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38【恋人たちの我儘】

 それはいつものようにジムで登っていた時の事だった。

 ふと沙月の方を見ると、知らない男に話し掛けられていた。


 沙月も初めて来る場所ではないので、ソファに座っていれば顔なじみだって出来る。

 そうすれば自然と話す人くらいはいる。


 しかしその様子は明らかに嫌がっており、困った顔をしていた。

 拒絶の意志を示しても尚食い下がる様子に、言いようのない怒りを腹の底に抱え近づいた。


 くすぶり怒りを覚えたのはこの状況だけが原因ではなかったが。


「沙月、どうかした?」

「あ、優陽くん」

「なんだよお前」


 まず思ったのは、今どきこんな事を言うやついるんだな。という感想だった。

 顔なじみが出来る位には来ているという事は、周りに知り合いももちろん居るという事。


 そんな相手に無粋な事をしている自覚が出来ないのが理解できなかった。

 百歩譲って出入りしているかどうかを知らないにしても周りに気を配らなさ過ぎている。


 現に周囲からの注目を集めているし、スタッフは目を離していない。

 自分が早めに気づいたから何も言われていないだけで、無理やりな事をしようとすれば誰かしらは止めに入っていただろう。


 周りが見えてないからこそ、こういう無神経な事が出来るのだろうなと一人納得する。


「彼女がどうかしましたか」

「こんな所で一人放っておく野郎のことなんか気にしないで一緒に遊んだ方が楽しいって誘ってたんだよ」


「へぇ」

「それに俺はボルダリング得意なんだ、ここの緑テープだって登れるんだぜ。

 こんなやつよりよっぽど上手に教えられるぜ」


 緑テープというと、丁度クライミングの難しさが出てきて登れると楽しくなってくる時期だろう。


 多少、天狗になるのも仕方ないことかもしれない。

 だからといってこの行動を容認できるわけではないが。


 沙月の目が気持ち鋭くなった気がした。

 それは普段一緒にいるからこそ感じられるくらいの変化だったが。


「優陽くんはさっきまでどれを登ってたんですか」

「茶色」


「茶色と緑だとどの位違うんですか?」

「3グレード差だな」


 このジムでは難しい順番で、茶色、水色、紺色、緑色となっている。

 それだけのグレード差があると自分にとっての緑とは目算としては一回で登ろうとするような難しさだ。


 もっとも茶色の上には黒色があり、登れたことがないが。

 

 正直、比べること自体ナンセンスだと思うけどこの場は仕方ないか。


 相手が登れるグレードを基準に出してきてしまったのだ。

 下らないとは思うが、これで引いてくれるならそれで良い。

 この場において優先すべきは考え方ではない。


 沙月はまるで「これでもまだ何か言いたい事がありますか?」と言わんばかりの表情をしている。 


 いつもと変わらず顔はにこにこしていて分かりにくいが、目つきが鋭くきっと怒っているのだろう。

 話して詰めていったわけではないのに、相手は次第に居心地が悪くなったのか及び腰になっていった。

 

「ちょっと登れるからって良い気になるなよ。くそっ」


 それだけ言って、二階へと向かって行く。

 さすがに一階で登る勇気はなかったようだ。


「……私は好きでここで見てるんですけどね」


 追い払った後も、気が晴れないのかそう呟いた沙月は気を取り直すようにこっちを向いた。

 そんな沙月を実は違う捉え方をしていた。


 今までの沙月だったら、困った顔をしたままだった気がする。

 怒っているのはちょっと珍しいな。


 もっともそれは無意識であっても、優陽の事を下に見ようとした事への怒りであって、沙月自身に対して起きた事ではなかった。

 残念ながらそれは優陽の預かり知らない事だった。


「いつもの格好いい優陽くんを見せつけてください」

「もういないけどな」

「私に見せてください」


 正面切って格好いいと言われれば、慣れていないので照れ隠しにそっぽを向き、冗談の様にツッコムことしかできない。


 それでも足りないとばかりに沙月は、欲求を言って来る。

 そのまっすぐな視線を受け止め続ける事は難しく、観念したように。


「登ってくる」

「うん、がんばって」


 そうして壁に向かって行ったが、こういう時は大抵上手く登る事が出来ず、失敗を繰り返す事を経験として知っていた。


 結果は案の定としか言いようがない。

 そんな自分に沙月は失望した様子はなく、にこにこと楽しそうにしていた事は救いだった。



 家に帰り夕飯を食べた後、コーヒーのカップを回しながら、ジムでの事を反芻していた。

 それは沙月が男に話しかけられていたシーンだった。


 沙月は困ってたし不特定多数の人が出入りしている場で、あーいう事が起きるのも仕方ない。嫌だけど。だけど嫌な理由がそれだけじゃない気がする。


 何が嫌なのだろうか。

 沙月と知らない男性が話してる……。

 のが嫌なのか……。

 まじか……。


 なぜ嫌なのかと思い返してみれば、なんという事はない。

 沙月と知らない男性が話しているというシチュエーションが嫌だったのだ。


 これが和雲とかならまた違う。

 きっとそれは許せる。


 ではそれが知らない男性だったとしたら。

 もしかしたら正当な理由があって話しかけられてたかもしれない。

 しかしながらそういった事を抜きにして、嫌だと思ってしまった。


 もし沙月が他の男性と楽しそうに話していたら。

 そう思うと暗くどす黒い感情が腹の底から顔を出すのを感じた。


 顔を振りそんな未だおきていない妄想を振り払う。

 まさか嫉妬や独占欲で自分の感情が埋まるとは思ってなかった。


 よくあるそんな話を聞いて、それくらいでと今までは思っていたのだ。

 間違いが起きないようにとは思っていたが、普段からありそうな何気ない事をそこまで気にするとは思っていなかった。


 じゃぁ、これが誰だったら良いのだろう。

 誰だったら嫌なのだろう。

 そんな嫌な思考が止まらなかった。


 項垂れるようにしていると沙月がいつの間にか隣に来ていた。


「今日の事気にしてるんですか?」

「……今日の事というか」


 自分の恥ずかしい内面を言うべきか言わないべきか。

 ごまかしても見透かされている気がするので、それならばいっその事と思い口を開いた。


「沙月が知らない男性に話しかけられているのが嫌だったんだ。

 もちろん沙月から話しかけたわけでもないし、沙月も困ってたのも見て取れた。


 でも、まず初めにその状況が嫌だな。って思ったんだ」


 沙月は手を取り、続きを促してくれる。


「まさかここまで自分が我儘とは思わなかったんだ。

 これからもこういう事は当然あるだろうって解ってるのにな」


 そうすると沙月は何を思ったか、体を自分の体に預け、頭を胸に寄せる。


「私がこういう事をする相手は優陽くんだけですよ。

 手をつないで良いのも優陽くんだけです。


 頭を撫でて良いのも優陽くんだけです。

 だから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」


 頭をグリグリとされる。

 そんな甘えてくれる様子が嬉しくて心が落ち着いてくるのを実感する。

 それに応えるように優しく静かに沙月の頭を撫でた。


「それにですね。

 私も我儘だし、お相子なんですよ。

 覚えてますか?以前、登ってる女の子と楽しそうにしてたのを」


「楽しそうになんて……」

「はぁ……、そこは良いですけど、私もあれを見て嫌だなって思ってたんですよ?」


「そうだったのか」

「うん、だからお相子です」


 二人して同じ事をしている事が楽しいのか、沙月は笑って言ってくれた。

 そんな沙月が愛おしくて堪らない。


 自分の物にしたい。

 自分の物だという証を付けたい。

 その綺麗でビロードのようなすべすべした頬に触れたくて仕方がなくなった。


「ほっぺに……、キスして良い?」

「ふぇぇ……、えっと、はい、良いですよ……」


 突然の事で驚いたようで、変な声を上げつつも許してくれた。

 拙いけれど、そっと優しく軽く触れるように口を沙月の頬へ軽く触れさせ、顔を離す。


 たったそれだけの事なのに、心臓の音がバクンバクンして仕方ない。

 心臓の音すらもはっきりと聞こえるほど、胸が高鳴っていてうるさい程だ。


 同時に胸に温かい物が広がっていく。


「凄く、ドキドキしてます」

「俺も」


 それだけ言うと沙月はお返しとばかりに沙月が今度は自分の頬に顔を近づけた。

 一瞬の出来事だが、はっきりと感じられ、気持ちは否応にも昂る。


 そのまま離そうとする体を抱きしめると沙月は楽しそうにくすくすと笑い、つられるようにして笑えば、もう苛立ちも嫉妬もなくただただ一緒に居て楽しい時間だけが過ぎていった。


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