと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのたうち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始しているかのようにして、満身の力を腕にこめてロープをつかみ、押し寄せ渦巻引きずる流れを、なんのこれしきと手繰り寄せ手繰り寄せ、泳ぐ真似をして川を渡り、対岸の樹木の幹に、すがりついた。渡った後ロープは見えない様に素早く切り離し濁流に流した。振り返ると密偵が伝書鳩メールを放っていた。
密偵は、自らは濁流の川を泳ぎ渡ることが出来ずに見送ってしまった為、濁流の状況をことさら大げさに表現し、結果的にメロスの人並外れた勇気と泳力を強調することになってしまった。結婚式の披露宴でも、村人の中で、メロスの評判が良い事も付け加えた。もちろん、自分が寝過ごしたことは書かなかった。
王は密偵からの報告を受け取り、あわただしく結婚式を行い、到底泳ぐことの出来ない濁流の川を必死で泳ぎ切って城へ向かって走っていることを知って、言っていたことは本当だったのかと思った。そういえば、巡羅の警吏に捕縛され、調べられた時、所持品報告書に短剣と一緒に結婚式の衣装があったことを思い出していた。そして、メロスの村での評判の良い事にも驚いていた。
メロスが走って峠を登りきった所で、案の定、目の前に一隊の王に雇われた山賊が襲ってきた。メロスは一年前から格闘家ヤーギュに短期弟子入りし苦しい修行をしてきたことを思い起こしていた。この日の為に技を磨いてきたのである。山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近の一人に襲いかかり、格闘家ヤーギュから伝授された「無刀取り」の技でその棍棒を奪い取って、猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、盗賊を振り切りさっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に、この日の為に短距離ダッシュを毎日何十本も走り込んだメロスに追いつける山賊は居なかった。振り返ると山賊の一人が伝書鳩メールを放っていた。
山賊はもちろん自分たちの不手際を隠すためメロスの強さをことさら強調し、あれほどの男は誰であっても勝てないと書いて送った。
王は山賊からの報告を受け取り、メロスが山賊に対し逃げ回ることなく真正面から向き合って対応し一撃で山賊を倒した事を知った。そしてメロスのやつなかなかやるではないかと思った。メロスの妹の結婚式と言う嘘偽りない事実と、濁流の川を泳ぎ渡り、山賊を殴り倒した勇気ある行動に感心し始めた。
メロスがしばらく走ると午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来た。太陽の高度がまだ高い、時間が早すぎるのに気づいた。日没ぎりぎりの時間に全力疾走で城に到着しないと感動が増さないのだ。少し休もう。
路傍の草原にあった岩の裂け目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ている所でごろりと寝転んで休んだ。そして、しばら休んで、もういいころ合いだろうと思い、水を両手で掬って、一くち飲んでから走り出した。
* * * * *
こうして現在に至ったのだ。シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。全力疾走のまま到着できる絶好のタイミングだ。メロスは速力を増し、黒い風のように走った。野原で、戻ってくるメロスを一目見ようとしている人々の酒宴の、宴席のまっただ中を駆け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を驚かそうとしたが誤って蹴とばし小川を飛び越え、少しずつ沈んでいく太陽の、十倍も早く走った。
その時誰かがメロスを止めようとしてきた。
「ああメロス様。」うめくような声が、風と共に聞こえた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
誰だ、こいつは、その男はセリヌンティウスの弟子のフィロストラトスだった。何を邪魔するのだ、しまった、こいつも仲間に入れて置くべきだった。シラクス市の人間は秘密が漏れる恐れがあるため仲間にしないようにしていたのだ。メロスは何とか振り切ろうとして叫んだ。
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」メロスは、しつこい奴だと思い、再び叫んだ。
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは、早く、引き留めるのを諦めてくれと言う思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」フィロストラトスが、メロスを引き留めようとして着衣を強くつかんだため破れてしまった。
メロスはセリヌンティウスがメロスに対する強い信念を王に見せつけるよう頑張っているのだと言う事を知り、私も何とかしてこの男を振り切らないといけないと思い叫んだ。
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い!フィロストラトス。」メロスは、咄嗟にしては、我ながら感心するほどの必死の演技と台詞だと思った。
「ああ、それでは、うんと走るがいい。間に合わぬものでもない。走るがいい。」
メロスは、やっと諦めてくれたかと思った。しかし、全力で走りながら叫んだ為、口の中を噛んでしまった様だ。二度、三度、口から血が噴き出た。
陽は、ゆらゆらと地平線に没し、まさに最後の一片の残光も消えようとしていた。あとはセリヌンティウスがメロスと二人で何度も練習してきた演技をすればこの計画も成功だ。
メロスは、練習してきた演技を思い浮かべていた。
メロスは、セリヌンティウスにしがみつき「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
そして、セリヌンティウスが、メロスを殴った後、優しく微笑みながら言うのだ。
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスが殴った後、声を合わせて、「ありがとう、友よ。」と言い、抱き合って泣くのだ。
絶対にうまくやってくれる。メロスは、無二の親友、竹馬の友であるセリヌンティウスを信頼していた。疑ったことなど一度も無かった。
沈みかけている夕日を眺めながら王は思った。改めて全ての報告書を読み返してみると、メロスは信用できる人間なのではないか、セリヌンティウスをさんざんからかっても、メロスは来ます、とだけ答える。これほどメロスを信じて待っているセリヌンティウスを殺そうとしているのか、王は今までの事を思い起こし、俺が今までの人生の中での考え方や行動は必ずしも正しい事ばかりではなかった。間違っていた事の方が多かったのではないかと思い始め、真実とは、決して空虚な妄想ではなかったのだ。そして、出来るならこの夕陽が沈むのを止めたいとすら思った。そして、王は、メロスが到着したならば、俺がしてきたことは今更取り返しはつかないし、今の自分がどれだけ変われるかはわからないが、せめて、自分をこの者たちの仲間の一人にしてもらおうと思い、誰にも聞こえないほどの小さな声でつぶやいた。
「間に合ってくれ。走れ!メロス。」
後日譚
計画は成功し今では、夜でも皆が歌をうたって、町は賑やかになった。
関係者だけの宴席が始まった。メロスは冒頭、皆良くやって呉れたと感謝の言葉を述べた。そして、宴会は始まった。皆が酔いが回ってきた時、妹が、私は結婚出来て兄さんが無事であれば王の事なんかどうでもよかったのよ、結婚衣装を自分で選べなかった事だけが悔やまれると言った。メロスは婿の牧人にこんな能天気に見える妹だがあなたを婿に選んだぐらいだから見る目はある、よろしく頼むと言った。村人が、川にロープを張った時のことについて、あの時念のため予備に2本張っておいて良かった1本は流されてしまったのだからと言うと、気象予言士が俯きながら、線状降水帯を予言できなくて、この季節が計画を実行するには最適だと言ってしまったのを詫びると、メロスが、いや、あの川を泳いで渡ったことがかえっていい結果を齎したのだと、慰めた。格闘家ヤーギュは、メロスの肩を抱きながら、お前の様にあんな短期間で俺の技を習得できる奴は初めてだと言い、本格的に弟子になって道場を継いでくれないかと言いだした。
座が乱れだした頃、メロスは、蹴とばしてしまった犬を抱き優しく撫でながらセリヌンティウスの隣に座りこの1年半の長かった思い出を語り合っていた。お互い「あの時が一番驚いたよな、ほら、王が、わしも仲間の入れてくれまいか、お前らの仲間の一人にしてほしいと言われた時は、え、仲間って!計画が全部ばれていたのじゃないかと一瞬思ったよな。」(笑)
その後泥酔しかけたセリヌンティウスが言った。「メロスよ俺はお前が城に着くのを待っていた時、もしかしたら遅れるのではないかと思う時がちらとだけあったよ。」と、親指と人差し指を見せた。
それを聞いたメロスは思った
「演技じゃなかったのか。」
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を本気で殴った。
後に、現在はメロスが休んだ清水が湧き出ている所は水量も増えて泉になり綺麗に整備され、『メロスの泉』として地元で愛されている。泉に足を浸し、流れ出ている清水を飲み、祈ると健脚になれると言う言い伝えがある。
終