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90【全日本高校選手権_参】

 朝が深々と冷え込み、床の冷たさに出足の一歩が遠のきそうになる。

 昨日が予選で体を動かしたのが程々とはいえ、少し疲れが残っている様子。恐らく単純に体を動かした量ではなく、緊張による疲れもあるのだろう。

 経験的な事を言えば、体が動く状態になれば自ずと、気にならなくなるくらいだろう。

 せっかく頑張って射止めた椅子を体調不良で台無しにすることは無さそうだった。


 沙月も朝早いにも関わらず当然の様に準備をし、家に来てくれる。


「おはようございます」

「ん、おはよう」


 不安も緊張も今のところ感じられない。

 かといって特に入れ込んでいるのを感じられない。

 昨日の震えはなんだったのか。


 ふと沙月がじっとこっちを見つめているのに気づいた。


「どうかした?」

「いえ、気の所為なので気にしないでください」

「ん」


 朝食を軽めに済ませ、準備する。

 準備と言っても、昨日から持って行く物は変わらないのでそのままザックごと持って行くだけだが。


「行こうか」

「うんっ」


 どちらからともなく、手を取り朝早くに家を出た。


 受付を済ませ、沙月と共に新堂と合流した時。

 新堂はとんでもない事を言い出した。


「次の決勝で勝負しないか?」

「は? 勝負? なんで?」

「俺が、勝ったら琴葉さんと一日デートさせろ」


 その一言は、様々な思いを巡らせた。


 なぜそんな事を今言うのか。

 なぜ今なのか。

 そもそも勝負する必要なんてないだろう。

 

 考えようにも、感情が塗りつぶすかのように思考は千々に乱れた。

 言葉の裏を考えようにも、どうしても怒りが邪魔をして考えがまとまらない。


 そもそもだ。

 どのような意図や理由があるにしても、どうしても許せない。

 沙月を景品扱いしたことだけは。


「……何言ってるんだお前?」


 突拍子もない要求に沙月も驚きを隠せないでいた。


 余りにも一方的で交渉ですらない。

 片方が何も聞かずに要求を叩きつけただけ。

 言いたい事がありすぎて、それだけを短く返した。


「ん? 聞こえなかったのか?」

「聞こえてる。むしろだから聞き返したんだ」

「もちろん、琴葉さんの意思は尊重する。

 けれどもまずは朝比奈に断っておくのが筋だと思ってな」


 筋もクソも正面切って、そもそもの内容がとんでもない事を言ってきているのを正してやろうか。

 奥歯を噛みしめ、荒れる感情を受け流そうとした。


「まず始めに沙月は景品じゃない。

 それと、どうしてそんな事を言いだしたのか訳を言え」

「何、そう真剣に捉えるな。

 過去に失敗した事のある成功例がいるんだ。どういう感じか知りたいと思ってな」


 つまりはただ横やりを入れたいだけ。

 それもお遊びで。


「こんなことをしても、得られるものじゃないだろう」

「それは、やってみないと分からないだろう?」

「沙月が断ったら、無理強いはしないんだな?」

「それは約束しよう」


「俺にメリットは?」

「それはそっちで考えて構わないぞ」

「考えておく。覚悟しろよ、ほえづらかかせてやるから」

「飼い犬の様に見えた番犬だけどな。

 噛まれる痛さを味わわせてやろう」


 こうなってしまっては、一緒に準備をするどころではない。


「沙月、あっち行こう」

「あ、うん……」


 沙月の手を取り、引いて行く。


「優陽くん」

「……」

「優陽くん!」


 握っている手を空いている手で叩かれていた。

 その時、思わず力が入っていたことに気づいた。


「ごめん、痛かったか」

「少しだけ。それよりも少し冷静になってください」

「冷静になんてなれるか。まさかあんな事を言いだすなんて思わなかった。

 他の選手なんてどうでもいい、新堂に勝ちさえすればもう良い」

「うん、負けないでくださいね。

 でも、そのためにはもう少し冷静にならないといけないんじゃないんですか?」

「……」

「今はそう言ってても時間が勿体ないですね、準備をしましょう」

「あぁ」


 決勝は、予選の下位から始まっていく一本勝負。

 いきなりトップバッターのように始める訳ではないが、それでも高順位の選手ほど時間に余裕があるわけではなかった。


 今のままではメンタルを落ち着ける所ではない。

 とにもかくにも、準備をしなければ話は始まらない。

 準備をしながらでも良いから、なんとか落ち着かなければ、勝負にすらならないだろう。


 こんな時ばかりは怪我をした左手が少し恨めしかった。

 少しでも時間が惜しい時に、テーピングの手間をも省きたいのが本音。

 そう思っても、万全を尽くすには不可欠だ。


 手慣れた動作で、テーピングを用意をするものの。

 手からすり抜け、コロコロと落としたまま転がって行ってしまった。


 沙月はそれにすぐ気づき、拾いにいってくれる。

 半ば呆然としながら、手が震えているのに気づいた。

 昨日で治まったと思ったはずが、また再発してしまったようだ。

 なぜ今なのだろう。


「優陽くん、少し待ってて下さい」

「ん?」


 そう言うなり沙月は、どこかへ走りだしてしまった。

 しかも落としたテーピングを持って。


 椅子に座り、意識を沈みこませるように息を吸って、吐いた。


 海原でたゆたい、浮かんだ状態から沈んでいくイメージを持ちながら少しずつ少しずつ深く深く、潜っていく。

 周りは暗くなり、音も無い。

 全てを閉ざして、丸くなる。


「――とくん、優陽くん」


 いつの間にか心配そうな沙月が顔を覗き込んでいた。

 そんな沙月を安心させようとして、失敗する。

 顔の力を上手く抜くことが出来なかった。


「へぇ、優陽がそんな表情するの。あの時以来じゃない」


 そう声を掛けてきたのは、麗奈だった。

 なぜとは思ったが、そこまで気にはならなかった。

 昨日会って、今いる。

 きっと決勝に進めたのだろう。

 精神がピンと張りすぎていて、気にすべきではない事として処理していた。


「テーピング失敗したんでしょ。

 ほら、やってあげるから手出しなさい」

「沙月が呼んだの?」

「大慌てでね」


 沙月はハァハァと呼吸を早くしていた。

 麗奈によって手早くテーピングが巻かれていく。

 手慣れたものだった。


「はい、終わり。

 覚えてる? 三人で団体の草コンペ出た時の事」

「何を急に」

「良いから答えなさい」

「覚えてるけど」


「あと一つ課題がどうしても出来なくて時間が迫った時、今の優陽みたいな顔をして課題に向かって行った。あの時は時間切れになったけど、登りは凄かった」

「そうだったっけ」

「わたしが言いたいのは。

 そこまで集中しすぎるとリードはバテるわよ」

「そんな柔なトレーニングしてない……」


「子供みたいな言い訳して」

「同い年だろ」

「精神的な話よ。話を逸らすな」

「逸らしては――――」

「それが子供って言ってるの」


 盛大な溜息をつかれてしまった。


「良いから、琴葉さんでも見てなさいよ、あんたは」

「なんだその投げやりな……」

「良いから見ろ!!」


 そう言って強引に顔の向きを変えられた。

 視線に入ってきた沙月は心配そうな、不安そうな顔をして見ていた。

 心配をさせてしまったという若干の責め苦と同時に、それでも隣にいてくれた事に安堵した。

 なぜか急にふっと力が抜けたのを感じた。


「あんたの隣には誰がいる?」

「勝利の女神」

「バカなの?」

「優陽くん、さすがに今それはどうかと思いますよ」

 

「負ける気がしないのは本当」

「ったく……」

「麗奈も居るなら百人力だな」

「あんた、誰彼構わずそんなこと言ってるの?」

「昔一緒に登ってたからこそだろ、麗奈だからこそ居て心強いのは本当」


「両手に華を持ってたいなんて、欲張りになったものね」

「片方は棘が痛すぎてもう落としそう」

「落とさないように気合入れてあげる。

 背中、覚悟しなさい」

「――お手柔らかに」


 素振りすんな、こわいこわい。


「頑張って来なさい――な!」


 掛け声と共にバチーンと大きな音がした。


「いっっっっっつぅぅぅぅぅ」


 本気で痛いんだが。

 これ絶対、紅葉ついてるだろ。


「えっと、優陽くん。頑張ってくださいね」


 そう言うとそっと叩かれた部分に手を添えてくれる。

 その優しさに涙が出そうだった。

 痛みでも涙が出そうだが。


「ありがとう」

「どういたしまして」

「沙月に言ったんだが」

「わたしにも感謝しなさいよ」

「凄い痛いんだけど」

「効いたでしょ」

「効きすぎるくらいにはな」


 上手い具合に体の力が抜けているのが分かった。

 気分は高揚しているのに、頭は冷静で不思議な感覚だった。


「少し歩いてくる」

「いってらっしゃい」


「麗奈、ありがとうな」

「つまらない登りしたら許さないわよ」


 歩きながら考えると簡単な事だった。

 震えていた理由は、悔しかったから。

 サポートとして参加している云々は関係ない。

 単純に新堂に負けたくないと思ってしまっていたのだ。

 余計な力が抜ければ、自然と震えは治まっていた。


 ぐるりと歩いて戻ってくると麗奈はどこかへ移動したみたいで、沙月だけが残っていた。

 沙月の表情にも心配そうな顔はもうなく、いつもの柔らかい笑顔で迎えてくれた。


 あとは、力を出し切るだけだった。


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