第五十七話 紫の月は涙に濡れる(上)
紫月と呼ばれました
それがあたしの名前でしょう
紫の月
それがきっと由来でしょう
名前を呼ばれるたびにフワフワします
名前を叫ばれるたびにフワフワします
もう一緒にはいられないけど
最期にもう一度、大切なものを貰いました
もう失くしてしまうけど、それはとても素敵でした
あたしの世界は消えました
弾けて消えてなくなりました
そろそろあたしも消えるでしょう
命は尽きてしまうでしょう
心は砕けてしまうでしょう
魂は消えてしまうでしょう
最後に数を数えましょう
消えて欲しくないものの数を数えましょう
一つ、貴方
二つより先はいりません
大事なご馳走
大切な貴方
お腹が空いたよ
お腹が空いたよ
貴方を食べたい
食べれない
だから、せめて最後に月を教えて
決して食べれない、甘い甘いあたしの名前
マフラーを使い、大穴から地表に出る。
雪奈の放った聖剣は紫月の世界を貫き、女神と三柱の竜を消滅させ、紫月のバブルスフィアを破裂させた。紫月のバブルスフィアは特殊なものだが、その根本的な構造は通常のバブルスフィアと同じであり、急激な魔力圧の上昇に耐えられなかったのだ。
雪奈のDAの爆発は凄かったが、俺は大穴に身を隠すことでその威力を受けなかった。昨日の深界獣と同じだ。魔力爆発は主に上と横に広がり下方向への影響は少ない。
紫月の世界は消え去った。
彼女が滅ぼしたかった世界が俺たちの世界なのか、深界世界なのか、彼女の世界なのかは解らない。
けれど、もう彼女が俺たちの世界を滅ぼすことはないだろう。
空を見る。空は地球のものだが、相変わらず深界の影響で濁っている。どうやら紫月は自身のバブルスフィアに重ねるようにして、それよりも大きい深界バブルスフィアを展開していたようだ。大きいせいか、中で紫月のバブルスフィアが弾けても連鎖的には弾けず、未だ維持されている。
周りは深界獣は全て昇人と輪之介が倒したそうだが、未だ深界バブルスフィアのままなのは、深界獣の主である紫月が存在しているためだろう。
しかし、それも直に終わる。
『解析完了しているよ』
アイズがから通信が入る。
『それじゃあ『深界』属性の除去を開始してくれ。
紫月の様子を見ながら段階的にだ』
『了解』
深界バブルスフィアの操作盤には鍵をかけられ暗号化されているため、外部からの操作を受け付けない。
暗号化には深界獣の魔力痕が使われており、その解析はまだしばらく時間がかかるはずだった。
解析が完了したのは今朝だ。
昨日紫月がくれた複数の属性を持つ深界獣のコア、それから深界獣の魔力痕のパターンを抽出出来た後はとんとん拍子だった。
アレが無ければまだ解析は完了していなかっただろう。
今日の紫月異相との戦闘も役に立った。本番の前にある程度のテストができた。
『深界』属性の魔力は深界バブルスフィアの外では維持することが難しく、すぐに拡散してしまう。
それを利用すれば、現在紫月の中に存在する大量の魔力を発散することができるはずだ。
つまり、お腹が減って魔力を食べれるようになる。
これで問題点の一つは解消される。
残りは二つ。俺の魔力と、俺自身を捧げることだ。
大穴から出た俺は、先ほどまで紫月がいたところへと向かう。そこには、変わらず彼女が立っている。
女神と竜が彼女を守る様に盾となったため、爆風が彼女まで届かなかったのだろう。
その途中光るものを見つけて足を止める。
近づき見てみると、SCカードが落ちている。雪奈のSCカードだ。かんざしと共に飛ばしたのだろう。
かんざしは見当たらない。きっと蒸発してしまったのだろう。対してSCカードには傷は見られない。決して壊れないという謳い文句に間違いはないようだ。
俺はカードを拾い上げようとして、つい右腕を伸ばしてしまう。しかしそこには何もない。
左腕を伸ばそうとしたところ、ディバイン・ギアに残っていた最後の魔力が使われ右腕に簡素な義椀が現れる。同時に、左手に持っていたブレスレットがカードリーダーとなり左腕に装着される。
右手でSCカードを拾うと、左手で首元のメインギアに触れた。
雪奈もギアさんもありがとう。これでようやく彼女を救える。
「紫月、そろそろお腹が空かないか?」
ぼうっと空を見上げている紫月に尋ねる。声をかけられた彼女はこちらを見る。
少しだけ、微笑んだように見えた。
先ほどの彼女と違っている。憑き物が落ちたような、執着が無くなったかのような、あるいは大切なものを失くしてしまったような――
紫月は少し首を傾げると、美しいラインのお腹を撫でる。
「減っていないわ」
「いいや、減っているはずだ」
見ればわかる。深界獣に感じる魔力のようなものが、彼女から少しずつ減ってきている。
「減っていないわ」
紫月は目を細め繰り返す。
「紫月」
俺が察していることを彼女も解っているのだろう、正面から見ると彼女は目を逸らした。
「……お腹は空いていないわ。
だから貴方は食べてあげない」
「いつもあんなに美味しそうに俺を見てたのにか?」
「ええ」
「なんでだ?」
「貴方を食べると……一つになっても、名前を呼んでもらえないじゃない。
お喋りできなくなるじゃない。
誰にも触れなくなるじゃない。
一つになると……独りになるじゃない」
紫月の顔は無表情のまま。それでも、紫の月から雫が流れ落ちる。
「一つになっても、満たされても、そうなったらすぐにお腹が空くわ。
あたしの中にしか貴方は残らない。貴方しかあたしの中に残らない。
あたしの名前も、貴方の名前も、あたしの中に残らない。
それなら、一つの世界で二人でずっと一緒にいた方が幸せでしょう?
それなら一つよ。二人で一つ。同じ一つになるのなら、名前を呼びあえる方が幸せでしょう」
ずっと聞けなかった彼女の本音。俺を食べなかった理由が、悲痛な声で語られる。
「帰りたい帰りたい。返して欲しい返して欲しい。
故郷が見たいわ。きっと誰かが待っているの。
月が見たいわ。知っているのに覚えていないの。
でも――貴方を失うくらいなら諦められる」
だから、お腹はいっぱいなのよ。
彼女はそう締めた。
俺は彼女を知らなかった。
あまり知ろうともしなかった。
始めて出会った時、お風呂で再開した時、彼女の内を、心を、知ろうとはしなかった。
後々思い出すのなら、これが俺が本当に覚悟を決めた時だった。
「まぁ、そう言うなよ、紫月。せっかく食べられるために準備してきたんだからさ」
「その割に薄汚れているわ」
紫月に襲われたからな。
「安心してくれ、紫月。
食べるのは俺じゃあない」
俺は2枚のSCカードを取り出す。
1枚は俺のカード。そしてもう一枚は雪奈のカード。
「美味しそうね。でもそれじゃあ、おやつにもならないわ」
紫月が俺のSCカードを見て言う。
「良かった。紫月には美味そうに見えるんだな。
それじゃあ、今からこいつをとびっきりのご馳走にしてやる」
SCカードはディバイン・ギアの機能拡張を行うためのガジェットである。
正確に言えば、ディバイン・ギアに読み込ませ魔力を送ることで、SCカードに設定された機能を再現させることができる聖剣である。
SCカードはコアである中心部に聖剣剣聖の魔力を保存することで有効化する。つまり、その属性は魔力を込めた人物と一致する。例えば俺の場合、全ての属性を内包することになる。
もちろん、紫月に必要な属性もだ。
雪奈のSCカードは読み込んでもエラーとなる。ギアさんによると、その動作は仕様通りであり不具合ではないそうだ。
そうなると、問題は俺の使い方の方だろう。エラー内容は『ノーエレメントエクセプション』。よろしい、ならば属性を足そう。
俺は右手に持った持った俺のSCカードを左手のカードリーダーに読み込ませる。
『アドミニストレータ』
スーツも着ていないが、ディバイン・ギア製の義椀が展開されていることからもわかる様に、俺の変身は解除されていない。追加読み込みだけが行われる。
中身はほとんど空だ。俺自身の身体には何も影響が現れない。魔力が足りていても何も起きず必殺技すら撃てないが。
続けて雪奈のSCカードを読み込む。
『イノセント・ヌル』
ディバインギアの中で俺と雪奈の魔力混ざり合い、それが俺の身体へと出力される。SCカードの表示すらバグらせた暴力的な魔力量だ。ごくごく平凡な俺の身体は耐えられず、左腕の肌が弾け飛ぶ。
「――――――っ!」
内蔵が捻じ切れた気がした。喉が裂けた感触があった。思わず蹲りえずくと、血の塊が吐き出された。
魔力の器である肉体は、通常は魔力の成長に応じて強度を増していくとされている。その強度は本人の総魔力の三倍程度だとか。ここしばらくDGSとして過剰な魔力を体内に流し続けた為、俺の場合はそれよりも幾分か大きいだろう。しかしそれではまだ足りない。
俺一人の魔力では紫月には足りない。俺数人分の、いや数十人分の魔力が必要だ。
ピシリとヒビが入る音が聞こえた。左手を見ると、カードリーダーにヒビが入っている。おそらく首元のメインギアも同じ有様だろう。
紫月の世界を破壊させた魔力と同じ、あるいはそれよりも強い魔力だ。俺への負担を可能な限り軽減するために頑張ってくれているのだろう。
早く終わらせなければ、俺もディバイン・ギアも持たない。
俺に近寄ろうとした紫月を手で止め、俺は自身のSCカードを胸に抱いた。
SCカードは絆の繋がり、心の証。二人が紡いだ魂の絆そのもの。
それならば、俺が紫月のことを想えば、SCカードはそれに応えなければならない。
絆とは一方的なものではないのだから。
身体の中で荒れ狂う魔力が収まっていく。魔力が身体から抜け、カードに集まっていくのを感じる。
俺の胸元のカードが白く白く、眩く輝いた。
光は一分ほど続いただろうか。最後に一度だけ瞬き収まった。
それと同時に、ひび割れたカードリーダーが砕け散る。
――ありがとう。
俺は立ち上がると、真っ赤に染まり所々欠けた左手に持った俺のSCカードを紫月に差し出した。
「召し上がれ」
枯れた声を出す。左腕ほどではないが、喉もだいぶ焼けているようだ。
紫月は震える手でSCカードを受け取ると、目を閉じそれを愛おしそうに胸元に抱く。
「いただきます」
SCカードが再度白く光る。光は紫月の身体に吸い込まれていく。
ゆっくりと紫月の肌の色が変わっていく。
青から白へ。白から褐色へ。
俺と紫月の絆が、彼女を元の色へと染め上げていく。
光が収まる。
紫月に抱かれた俺のSCカードは白いカードへと戻っていた。紫月は文字通り全てを頂いたのだろう。
つまり、俺はディバイン・ギア・ソルジャーではなくなったのだ。
残念ではあるが、元々期間限定で、紫月が脅威でなくなるのなら俺の出番もなくなる。
なにも、問題ない。
紫月がゆっくりと眼を開ける。
白目は白く、その瞳は澄んだ紫。
「ごちそうさまでした」
彼女は変わらず無表情。しかし、どことなく満足しているように見えた。
泡が弾ける。世界は元通りの姿に戻る。
紫月はそれが当然であるように、バブルスフィアの外に出る。
「月は見えるのかしら」
紫月は足があることを、地に足がついていることを楽しむかのように駆けると、突然立ち止まり空を見上げた。空には星々。しかしそこには月はない。
「見えないな。今日は新月だ」
左腕の痛みに顔を顰めながら答える。今は首元のメインギアが痛みを和らげてくれているが、早く治療しなければならない。
麗火さんには連絡が行っているはずなので、しばらくすれば治療班が来てくれるはずだ。
なお、仁たちは遠巻きに俺たちを見ている。気をきかせてくれているのだろう。
「見えないのね……残念」
空を見上げる彼女は、血色は良くないが先ほどよりも心なしか元気に見える。
少しだけ開いた口にも、どことなく感情のようなものを感じさせた。
「ここがあたしの故郷?」
紫月は空を見るのを止め、辺りを見渡す。
日は完全に落ちているが、周囲は校庭に設置された街頭と、アイズが飛ばしているであろうドローンが照らしている。
「暗いのね。よく見えないわ」
「まぁ、夜だしな」
「いい匂いもしない」
「校庭だしな。土と木と草の匂いはするけど」
「音もしないわ」
「他に誰もいないしな」
飛んでいたドローンが近づいてきて丸い筒状のDAを渡してくれた。見覚えがある。緊急治療用のDAで、患部に押し当てると痛みを和らげる効果がある。
心配してくれるのは嬉しいが、直接渡しに来いよ。
素直に感謝できないが、素直に受け取り左腕に打つ。無痛の針が刺さり、すぐに痛みが無くなっていく。
手を動かす感覚だけは残っており、左腕がまだ動かせることが分かった。
……動かず感覚もない指もあったが、グロテスクな状態なので直視しない。
「紫月は何かしたいことはあるか?どこかに行きたいか?何か見たいか?」
紫月には記憶がない。それでも、彼女の希望を聞きたかった。
聞いておくべきだと思った。記憶しておくべきだと思った。
「ねぇ、ここに来て少しだけ思い出したの。
暖かいという感覚。綺麗という感覚。心地よいという感覚。甘いという感覚。
思い出したの。言葉だけじゃなくて、感覚を」
「そうか。
それじゃあ、暖かい服を着て、綺麗なものを見て、心地良い音を聞いて、甘いものでも食べに行こう」
「思い出したの。
冷たいという感覚。汚いという感覚。心地悪いという感覚。苦いという感覚。
思い出さなければよかった。
苦しいなんて。辛いなんて」
紫月が俺の方を見る。その瞳には、その表情には辛さや苦しさは感じられない。
でも、本当にそうなのだろうか。
「紫月」
名前を呼ぶ。彼女が忘れないように。彼女に届くように。
「でも、良いのよ、それでも。必要なのでしょう、きっと。
例えそれしか感じられなくても」
「紫月、紫月」
繰り返す。でも気が付いている。
「ねぇ、貴方の顔を見せて。
あちらではよく解らなかったの。こちらでは暗くて見えないの」
紫月が俺に手を伸ばす。
「紫月っ」
紫月が俺の顔を覗きこんでくる。
「こんな顔をしていたのね。
ねぇ、黙っていないで、あたしの名前を呼んでくれないかしら」
次回、本章最終回となります