49【それぞれの登山】
ゴールデンウィーク当日は雲一つない天気だった。
空を見上げれば、空の青さが際立ち、山の上に登ればどこまでも景色が広がっていそうだった。
今、二人は山のふもとにいる。
これから山を登るのだが、早朝にも関わらず周りには人がパラパラと居た。
それこそ老若男女、本格的な恰好をした人から、軽装な人と様々だった。
入り口にはゴンドラの定期便があり、帰りはこれを使って降りてくることもできる。
これで登る事も出来るが、山登りをしにきてゴンドラで登る。
風景を楽しむだけなら良いのかもしれない。
「それじゃ、これから山に入るけど大丈夫?」
「うん」
「足元に気を付けて、木の根っことかあるから。
休憩とかも遠慮なく言って。
後は――――――」
人差し指を口に当てられてしまった。
「ふふ、そこまで心配しなくても大丈夫ですよ」
いつになく高揚しているのが分かった。
自覚している以上に自分は楽しみにしているみたいだ。
「うん、行こうか」
それを合図に山に入っていった。
ゆっくりと沙月を置いて行かないように歩いていく。
普段いる街中と違い、周囲に喧騒や騒がしい雑音はない。
静寂の中にも、小鳥がいれば、チュンチュンと鳴き、ふわっと風が吹けば沙月の長い髪の毛が横に靡いている。
誰かとすれ違い、挨拶を交わす。
それは日常では考えられないが、誰彼と問わずすれ違えば挨拶をする。
そんな場所だった。
「最初、体が慣れるまで少し大変なんだ」
「……」
「それを過ぎると少し楽になるから」
「……うん」
「頑張って返事しなくて平気」
歩きながら息を整えるように、沙月は一歩一歩進めている。
自分はもう知っているから大丈夫だが初めての登山だとこの最初の時間が続くと思うと大変だろう。
もう少しすれば、風景を楽しむ余裕も出来ると思うんだけど。
しっかりと呼吸をしながら、歩いているとじんわりと汗をかき、玉のような汗がぽつぽつと出てくる。
自分はもう少しで慣れるかな。
「沙月、大丈夫?」
「はぁ、ふぅ……」
「水飲む?」
「……うん」
自分のザックから水筒を取り出し、渡す。
水などの重い荷物は自分がもっている。
さすがに、手ぶらとは言えないがなるべく沙月の荷物を軽くしてあげたかったから。
「こんなに汗かくのなんて久しぶりです」
その顔に辛そうな表情はなくタオルで汗を拭いている。
むしろ清々しささえ感じられ、キラキラと光って見え、思わずまじまじと見てしまう。
山を登るのだから別に何か特別におしゃれな洋服を着ているわけではない。
暖色系のTシャツにストレッチするパンツ。
ザックは実家から送ってもらったなんでもない山用のザック。
靴だけはサイズがある為、新しく買った物。
それでもおしゃれとは程遠く少し無骨な作りだ。
ただそこに珠のような汗を身にまとい、汗でTシャツが濡れている。
決して透けるわけはない。
それでも体に張り付き、胸元にも張り付いている。
張り付いている箇所がどうにも艶めかしく想像を掻き立てられる。
そんな汗を拭う仕草が、どうしようもなく色っぽく映った。
さらに顔に張り付いた髪の毛を払う仕草など、ドキリとしてしまう。
そんな視線を誤魔化すように、自分も水を一口。
「いつでも休憩するから」
「うん、ありがとうございます。
行きましょうか」
また二人は歩きだした。
沙月もそろそろ体が慣れる頃合いかな。
顔を上げ前を向けている。
「そろそろ体が楽になったんじゃない?」
「え……、あ、本当だ」
「周り見ると良い景色だよ」
生来の好奇心がひょっこり顔を出したのか、そう言って周りに目を向ければ沙月の顔が晴れやかになっていった。
そこに広がっているのは、途中で通り過ぎた住宅地。
田畑も広がり、違う方を向けば、緑に覆われた山。
そこから繋がる稜線などが見て取れる。
「そこまで遠くに来た感じはしないのに、別の世界ですね」
「そうだね」
沙月も少し余裕が出てきたのか、楽しそうにしている。
途中、何度か休憩を挟みながらも順調に登っていく。
岩を見れば、クライミングをしている身としては登れないかどうかを見てしまうのはクライマーの性だろう。
脇にある大きな岩を無駄に触ったりもしてしまう。
知らない人からしたら、面白いのそれ? と聞かれてしまいそうだ。
そんなこんなで、残りは長い階段を上がるだけという所まで来た。
「意外に階段が辛いんだよね……」
「そうなんですか……?」
「まぁ……、後はここを登れば山頂だったはずだから、行こうか」
「うんっ」
思ったよりも疲れすぎていないようで、少し安心した。
山の階段というのは、狭くて低い。
そのため、少しずつ細かく足をあげるので、やけに疲れる。
ここまで歩いて疲労した足には、少し堪える。
案の定というか、なんというか。
沙月もしんどそうに足を上げている。
それでももう少しで山頂だと言われたからか、頑張って足を動かしている。
呼吸も時折深い物が混じる。
そうして、最後のひと踏ん張りと階段を登り切った。
「お疲れ様、山頂だよ」
「はぁはぁ、ふぅふぅ、着きました?」
「着いたよ」
地面が土からコンクリートへと変わり、歩くとそこは富士山に向かって空が開けていた。
これだけの快晴だから、見れるだろうとは思ったけど、綺麗に見えるな。
隣で沙月が、目を見開いて景色を見ている。
まるで食い入るように柵の近くまで近づいて行った。
どうやらこの景色はお気に召したようだ。
「どお?」
「景色に圧倒されますね」
「そうだね」
そうして景色を見ていると気持ちいい風が吹いてきた。
さっきまでと違い、そんな風を楽しむ余裕もできたのだろう。
うっとりと目を細め、髪の毛が靡いている姿に思わず見惚れてしまい、とても幻想的で心が奪われた。
今度は沙月もこちらの視線に気づく余裕があり、にっこり微笑みを返してくれる。
そして、何かを期待するように視線で問いかけてくる。
しかし決して言葉は発される事はない。
じりっ、じりっと視線を外す事なく近づいてくる。
根負けしたようにこちらから声を掛けた。
「……沙月……?」
「どうしたんですか、優陽くん?」
きっと気づいてるのだろう。
むしろ気づいてるからこそ、問い返したのだろう。
「言わないとダメ?」
「思った事を言ってくれると嬉しいですね」
沙月のおねだりと自分の羞恥心との戦いはすぐに決着がついた。
勝負にすらならない。
「普段とは違って、凄く魅力的に映って、凄くドキドキしてる。
とても素敵で、見惚れてた」
「ありがとうございます。
優陽くんもさすがですね、頼りがいがあって素敵ですよ」
「……ありがとう」
まさか周りに人が少ないからと言って、こんな事を言い合うなんて。
顔があっつい。
「あはは、お昼にしましょうか」
「ん、食べよう」
誤魔化すように言う昼食の誘いだった。
沙月がやり出したことだと言いたかったが、よくよく見れば沙月の耳も真っ赤だった。
どうやら互いにこの会話は嬉しい、恥ずかしいと言った感じで、お互い様のようだ。
山頂に用意されているテーブルとベンチで持ってきた昼食を広げた。
持ってきたのは、おにぎりにハンバーグ、高野豆腐の煮物、ナスのお浸し、卵焼き。
朝早いのに頑張って作ってくれた。
その思いにせめて言葉だけは忘れないでいよう。
「本当にいつもありがとう」
「どういたしまして、召し上がってください」
「いただきます」
動いた後の最初の一口は、おにぎりだ。
空腹に食べるおにぎりは格別に美味しい。
ペロリと一個を食べ、他へと食指が動きハンバーグを食べれば、煮込まれしっかりとした味付けがこの後の元気をくれるようだ。
高野豆腐もナスも、出汁の効いた優しい味が体に染みわたり、最後にいつもの甘い卵焼きを食べ、美味しさの余韻に浸った。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
食後の満足感に浸りながら考え事をしていた。
沙月も嫌じゃなかったら、また山に登りに来ても良いのかもしれない。
基本的に見てる方が好きだと言っていたが、たまになら一緒に体を動かすのも良いのかもしれない。
とりとめもなく耽っていると声を掛けられた。
「優陽くん、アイス食べても良いですか?」
「うん、良いよ。
食べきれなかったら貰うから」
「ありがとうございます。
ちょっと行ってきますね」
やっぱり沙月はそれほど量を食べられない。
小食なのでこういう時も、一つ丸々は大抵食べられない。
いつもは遠慮しているのか外では買わないのだが、この温かい陽気に誘われたのか食べたくなったみたいだ。
山頂で食べるアイスは美味しいので、その誘惑に抗い難いのも事実。
これからもそんな小さなお願いを、自分が応えられるなら応えていこう。
アイスクリーム片手に沙月が戻ってきた。
テーブルに着くとコーンの上に乗ったアイスをスプーンで少しずつ食べている。
美味しそうにスプーンを口に運ぶ姿は、可愛らしかった。
その緩んだ頬は、口にしているアイスの様に蕩けさせ、目元も緩んでいる気さえしてくる。
幸せそうな表情はいつまででも見ていられそうだった。
思わずじっと見てしまい、沙月は何を思ったのか、スプーンでアイスを掬うとこちらに差し出してきた。
予想外の事に慌て、周りを見回す。
幸いにして周りに人は少なかった。
全くいないわけではなかったが。
「あれ、違いました?」
見ていたのを、欲しいからと勘違いしたようだ。
かといって否定し、見てた理由を問われれば答えるのも戸惑ってしまう。
そうして出した応えは。
大人しく口を大きめに開けた。
すると冷たい感触がやってきた。
「……ありがとう」
「もっと要りますか?」
「いや、大丈夫」
納得したのかしてないのか。
さすがに今更だけど、外って言うのはちょっと恥ずかしいな。
そんな心を知ってか知らずか、沙月は美味しそうにアイスをぱくついてる。
沙月を視界の端に捉えながら、心地よい風に身を任せゆっくり流れる時間を楽しんだ。
半分ほど食べた所で、沙月から残りを任され、アイスを食べ終えた。
後は下山するだけだが沙月の体力はどうだろうか。
「下山はどうする?
多分、結構疲れただろうからゴンドラ使っても良いと思うけど」
「でも普通は歩いて降りるんですよね?」
「普通はって聞かれたら、歩くかな。
ゴンドラ無い所もあるしね」
「でしたら歩きましょう」
多分、結構足にきてると思うんだけど。
下山の方が無意識に足にくるから、どうしたものかな……。
転ぶと危険だけど。
普通は、かぁ……。
沙月は大丈夫とばかりに勢い良く立ち上がるが勢いをつけ過ぎたのか姿勢を崩してしまい慌てて手を伸ばし支えると、困ったような表情をしていた。
「あの……やっぱりゴンドラでも良いですか」
「もちろん」
「すいません、迷惑を掛けてしまって」
しょんぼりした顔をしてしまった。
「迷惑なんかじゃないから、そんな顔しないで。
確かに一人なら歩いて下山できるけど、それは歩けるだけだから」
「もう少し私も運動した方が良いのかもしれないですね」
そう嘆息するように言う。
その胸に去来する物は分からないが。
「運動するに越したことはないと思うけど、別にいいんじゃないか?
俺は沙月と一緒に来たかった。
それ以外ないよ」
きっと余分な休憩で足を止めてしまっている事も気にしているのだろう。
それさえも気にしなくていいと含めて言った。
「ふふ、優しいですね」
「……今だけな」
沙月は自分の答えが意外だったのか、少し驚いた表情をした。
面と向かって言われた事への単なる照れ隠しだ。
「そんな事はないと思いますけど」
きっと沙月にもそんな事はばれているのだろう。
すぐに沙月の口元が弧を描く。
「今だけなんですか?」
どちらかというと沙月には甘い自覚はあるのでまともに顔を見ることができない。
そんな自分の心情さえも分かっている。
でも聞かずにはいられないと表情が物語ってた。
「一緒にいる限りかな」
「そうしたら、これからもお世話になりますねっ」
微笑みとともに言われ、耳元で追加とばかりに言って来る。
「そんな優陽くんも大好きですよ」
驚きと共に沙月を見れば、じっとこっちを見つめていた。
自分も思わずその瞳を見つめ返してしまい、やがて心臓の音がはっきりと聞こえてくるほど、心落ち着かなく結局視線を先に逸らしたのは自分の方だった。
自分がしてやられてしまった事に憮然とした表情をしてしまい、沙月は口に手をあて笑いだしてしまった。
そうして一頻り照れさせられたあとはゴンドラに乗って帰るだけ。と思っていたが、ちょうど銭湯の看板が目に止まった。
そういえばと思い返す。
昔、父さんに連れられて山を登ったときは立ち寄ってさっぱりしてから帰った記憶があった。
どうしようか……。
俺としては寄ってから帰りたいけど、女性はどうなんだろうか。
うーん……だめだ、考えても判らないな。
知識の乏しさに愕然としつつも聞くだけ聞いてみようと。
「沙月さ、よかったら銭湯入ってく?」
「あそこですか?」
「そう、多分まだ入れると思う」
「いいですね、寄りたいです」
思ったよりも好感触のようだ。
タオルはレンタルして、下着くらいは買い換えよう。
Tシャツとパンツは残念ながらそのままだ。
それでも入らないよりかは断然ましだろう。
二人分の料金をまとめて支払い、入り口で別れた。
手早く脱ぎ、頭や体の汚れを洗い落とし湯舟に浸かると体の疲れが抜けていくようだった。
ぁ~~~~~~~、と少し声が漏れてしまう。
この気持ちよさだ。
ちょっと位は仕方ない。
窓の外には露天風呂があった。
さっきまでとはまた違った眺望が広がり、どうせだからと外に出れば余り人はいない。
少し大きな声を出せば、沙月に聞こえるかな。とふと思ったが、向こうにも人がいないとは限らない。
さすがにマナーとしてどうなのかと思い、そのまま大人しく湯舟に浸かった。
十分に温まり、髪の毛を簡単にドライヤーで乾かし入浴を終わらせた。
体はさっぱりとし気持ちが良い。
そして銭湯に入った後と言えば、コーヒー牛乳だろう。
お約束の甘い飲み物を飲みながら、沙月を待った。
「おまたせしました」
「全然だい……じょう――――――」
すっかり頭から抜けていたのは風呂上りの沙月と対面するという事。
実家に泊った時も確かに風呂上りではあったが、直後というわけではない。
それにやはり大きな湯舟に浸かると芯まで温まるからか、その顔は全体的に薄っすらとピンク色をしていた。
沙月の長い髪の毛全部を乾かすのは無理だったのだろう、湿り気を帯び、それが逆に艶めかしさを増していて、とても情欲を掻きたてさせられる。
そのまま近くまで来てくれると、何やら石鹸の香りをさせていた。
妙に色っぽいというか艶っぽいというか……。
「……何か飲む?」
どこに視線を向けて良いのか解らず、定まらない。
「コーヒー牛乳も良いですけど、私はフルーツ牛乳にします」
派閥でもあるのだろうか。
買ってくると隣に座り、美味しそうに飲んでいる。
沙月にしたら、当たり前の距離なのだろう。確かにいつもだったらこのくらいの距離だ。
手を伸ばせば簡単に手が届く、そんな距離。
しかし今はその距離がちょっと辛い。色々な意味で。
何か話をしていないと意識しすぎてしまいそうだ。
「今日は楽しかった?」
「うん、とってもっ!」
沙月の喜んだ笑顔にほっと胸を撫でおろした。
あまり運動をしていないので、嫌になってしまわないか、少し不安だったのだ。
その様子に自分も楽しかった事を思い出した。
「昔は父さんが時々連れてきてくれてさ。
こうして銭湯に入るまでがセットだったのを思い出したよ」
「最近は行ってないんですか?」
「ジムに行き始めてからは、あんまり行ってないかな。
ジムで登ってる方が圧倒的に多かった」
「悠絆さんも優しい方ですよね」
「……そうなのかもな」
「その素直さを本人達にも言ってあげたらどうですか?」
優しく柔らかく言ってくれる、その中には少しだけ咎めるような雰囲気もあったが。
「そのうちな……」
「優陽くん」
改めて名前を言われ、沙月の顔を見た。
その沙月の表情は、少しだけ。本当に少しだけ真剣さを交えていた。
「伝えられる時に伝えてくださいね」
まるで伝えるべき相手がいるうちに。
伝えられるうちに。
と言葉を続けたそうに。
その言葉を決して誤魔化す事が出来なかった。
「解った。ありがとう」
「いえ、帰りましょうか」
「そうしよう」
そうして帰りの電車に揺られ、またいつもの家に帰って行く。
沙月もさすがに疲れたのだろう、自分の肩にもたれ掛かり、寝ている。
肩に掛かる心地よい重さを感じながら電車に揺られて帰った。
初めてではないが、それは付き合う前の話。
こうして沙月の寝顔を見れて役得だと思ったのは、ここだけの内緒だ。




