1 青色の霧
巨大な地下空間、地上無き世界。何層にも複雑に積み重なった地形には所狭しと植生が生い茂る。陽光の無いこの世界には本来あるはずの暗黒が無い。鉱石、水面、植生から動物に至るまで、あらゆる物がそれぞれに淡い光を放ち、一つ一つは小さな光源でもそれが数多集う事で暗黒を塗りつぶしている。
「ナズナッ、逃げろッ!」
そんな大自然の只中に人の絶叫が響く。
獣の皮を纏い藁靴を履いた狩人見習いの少年アカシは幼馴染の少女ナズナと共に山菜を狩りに来ていた。
数日置きの仕事。命の危険等、介在する筈のなかったそれは、突如立ち込め始めた青色の霧によって様相を変えた。
今年で十六となったアカシは数年前から狩人として必要な知識、技能を村の先達から叩きこまれていた。だからこそ、アカシは自分たちが危機的な状況に陥っていることを理解していた。
「……恐らくマナコオロシ。クソッ、なんでこんな所に」
呟いたその単語はとある獣の名だ。数々の生き物の知識を蓄えるアカシだが『青い霧』から連想される生物は多くない。しかも、数日前にこの地には青い霧なんて存在しなかった。故に対象は移動する存在だと推測できる。アカシが知る存在の中でその特徴に合致する生物は『マナコオロシ』だけだ。
青い霧の正体を突き止めたところで事態は最悪以外の何物でもない。
マナコオロシが青い霧を放出する条件は二つだ。一つはマナコオロシが他者から攻撃を受けた時の防御として。もう一つが獲物を追い詰める時の攻撃としてだ。アカシは付近で争っている気配が無いことから後者だと結論付けた。それは、既に自分たちがマナコオロシに補足されているということに他ならない。
ナズナはアカシの声を聞いた直後に何も言わず全力で走り出し、既にアカシの視界内にはいない。見習いとはいえ狩人であるアカシの言うことは絶対であり、ナズナの動きには少しの逡巡もなかった。
自分たちの足ではマナコオロシは振り切れないことを知っている。ナズナを先に逃がし、殿としてマナコオロシを迎撃する算段だ……。否、それ以外に方法はない。
背負う槍を構える。その槍は装飾の無い質素な作りだが、その槍頭は岩石や金属ではなく、光を通す赤い水晶でできている。
槍を器用に扱い、動きの妨げになる蔦や枝へと振るう。それらは僅かな抵抗もなく切断された。虫が跳ね、青臭い匂いが漂うが、アカシに気にした様子はない。
「来いッ」
右目を閉じて辺りを注意深く見回す。
一見奇妙な行動だがそれには理由がある。マナコオロシ、排出する青色の霧の効果はその名の通り眼を降す。霧に中てられた眼球は次第に視力を失い、五分もすれば失明は免れない。防ぐ手立ては無い。故に片目をつむる。そうすることで失うのは片目だけで済む。もしもマナコオロシを倒す前に視力を失っても、もう片方の眼で戦い続けることができるのだ。
草木がうっそうとして視界の悪いこの場所は、霧の影響も相まってすぐそこの景色さえ確かではない。だがアカシは動じない。細かい風の動きや、葉の揺れ、細やかな音さえも拾い上げ、見えている以上の範囲を視ようとする。
――そして不自然な草の揺らぎを察知した。
ゆっくりと、槍を逆手に持ち直す。その構えは投擲の構えだ。
「――ッ!」
閉じていた方の眼を一瞬だけ開く。それと同時に、槍を力強く投擲した。
すかさず、投擲した槍の方向へと走り出す。
前方から槍の着弾音と獣の甲高い声が聞こえた。
駆け寄ったアカシは突き立つ槍を躊躇なく引き抜き、うずくまる獣の胴体の中央と頭部へと躊躇なく突きを入れた。
そして、それが死んだのかを確認する。
「ッ! こいつじゃない!」
この生物にはに見覚えがあった。この辺りに生息する在り来たりな生き物だ。
それに気づいた直後、アカシは振り返った。それは奴が来るなら今だという直感がアカシを突き動かした。
眼前には飛来する獣。それは一見大型の鼠の様だが、その胴体に縦に並んだ斑点模様から青い霧を勢いよく噴射し、鋭く長い爪を広げながら飛びかかって来た。
アカシは思考するよりも早く、腰に下げていた山刀を飛来するマナコオロシの側頭部へと振り返る勢いのまま突き刺す。確かな手ごたえだ。しかし、マナコオロシの勢いは止まることなくアカシの顔面へと衝突し、仰向けに転倒した。
耳元でマナコオロシの耳につく甲高い悲鳴がアカシの頭を揺らす。しかし、アカシにはそれさえも気にしている余裕は無かった。
「がぁッ!!」
――痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
右目に今まで感じたことのない、焼ける様な痛みが突き刺さった。
マナコオロシの傷口から漏れ出す体液が肉が焼ける様な音を立てながら、アカシの顔面を焼く。
まだ辛うじて動いているマナコオロシを粗雑にどかし、何か次の行動を考えようとするが痛みの所為か意識が朦朧とし、思考がまとまらない。
――徐々に意識が暗転し始める。
「……し、……ぁかし」
――意識が落ちる前の最後の一瞬、ナズナの声が聞こえた気がした。