86【特別と日常】
相変わらず心配げな沙月と一緒にいつものようにジムに来た日。
異変はすぐに起きた。
どちらかと言えば、自覚出来たというのが正しいだろうか。
「これは思ったより駄目っぽいな……」
思わず独り言ちてしまう。
まだ準備運動にすぎないにも関わらず、痛みが走った。
それも鋭い痛み。
左手を見て、握っては開く。
葛藤が生まれる。
せっかく来たのだから、もう少し。
でもこのまま頑張っても良い事なんてない。
登りたい気持ちと痛み方からの冷静な自分。
少し位なら良いんじゃないか。そう少し位なら。
「優陽くん」
はっ、と顔を上げれば、沙月が隣に来ていた。
心配そうに、不安そうに見上げる顔は自分を責めるでも怒るでもなく、ただただ気遣い、慮る様に見ていた。
「優陽くん」
もう一度名前を呼ばれ、左手を包み手を重ねられた。
憂いを帯びたその声音は、名前だけしか呼ばれてないにも関わらず、胸を締め付けられそうだ。
「座りましょう」
腕を引かれ、座ると天を仰いでしまった。
隣にいる沙月は何も言わない。
言いたい事は山ほどあるだろう、自分の中の冷静な部分も、警鐘を鳴らしている。絶対的に休むべきだと。
それでもここまで積み上げてきた物が崩れてしまう恐怖が拭えない。
休むことで、これまで出来ていたことが出来なくなってしまうのではないか。
他が成長している中、自身だけが成長を止め、置いて行かれるのではないか。
目標を定めたからには、そこに向かって全力を出すべきなのではないか。
ここで休んでしまったら、全力を出したと胸を張れるのか。
心の靄は晴れない。
それでも痛い物は痛いと、その事実だけが現実だった。
「――――帰るか」
「うん」
沙月はやっぱり何も言わなかった。
言葉で諭し、状況を理解させ、認識させるなど容易いだろう。
感情に訴えても良い。
それでも聞かなければ、沙月の為だと言われたら自分は、沙月が言う通りにするだろう。
客観的に見た時、どう見えるかということを見失うほど、自分を見失ってはいないはずだ。
それでも沙月は沈黙を選び、判断を委ねてくれる。
沙月から見ても、この判断は間違ってないのだろう。
間違っていたら、はっきりと間違っていると言ってくれるのだから。
「何か食べたいものはありますか?
今ならなんでも作りますよ」
それはこっちを励ますように、優しく微笑んでくれた。
「なんでも良いけど、いつも好きな物を作ってくれてる気がするけど」
「献立が一番大変ですからね」
「それには同意するけど。
そうすると今ならって言葉は……」
「いつもより早いんですから、間違ってはいませんよ?」
「早いって言っても登ってない日と変わりないのに、特別感が無くなったよ?」
「特別な事じゃないですよ」
特別な事じゃないと言った沙月の視線は茶化すこともないが、厳しい様子も何もない、本当に日常の事だと。
怪我する事も、上手くいかない事も。
ずっと走り続ける事はできない、一時休息する事も。
さきほど感じた焦燥感さえも、日常だと。
「そっか、特別じゃないか」
「うん、私が優陽くんにご飯を作ることは特別な事じゃなくて、当たり前の事なんですよ」
「ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
「ついでにお願いしていい?」
「何をですか?」
「甘えても?」
「良いですよ。膝枕してあげますよ」
「いつもと逆だな」
「それも私達の日常ですよ」
「ん」
ジムを出た頃とは比べ物にならない位、心が軽くなり、顔を上げる事が出来た。
それでもまた思い出し、ブレてしまうかもしれない。
それでも沙月が居れば、きっと大丈夫だろう。
いつの間にか着いていたマンション。
二人で自宅の玄関をくぐり、いつもの日常へと戻る事が出来た。




