121【想い人の叔父】
年度が変わるまで幾ばくもなくなった頃。
テスト週間となり学校が早くに終わった、そんな放課後。
ようやくテストが終わったと言うのに、さながらこれからが本番のような緊張を感じていた。
今までのどんな状況よりも緊張をしているのを自覚している。
そんな緊張しながらも訪れている場所は、制服で来るには少し背伸びをしなければならないような喫茶店。
待ち合わせのために店にはいり、個室に案内されると一人の男性が先に来ていた。
「叔父さん、お久しぶりです」
「沙月ちゃん、こうして面と向かって話したのは高校入学以来かな。元気だったかい?」
「はい、今日は時間を作ってくれてありがとうございます」
「こちらこそ、随分と待たせてしまって申し訳ないね」
隣にいる沙月と話しをするのは、兼ねてより挨拶をしたいと打診をしていた沙月の叔父だ。
柔和な笑みを浮かべ、優しそうな雰囲気を持つ男性だった。
果たして自分のこの感情をどう処理したら良いのだろうか。
身寄りのなくなった沙月を引き取ったのはこの人だ。
しかし劣悪と言われる環境に引き込んだのもこの人だと、どうしても思ってしまう。
きっと善意からの行動だろう。こうして目の前にいる男性から悪意や大人特有の裏が二つも三つもある言葉遊びも感じられない。
少し疲れは見て取れるが、目つきは比較的穏やか。
血の繋がりなのか、雰囲気も沙月に似た所も感じられた。
「こちらが今、お付き合いしている朝比奈優陽くんです」
「今日はお時間を頂きましてありがとうございます。朝比奈優陽です。沙月さんと交際させて頂いてます」
少し声が上擦ってしまっただろうか。
最後まで味方でいてくれたのが叔父だとも言っていた。
理性では間違いなく文句を言うべき相手ではないと理解している。それでも、それでも。と、どうしても思ってしまう心を必死に追いやった。
「鳶元です。沙月ちゃんが凄いお世話になってるって送ってきた時はとても驚いたよ。お願いごとよりも、その前の説明で文字が埋まっていた位だったからね」
「ちょっと叔父さん、それは今は良いじゃないですか」
「ははは、沙月ちゃんがお願いをしてくるなんて滅多にないから嬉しくてついね」
一体何を書いたんだ。
そうして笑う姿を見て、やはり腑に落ちない。
この大人がどうしてあんな環境にあった沙月を、放っておいたのだろうか。
「早速、お願いごとについてだけど――――」
「すいません、その前に一つだけ伺っても良いですか?」
「なんだい?」
「あなたの家に居た時の沙月をどう思ってましたか?」
「……優陽くん!?」
「ごめん、沙月。きっとこのままお願いするだけに留めた方が良いかと思ってたんだけど、実際に会って気が変わった」
こんな不躾な質問をしても、鳶元さんに怒りの色はない。
やはりこの人は決して悪い人ではない。
何も気づかないほど、愚かな人でも決してない。
「どうして気が変わったか、聞いても良いかな?」
「あなたは、これまで会ってきた大人達と比べても良い人だと感じてます。沙月のことも大事に思ってくれているように感じる。そんなあなたが、沙月の事をなんでずっと放って置いたのか……」
口だけを動かしはする物の発音することには失敗した。
自分が沙月から感じた悲しさを感情のままにぶつけようと思った。
けれどぶつけられなかった。
喉が掠れ、声にすることができなかった。
「優陽くん、私はもう大丈夫ですよ」
「ごめん、俺が聞いておきたいんだ」
「すまなかった、申し訳なかったと言葉を言うのは容易いけれども。答えになるかは分からないけど、少しわたしの哀れな失敗談を聞いて貰っても良いかな?」
「……お願いします」
鳶元さんは、少し天を仰ぐようにして、昔を思い出すようにしている。
こちらからお願いしたにも関わらず、誤魔化したりする様子もない。こちらを向くとまっすぐな視線で話始め、そこに口を挟める様子は無かった。
自分にはその眼差しにある思いがどれほどのものか、推し量ることはできなかった。
「当時のわたしはね、お金を稼いで来ることが一番だと思っていたんだ。とにかく仕事を必死になってこなしていたよ。それがまわりまわって家族のためになると信じて疑わなかった」
「当然ながら、量が増えれば費やす時間も増える。今は間違った働き方だったと言えるけどね。そうして家にいる時間はほとんど無かった。休みも返上していたからね」
「わたし自身がお金に苦労したこともあって、それでも良いと思っていたんだ。わたしはお金がないことで将来の選択肢が少なかった。子供たちに同じ轍を踏ませたくないとの思いでね」
「そんなある日、沙月ちゃんが寝静まった頃に帰ってきたわたしを出迎えてくれたんだ。小腹が空かないかとお茶漬けを出してくれて、あの感動は今でも忘れられないよ」
気を回せる性格なのは、昔からなのかと思い、ちらっと見れば沙月は少し恥ずかしそうにしている。
「おっと、逸れてしまったね。手慣れたようにして食事が出てくる。そんな事が度々あれば、不思議にも思うものだ。幼いにも関わらず、簡単な物とはいえすぐにぱっと出てきたんだからね。そう思って家内に聞いても何もないと言う。どこかおかしいと思いながらも確証が得られず日々が過ぎてしまった」
「そして家の事の一切を沙月ちゃんに任せていると知った時、それまで抱えていた仕事から身動きが出来なくなってしまっていたんだ。少しずつコントロールは出来ても急には無理だった。だからせめて、わたし達と離れることで楽になればと思ったんだ。少なくとも家事に忙殺されることなく、自分の時間を持つ事ができると思ってね」
「そうして仕事に費やしても、手元に残ったのはお金だけだった。妻とは先日離婚してね。実の娘とも時間をとれていなかったんだ、もうどう接していいのかすら良く判らないのが本当の所だよ」
あの我儘の固まりのような少女相手に、実の親と言えど手を焼いてしまう光景はまるで見た事があるかのように、想像してしまった。
「結局、わたしは何もできなかった。沙月ちゃんにも申し訳なく思っているよ」
言葉を皮切りに鳶元さんは、深々と沙月へと頭を下げた。
沙月は、首を振りながら鳶元さんへと答えた。
「あの時、身寄りのない私を引き取って頂いたのは叔父さんです。感謝こそすれ謝られるようなことなんて――――」
「いや、良いんだ」
沙月の言葉を止めると、鳶元さんはこちらへ向き直り、こちらにまっすぐな視線を向けた。どこまでもまっすぐな視線だった。
「朝比奈君は、大事な物を見失ってはいけないよ」
「まだ社会を知らない子供に、戯言のような質問に、ありがとうございます。肝に銘じます」
まだ仕事というものが、自分のこととして想像することは出来ない。
それでもジムなど周りを見れば、想像しているものと一つ仕切りられているような、他と同列に語ることが許されない物として感じている。
鳶元さんは、自分のどこかを不思議に思ったのか沙月に問いかけた。
「彼は普段から大人と接し慣れているのかな?」
「不特定多数の大人が集まる場所に出入りしてますね」
「なんかそれ俺が悪いことしてるように聞こえない?」
「嘘は言ってませんよ」
確かに嘘ではない、嘘ではないが。
釈然とはしない。
「沙月ちゃんに一つだけ確認したいのだけど」
「はい」
「朝比奈君は、どこまで知ってるのかな?」
「――――お金関係だけは知りませんね」
今日はやたらとお金の話が出てくるな。
「確かに知らないけど、重要?」
「今、わたしはお金が重要だったとも言ってたと思うけど。気にならなかったのかい?」
「まったく気にならないと言えば嘘になりますけど。生活を送る上で食費なんかを折半してる部分があるので、使わせ過ぎてないかとか。気になってるのはそこですね」
答えた自分を鳶元さんは、眩しい物を見るかのように見ている。
何かおかしかったのだろうか。
「沙月はどうするんだい?」
「実は、終始こんな感じなので、言いだしにくかったんですけど、ちょうど良いので話しておこうかと思ってます」
すっかり何でも話されてると思っていただけに意外だった。
「いつかの日に、私には些少ながら遺産があると言ったのは覚えてますか?」
「うん、あんまり触れない方が良いと思って詳しくは聞いてないけど、そう言ってたのは覚えてる」
「そんな風に言ってたのか」
鳶元さんは驚きとも呆れともとれるように言葉を零している。
「少々語弊がありまして、細々となら暮らしていけるくらいにはあるんです。実は」
細々と暮らしていける。
それがどれくらいの金額なのか、正確には分からないがそれでも些少と言うには少なすぎるであろう事はわかった。
「……言って良いの?」
「今までそのことに無頓着だったのに、何を言ってるんですか。それをあてにしてヒモにでもなりますか?」
「それは嫌だなぁ……」
「とまぁ、こんな感じなんです」
自分の言葉に、今度こそ呆れたように沙月は鳶元さんへと言葉を向けた。
「ははは、良いご両親に恵まれたようだ」
「はい、お二方ともとても良い方達です」
「それにしても、だから金銭的な話は大丈夫って言ってたのか」
「うん、今の所は後見人として叔父も見てくれてますけど、生活費としてなら問題ないんです」
なるほどなるほど、と頷いていると鳶元さんもお金について話しがあるのか、沙月へと向き直っている。
「それなんだけど、わたしからもこれまで通り、学費と仕送りをしようと思うけどどうかな?」
「でも、何もお返しすることが」
「沙月ちゃんは、姉の忘れ形見なんだ。残したお金は沙月ちゃんの未来の為に使えば良い。でも大学を出るまでは費用を出させてくれないか」
沙月は尚も引け目を感じているのか、すぐには頷かなかった。
けれども鳶元さんに引く気はなさそうだ。
「今まで何もできなかったばかりか辛い目に合わせてしまった。そんなわたしのせめてもの償いをさせてくれないかい。お金を出すことくらいしか出来ないわたしを許して欲しい」
「でも……」
「それなら、こうして時々でいい。また一緒に食事でもしてくれないか。もちろん朝比奈くんも一緒に」
「……はい、甘えさせてもらいます」
それ以上、鳶元さんの気持ちを無下にすることは出来なかった。
沙月は折れる形で、頭を下げた。
「そう、まだ子供なんだ。甘えてくれていいよ。朝比奈くんも沙月ちゃんをお願いするよ。二人で支え合っていけることを願ってるよ。わたしが出来なかった事だから」
まるで鳶元さんが出来るのはここまでだと。
後は託したと。
想いを受け取った気がした。
「俺は器用な人間ではありません。あれやこれやと色んな事はできそうにもありません。なので俺の望みはただただ沙月さんが隣に居てくれればそれだけで良いと思ってます。その思いだけは決して忘れないと約束します」
気持ちを新たにし、頭を深々と下げた。




