第三十一話 紫の月に見染められ
好きなモノを自分のモノにしたい、一緒に居たい、一つになりたい。
それはごく普通の感情だ。
あるいはその獣のような感情を肯定するために、愛や恋と言った耳障りのいい言葉で飾り立てるのかもしれない。
だがそれが人という種の営みを形成するために必要な感情であるのなら、俺は可能な限りその感情を応援したい。
それが痛みや苦しみ、悲しみと言ったものを伴わなければの話だが。
「すまない、失礼だったな。まずは自己紹介からするべきだった。
初めまして、俺はDAMAトーキョー一年の平賀良二だ。
見目麗しい女性、君の名前を聞かせてほしい」
無造作に触れるほど近くに寄ってきた彼女から離れるため二歩下がってから、精いっぱいの笑顔で自己紹介を行い彼女を観察する。
年の頃は20より少し上、25くらいだろうか。身長は170センチ程度で、均整の取れた美しい肢体をしている。
絹糸のようなサラサラとした太ももまで届く長い銀色の髪は、少しの風に揺れ月の光を反射してキラキラと光る。
目は白目がなく代わりに月のない闇夜のような黒、そして夜を彩る星のように、最上級のアメシストを思わせる紫色の澄んだ瞳が浮かんでいる。
整った目鼻立ちと、そこから生み出される絡新婦のような微笑は、見るものすべての心をとらえて離さないだろう。もっとも、彼女の弁が正しければ、幸か不幸かその微笑みを見ることができるのは俺だけのようだが。
肌は青白い。不健康な肌を青白いと評することがあるが、それとは違い、血が通っているかも疑わしい人外を示す青白さだ。そしてよくよく見れば、文字通り透けて見える。この世界とは位相がズレているのだろう。
服装は真っ白なレオタード。皮膚と一体化しているかのように薄地で、細かな身体の凹凸までが確認できるほどに伸縮性もあるようだ。一瞬ボディペイントの類かと思ったが、薄く浮き出る肋骨の形状すらも見て取れる中で、大きく形の良い乳房の先端突起が確認できないので残念ながら違うようだ。
また下の方を見れば切れ込みが深く、鼠径部がはっきりくっきり見えている。さらに下はサイハイソックスが太ももを覆っており、左足に後ろから伸びた細い尻尾が絡みついている。尻尾は飾りかと思ったが、よく見ると先端が猫の尾のように左右に揺れているため、本物のようだ。
「突然どうしたんだい、良二くん?」
俺が見る先に何かあるのか目を凝らし近づこうとする輪之介を手で制する。
輪之介には見えていない。そしてアイズから何の通知もなかったことを考えると、周辺に設置されている防犯カメラなどにも姿は映っていないだろう。
試しにD-Segに取り付けられたカメラの映像を確認してみたが、何も映っていない。
彼女の姿が見えるのは、現状俺だけのようだ。
『アイズ』
『D-Segに搭載されている各種センサーに感無し。存在を確認できないね』
アイズは俺が何かを感じているのを理解し、それを信じた上でその姿を確認しようとしてくれたらしい。
『許可する。俺の視聴覚野からデータを取り出してくれ』
俺には見えているというのなら、俺の脳内のどこかには見ているデータが存在しているはずだ。
それを取り出すことができれば情報の共有も可能となるだろう。
通常D-Segで許可されているのは幻覚系統のDAを使った視聴覚野へのデータの投影と、読心系統のDAを使った特定形式の思考情報のみであり、視聴覚野からのデータを取り出すことは許可されていない。ただ、許可されていないだけで出来ないわけではない。
『アクセス開始……データの抽出完了。画像解析完了。
D-Segからの映像データとの差分を検知。これで合ってる?』
D-Segの片隅に、目の前の女性の姿が映し出される。
『問題なし。引き続きデータを取り出して動画として保存してくれ。各種センサーの情報、特にバブルスフィアに関連しそうなデータの計測も保存しておいてくれ』
『了解』
後は少しでも情報を引き出したい……そう考えていると、目の前の女性は俺が下がった分だけ音もなく、足も動かさず距離を詰めてきた。
「嬉しい。初めて綺麗って言われたわ」
女性は頬を赤く染め嬉しそうに目を細める。青い肌だが、血液は赤いということだろうか。
「貴方の事は知ってるよ。今日戦っているところを見たわ。
でも素晴らしいわ。こんなに美味しそうなのに、それだけじゃなくてあたしの姿を見て、声を聴いて、身体に触れるなんて」
女性はそう言いながら、ツツッと俺の頬から顎の辺りを撫で上げる。
その指使いは優しかったが、そこから伝わるのは触れたという感触だけで、指の柔らかさも、温かさも、冷たさも、圧力すらも感じなかった。
「不思議な感覚。
これじゃあ味は良くても食感は期待できないわ」
一瞬だけ感じた異様な感覚を確かめようと手を伸ばしたが、彼女はその手から逃げるように、あるいは風圧で飛ばされるように、後ろに跳んだ。
「貴方からのお触りは許可していないわ」
彼女は自分の胸を誇示するように、下から掬い上げるようにして揉む。
……なるほど、その柔らかさを見る限り、身体が鉱物のような感触を持っているのではなく、位相のズレにより感触が正常に伝わっていないと考えるべきか。
「さっきから何を――うわぁ!」
輪之介に構う余裕はないため、近づいてきた輪之介にもD-Segを通じて俺の見ている情報を見せる。
「え?なんでこの人自分の――それに、一体どこに」
余計五月蠅くなった気がするが気にしない。脳内チャットで現在解っていることを伝えておく。
「名前を教えてくれないなら、せめてその手を取るくらいはさせてくれてもいいんじゃないか?
名前も、手の感触も知らない相手に食べられるのは願い下げだね」
「貴方と一つになりたいって言ってるのに嫌なの?
こんなに素敵なことなのに?こんなに嬉しい事なのに?据え膳食わねば皿までとか言う言葉だってあるのに。
まぁいいわ。食べた後、一つになってもお腹の中の貴方とお喋り出来ないかもしれないし、特別に教えてあげる」
「個体名は覚えてないけれど、貴方の言葉でいうのなら『深界の主』かしら」
やはり深界の、深界獣たちの親玉ということか。
「覚えていない?」
「色々あるのよ。こちらに来ると大切なモノの全てを失うの。
だからね、今の私にあるのは深界獣を統べる能力と、貴方への食欲、そして何時かの何処かのちっぽけな風景だけ。
だからさ、失ったものを取り戻すために、貴方を食べるわね?」
要領を得ない。思考が理解できない。きっと、重要な前提が抜けている。
「食べる、というのはそのままの意味か?」
「それ以外にどういう意味があるの?
バリバリボリボリムシャムシャゴクンって食べるの。きっとお腹いっぱいになるわ」
深界の主はウットリとした表情で、うっすらとシルエットの浮かんだおへその周りを両手で摩る。
「死ぬほど痛いかもしれないけど、あたしたちのためだから我慢してね」
「痛いのは嫌だな」
「そう?それなら死ぬほど気持ちよくなれるよう頑張ってみるわ」
「そうか。それじゃあ痛みの件は解決できるとして、俺が今死んだ場合の問題はどうする?
やらないといけない事と仕事が山ほどあるんだが」
「貴方という存在はあたしと一つになるんだから、何も問題ないわ。
あたしは特にすることないもの。
そうすれば貴方はあたしと居られるだけで十分でしょう?」
輪之介が青ざめた顔でこちらを見て「彼女はなにを言っているんだ?」と聞いてくるが、とりあえずは無視する。
詳細を考察するのは後だ。今は多くの情報が必要だ。
「何もせず、君とずっと一緒にいるだけなら、それはそれで幸せかもな。
でも、今までの食事はどうしていたんだ?こちらに来て半年くらい経つんだろう?」
相手の言うことは肯定しつつ、成り立つだろう会話で話していこう。
「半年?時間はよく覚えていないけど、深界獣を導いたのは50か70か、そのくらいかしら。
大きく育ってくれたほうが満足できるんだけど、すぐに壊されちゃうから、その残りカスを食べてるの。
たまに美味しいのもあるけど、大体味がないわね。
それに深界獣の残りカスじゃあ栄養が足りないのよ。
この身体を維持できないの」
立派な身体だ。維持するのは大変なんだろう。麗火さんも頑張っている姿をよく目にしたものだ。雪奈は欲望のままに生活しているように見えるが。
「なるほど。それじゃあ、俺を食べて満腹になったらどうするんだ?」
「帰るわ。きっと帰れるようになるから」
「帰るのか。他の深界獣たちもそうなのか?」
「あたし以外のことは知らないわよ。話せないし。ナニ考えてるのかわかんない。考えられるのかもわかんない。
でも帰る気はないんじゃないかしら。満足そうだもの」
他の深界獣は兎も角、この子は深界に帰ることが目的で、帰れば深界獣をけしかけてくるということも無くなるのか?
「流石に体全部食べられるのは困るんだが……手足やはらわただけじゃ駄目か?」
妥協案を提示する。輪之介が慌てるので、頭を鷲掴みにして黙らせる。
最悪、手足や内臓なら再生できる。病院に行って一か月くらい意識を失って目が覚めたころには元通りだ。きっと麗火さんが即日入院できるように手配もしてくれるだろう。
「うーん……貴方のお腹は美味しそうだけど、それじゃあ駄目ね。
最低でもその心臓と、この柔らかそうな喉は食べないと」
一瞬で距離を詰めた深界の主が、細く長い人差し指で、俺の喉をくすぐる。
「っ――
流石に心臓と喉を食べられたら死んじゃうかな」
魔力器官である喉を喪失すると、心臓の再生や置き換えに必要な最低限の魔力が調達できなくなる恐れがある。DA治療が優秀とはいえ、患者本人の体力と魔力が尽きているのではどうしようもない。
「それじゃ困るわ。
貴方を食べてもあたしの物にならないのは困るし、あたしの物になる前に死んじゃうのも困るの。
やっぱり、頭からバリバリ食べてあげるしかないのかしら?」
深界の主は愛おしそうに、俺の頭を撫でる。
俺は半歩下がって手から逃れる。
「それじゃあ、食べられるのは勘弁したいな。
―――俺を食べないと、君はどうなる?」
「一人ぼっちで寂しくて死んじゃうかも。
だからあたしは貴方を食べて帰るか、帰れないならいっそこの世界ごと全部壊すのよ。
別にいいでしょ?
だって、帰れないんだもの。
それなら、全部なくなったって問題ないわ。
そうすればきっと帰れるもの。
あたしも貴方も死んじゃうかもしれないけど」
女性の言葉に輪之介が懐から銃器を取り出すが、俺はそれをさっと取り上げると後ろに放り捨てた。
少なくても今は暴力は必要ない。というかそもそも攻撃が届くはずもない。
「それもそれで困るな」
「そうでしょ?わかったなら早く食べさせてよ。
お腹の奥が、早く食べたいってうるさいのよ」
先ほど俺の喉を撫でた指が、今度は彼女のみぞおち辺りを撫でる。
「そうしたいのは山々だが―――今は食べられないだろ?」
俺の言葉に、彼女が薄く目を細める。
「理屈は解らないが、君はまだこちらの世界に馴染んでいないだろう。
ちょくちょく触れてくるのは、本当に俺が食べれるのか、触って確認してるからだ」
「――賢しいわね。脳みそを食べるのが楽しみ。貴方の脳みそは、きっと淡泊じゃなくて、甘くて辛くて苦くて刺激的な味がすると思うわ。
でもね、今は少し味が落ちるだけで、食べれないわけじゃないのよ」
「食べられるなら、一番美味しく頂かれたいかな。
それに、空腹は最高のスパイスというだろう?」
「スパイスは効きすぎてて、これ以上は舌を壊すわ。そうすると、せっかくの味が落ちるわよね?」
話は平行線だ。きっとこれ以上の情報は得られないし、安全にここから去りたい。
いっそ変身しようか。勝算は不明だが、逃げ切ることだけは可能だろう。
輪之介を置き去りにするが、彼女も輪之介には触れられないようなので問題はない。
「―――仕方ないわ。
一つお願いを聞いてくれたら、今日は軽い味見だけで済ませてあげる」
渡りに船、と言いたいが、彼女の願いがどんな突拍子もないものなのか、想像もつかない。
「お願いとは?」
「無くした名前の代わりに、あたしに名前をちょうだい?」
「名前?」
「名乗っておいてなんだけど、深界の主なんて呼び名可愛くないもの。
貴方とあたしは一つになるんだから、貴方があたしの名前を付けるのは当然でしょ?
貴方の名前を貰っても良いけど、それは味気ないわ。
美味しいものを食べるのに味気ないのは嫌でしょう?」
彼女の思想を考えると、その理屈は理解できなくもない。
だが名前か……
深界の主は瞳をキラキラさせ、微笑みを浮かべながら俺の言葉を待つ。
人外であれど見惚れるほどのその美しさに、一つの名前が思い浮かぶ。
「紫月はどうだ?」
「シヅキ?」
「ああ。君の瞳は暗闇に浮かぶ紫色の月のようだ。
だから紫の月で紫月」
彼女はシヅキ、シヅキと口の中で繰り返す。
そして俺の方を見ると少女のように笑い、
「よく解らないけれど、貴方がそれを良いというのなら、あたしもそれが良いと言うわ」
そのまま一瞬で俺のそばに近寄ると、ディバイン・ギアを避けるように俺の喉元を軽く齧り、舌で舐めた。
「うん、少ししょっぱいけど美味しい。
良い出汁が取れるわ。
それじゃあね。
今度会うときは、一緒に紫月になりましょう?」
深界の主――紫月は楽しそうにくるりくるりと回転すると、幻だったかのように姿を消した。
一分ほど警戒を続けたが、紫月はそのまま姿を消したようだった。
「……よし、何も問題なし!
疲れたし帰るか!」
「問題だらけだよ!?」
輪之介が詰め寄り、俺の喉を見て触ってくる。
ちょっと止めて、首は敏感だから無遠慮に触らないで。
「傷はないね」
「まぁ痛くもなかったしな。
紫月についてはこっちで色々考えるから、今のやり取りは昇人にも伝えておいてくれ。
動画がD-Segに保存されてるはずだから、それを共有すればいい」
やり方はアイズに訊いてくれ。アイズは何でもかんでも一人で終わらせないで、質問に答えるだけでいいからな。
「いいけど、ココにいた理由、説明し辛いなぁ……」
レストランで語り辛いから、わざわざ二人になったわけだしな。
「散歩してたら偶然出会ったとでも言っておけばいいさ。
それじゃあ俺は忙しいから帰る」
今日も徹夜だ。三日目だ。
「うん。色々とありがとう。
……そういえば、さっき何か質問しようとしてたけど、あれは?」
質問?ああ、確か……
「なんで今はバイクに乗っていないんだ?」
回想ではバイクに乗っていたが、今は昇人のバイクの後ろに乗っている。
俺の質問に、輪之介はバツの悪そうな顔をする。
「……あの日の帰り事故って田んぼに突っ込んだ。
そしたらショートに『リンは注意力散漫で運転が荒っぽい。そのバイクは馴れるまで止めておいた方が良い』と言われて没収された」
ああそれは……紫月との問答を考えると、羨ましいほどに解りやすい答えだった。
Purple x Moon - 了
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