04【高校生と酔っ払い】
ジムでの成果は良くもなく、悪くもなく。
可もなく不可もなくといった感じの出来だった。
何かに囚われ、固執して悪い状態に入ってしまうよりは良いと言えるが、良くなる兆しがないとも言える。そんな何かを探しているような帰り道。
いつもと同じ夜だけれども、それでいて淡い月明かりがまるで人影を照らしているような記憶を掘り起こしてくるような、夜の帳が落ちている頃。
本当に、路地に一組の男女の人影があった。
遠目には男性が一方的に女性に詰め寄っている様子に見えた。
よくよく見ると男性が小柄な女性の腕を掴んで何か口論しているかのようでその雰囲気はとても良くない。
それはまるで痴話喧嘩のようにも見えるが、いまいち判然としてはいない。
近くに来るともう少しはっきりと状況が見えた。
自分のとんでもない思い違いだった。
明らかに少女は嫌がっていて、縮こまってしまっていて怯えている。
そしてそんな少女に対し酔った男性が怒鳴り散らしていた。
顔を真っ赤にしながらまっすぐ立つ事すら覚束ず、捲し立てる様に責めていた。
その様子に嫌悪を隠すことは出来なかった。
よく言う「良い大人が」と言えるくらいには、侮蔑の感情を抱いた。
このまま放っておいて良いわけがない。
相手が大人だからどうとは、微塵も思わない。
正義の味方を気取るわけじゃない。
暗がりにかこつけて、人通りがないのを良い事に言いたい放題。
そんなものが目の前で繰り広げられている様は、自分をひどくイラつかせた。
自分の中に少女がここまで一方的に追いやられていているのを見過ごすという選択肢はなかった。
「嫌がってますよ」
「な、なんだ、ぉ、お前は!!」
「ただの通りすがりですけど、この状況が普通でない事くらい見れば解ります」
「ぅ、うるせぇ、黙ってろ!」
「黙るのは構いませんが……、手は離せ」
良い大人が酔った勢いで、女性の腕を掴むな。
自分は基本的に、人に対して誠実でありたいと考えている。
礼儀を尽くしたいと考えているし、失礼に当たる事は避けたいと考えている。
ジムでは不特定多数の大人と接する機会が多い。
すると自然とそういった考えを持つようになった。
それぞれが大人であり、そこの中で正解を見つける事は、まだ自分には到底出来なかったから。
しかしながら、接している大人全員がそうとは限らない事も経験している。
残念な事にだ。
関わってこなければ関わらなければ良いだけの話であるが、目の前の相手は違う。
普段よりも強く出る事を決めると、苛立つ感情を込めて手首を掴み。
ぐっと力を込める。
すると相手は痛がりながら手を離し距離を開けた。
すぐさま体を男性と少女の間に滑り込ませ、男性と相対する。
「な、何しやがるんだ!」
「あんたは何をしようとしてたんだ」
一歩も引く気のない自分の態度に怯んだのか、口をもごもごさせながら男性は言う。
「んぐ……、そいつが俺を憐れむように見やがってたんだ!
どいつもこいつも……、俺を憐れむように見やがって!
それを、わ……、わからせてやろうとしただけだ!!」
それを聞いた瞬間、呆れて物も言えなくなってしまうとはこのことだろう。
もう陽は落ちて暗くなっているのに、どんな顔をして見ているかなど、よほど近くない限り相手の表情なんか解らない。
ましてや酔っ払い相手にそこまで接近して見ようとするはずがない。
単純に千鳥足で歩いていれば見てしまうのは当然だろう。
それを、どいつもこいつもと言いだす始末。
ここには今まで一人しかいないにも関わらずだ。
どこで何があったのか知らないが八つ当たりして良い理由にはならない。
「あんたが誰かも知らないが、被害妄想もいいかげんにしろ」
「な、なんだと!?」
「そんな事で、女性の腕を掴んで絡んで良いと思ってるのか?」
自分はそう言うと憐れむようについ男性を見てしまった。
そう、顔を付き合わせるようによほど近くで、だ。
自分の失態に気づいた時にはもう遅かった。
視線に激怒した男性は顔を真っ赤にして殴りかかってきた。
酔っ払いの拳だ、避けようと思えば避けられた。
だけど避けると後ろの少女に当たるかもしれない。
それならばと避けずにそのまま殴られる事にした。
後ろで小さく悲鳴が聞こえるが、視線を男性から外すことはない。
さすがに何度も殴られる趣味はないのだから。
いてー、擦り傷は慣れてるけど、殴られるのは慣れてないしな。
まぁ、後ろの彼女が殴られてないならそれはそれで良いし、相手が治まればいいか。
もちろん殴った側が殴られた側の心情なんて気にしない。
むしろ殴った側がよろめいてしまった事でちっぽけなプライドさえも砕いてしまった様子。
知った事か。
その事実に対して更に腹がたったのか今度は少女ごと蹴ろうとしてきた。
自分にとっても男性の行動は予想外で思わず呆れてしまった。
それでも対処できるよう準備はしていた。
咄嗟に蹴ってきた足を鞄で払いのけ、敢えて大きく一歩踏み出した。
そのまま相手の体ごと奥に押しやり、なるべく後ろの少女から男性を突き放す。
勢いに負けた男性は尻もちをつき、顔を赤くしている。
「ふざけんな!!」
小さな声で、しかしはっきりと相手に聞こえる声で腹の底から絞り出すように、言葉少なく相手を見下ろす。
自分は端的に言うと怒っていた。
完全に男性が酔っぱらった上での暴行、その上、女性を狙って蹴ろうとするとは。
自分の中では決してやって良い事ではない。
普段から、メンタルコントロールを心掛けているがこの男性の行動に、我慢はできなかった。
この怒りをぶつけるべく殴りたい衝動を抑え、握りこぶしを作り前かがみの状態で留まるのが精一杯だった。
一発くらいならお相子で済まされるよな。
先に手を出したのは向こうだし。
もちろん冷静に考えれば殴っていいわけではないが、そんな事も思っていた。
男性は怒った自分にびっくりしたのか、尻もちをついた体制のまま後ずさり逃げて行く。
怒りに体を震わせながらも追いかけなかった。というよりも追いかけようにも後ろの少女をこのまま放っておくことが出来なかった。
男性が見えなくなった後、体の熱と一緒に血の昇った頭を冷やすように、ふぅーと大きく息を吐きだした。
さっきまでの怒りに任せた顔をしていては、相手を怖がらせてしまうかもしれない。
特別顔を作ろうとは思わない。
それでもさすがに感情そのままの顔をするわけにはいかない。
そう思い気分を落ち着け、改めて後ろにいた少女を確認した。
これまで誰かははっきり見えていなかった。
それでもずっと裾を掴まれていたので、居る事は解っていた。
自分が少女を誰か認識した時、男性と対峙した時よりもびっくりしてしまった。
なぜならその相手は、名前だけは知っている少女だったから。
「琴葉沙月……さん?」
「はい、ありがとうございます。朝比奈さん」
今目の前にいるのは、あの琴葉沙月で、腰まで伸ばした栗色の髪の毛が綺麗な美少女で今は月の光が当たっていて、光が当たっている所は白く全体的に幻想的で。学校では良く告白されていて。成績優秀で、先生達の覚えも良く、今年のミスコンで話題になり、有名なあの琴葉沙月が今目の前にいる?
自分はパニックになった頭で、琴葉沙月のプロフィールを呼び出し、思い出していた。
もっとももし琴葉さんがその内容を知ったら、物申したい内容もあっただろう。
「えっと、大丈夫だった?」
パニックになった頭からやっとの事で一言絞り出す。
「はい、また困っている所助けて頂いて本当にありがとうございます」
「またって何かしたっけ?」
当然の疑問だと思うが、自分の質問よりも気になるのか。
「それより、顔、大丈夫ですか?」
「ちょっと口の中が切れたみたいだけど、大丈夫」
「そ、それは大丈夫とは言いません、手当するので来て下さい」
「え」
顔を近づけながら、こっちをじっと見つめられ思わず見返してしまう。
少女の頭は自分の肩くらいの位置にあり、自然と見つめられると下から見上げるようにされ、まっすぐな視線を向けている。
近い近い近いちかいから。
心臓が一つ高鳴った。
慌てる気持ちとは裏腹に頭は呑気な事を思っていた。
綺麗な顔が殴られなくて良かった。こうして見ると良く告白されるのも頷ける。それにしても近いけど。
平均的な身長である自分に対して、小柄な少女が背伸びをするように迫っているのだ、見ようによっては全然違う光景に見えるだろう。
仮にこれが、琴葉さんに釣り合う男性ならまた一味違うのかもしれない、悲しいかなこれでは美女と野獣だ。
いやいやそれすらも違うと。
あくまでも姿勢が一番の問題なのだから。
そんな事に琴葉さんはおかまいなしだ。
自分の頭がまだ正常に動いてない状況を気にせず、琴葉さんは手を取って歩き出そうとする。
手を握られ違う意味で正気に戻り、慌てて言う。
「勝手に殴られただけだから、大丈夫」
「そんなわけはないです、私が絡まれているのを助けてくれました。そのせいで殴られてしまったんですから、手当くらいさせてください」
「それは……、琴葉さんの家で……?」
「嫌なら朝比奈さんの家でも大丈夫です、救急セットを後で持って行きます」
「いやいや、わざわざ来てもらうのも悪いし夜中出歩かせてまた変なのに絡まれないとも限らないしさ」
「同じマンションなので大丈夫です」
ますます訳がわからない。なぜ同じマンションだと知っているのだろう。
様々な疑問がよぎるが、琴葉さんの顔が心配で涙をこぼしそうな程になっている。
可愛らしい顔が心配げに歪んでいて何か悪い事をしている気がしてしまいお願いだからやめて欲しい。
そんな思いも手伝い、観念した。
「解ったから、琴葉さんさえ良ければ俺の家でお願いします」
「はい」
「何もしないと誓いますので」
どちらにしろ家に二人きりになるというのだ、こんな宣誓なんてどれほどの意味があるか解らないが、そう言わずにはいられなかった。
よくよく見れば自分の顔は先ほどの男性とは違う形で赤くなっていただろう。