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公爵家の呪われしワケあり息子と婚約しました

作者: けっき


 男爵令嬢ってもっと無難な婚約をするものだと思っていました。

 伴侶候補を迎えにきた公爵家の馬車の中、私──マゴリーノ・ウラキーモンはやれやれと嘆息します。


『おお、マゴリーノ。お前の婚約者決まったぞ』


 まるで夕飯のメニューでも告げるように知らせてきたのは私のお爺様でした。なんでも縁あってルビリアン家の当主から「是非うちにあなたの孫を」と求めてこられたのだそうです。


 まったく迷惑な話です。ルビリアン家も公爵家なら家格の釣り合うお嬢様を見つくろってくれればいいのに。四捨五入したら庶民のほうに吸い込まれそうな男爵家の、三つ編み眼鏡の地味な娘をわざわざ所望するなんて、本当にどんな奇特な家なのでしょう。


(ルビリアン家って確か跡取り息子が呪われてるんだったよね?)


 昔ちらとだけ聞きかじった噂が頭をよぎります。そのせいで婚約するたびに相手に逃げられ、不幸なその長男は屋敷に引きこもっているとか。


 別に私は何がなんでも結婚したい女ではないし、なんならむしろ生涯独身で一向に構わないくらいなのですが、なんだってお爺様はこんな面倒臭い縁談を持ち込んできたのでしょうか。結婚前から夫人教育を受けるべく相手の屋敷に住み込まなければならないような、こってり重めの婚約話を。


『心配するな、向こうの暮らしが気に入らなければ家に帰ってくればいい』


 お爺様はそう言ってくれましたが、男爵家から公爵家に断りを入れるなんて簡単にはできない気しかしないのですが……。


(まあいいや。なるようになるでしょ)


 せっかくなので公爵家見学ツアーだと思って現状を楽しむほかありません。私は実家の馬車とは違い、豪華な黄金装飾の施されたルビリアン家の馬車内をぐるりと眺め回しました。ふかふかソファに明るい天井、手の込んだ窓枠なんてどれだけ見ても見飽きません。


(わあ、すごい。物語に出てくる王家の馬車みたい。あれ? これは……)


 そのときふとあるものが私の目に留まりました。金の窓枠に彫りつけられていたのは蝶にトンボにコガネムシ。虫の意匠を多用するのは風の精霊と縁深い家だと聞いたことがあります。

 ルビリアン家はもしかして風霊(シルフ)を祀る家なのでしょうか。だとしたら敷地にちょっとした森などあるかもしれません。


 私は少し楽しみになって鼻歌を口ずさみました。

 そうして連れられた公爵家で、予想外にとんでもない呪いを目撃することになったのです──。




 冷遇じゃん……。最初の感想はそれでした。

 門前での公爵夫人への挨拶もそこそこに私が案内されたのは古めかしい別邸でした。


「マゴリーノ? 庶民臭い名前ねえ。まったくあの人ももう少しましな令嬢を連れてきてくださればいいのに……。まあいいわ。あなたは息子の婚約者としてわたくしがしっかり教育いたします。けれど結婚前から本邸に住めるだなんて思わないでね。あなたの部屋はあそこよ、あそこ」


 公爵夫人オルネア・ルビリアン様は下睫毛のびっしり生えた垂れ目を(すが)めて顎で別邸を示します。先程は古めかしいと濁しましたが実態はそれどころではありません。スレートぶきの屋根は色褪せ、外壁には雨垂れの痕跡がくっきりと浮かんでおり、正直ちょっと汚らしいです。窓は劣化して隙間風が酷そうですし、中は雨漏りしそうでした。


「ひとまず今日は荷解きでもしておいてちょうだい。本格的な教育は明日から始めるわ」


 こちらにはアリの糞ほどの興味もなさそうにオルネア夫人は去っていきます。公爵家なら付き人にメイドくらい用意してくれるんじゃないかとワクワクしていたのにそれもなく、私は別邸の前に一人でぽつんと取り残されました。


(うーん。これって呪いとか関係なく、姑の高圧的な態度のせいで女の子たちに逃げられてきただけじゃない?)


 かちゃりと眼鏡を上げ直し、私は歩を踏み出しました。四捨五入すれば庶民に同化する男爵家ではたとえ令嬢であろうとも自分のことは自分でできなくてはなりません。少々ボロい住居くらいで私は動じませんでした。


 考えてみればこれはこれで面白い見学コースです。お爺様には帰ってきてもいいと言われているのですし、オルネア夫人の素っ気なさにこれから一生付き合わねばならないわけではありません。不遇令嬢体験と思えば乙なものでした。


「よし、それじゃ入ってみますか」


 玄関を開け、私は中へと踏み込みます。屋内は案外綺麗に清掃され、高窓から明るい光が差していました。

 そのときです。私がホールの広い階段を下りてくる先客に気がついたのは。


(えっ精霊……?)


 それは実に麗しい青年でした。さらさらと流れるプラチナブロンドは男性にしては珍しく肩下まで伸びていて、繊細な印象を与えます。伏し目がちな薄紫の双眸も光を帯びて輝いて宝玉が嵌め込まれているようです。すっと通った鼻筋も、細い顎も、きめ細やかな白い肌も、この世のものとは思えない神秘の美しさでした。


 そんな人が絹の薄いシャツをまとって優雅に歩いてくるのですから私はただ驚きました。外観は廃屋同然のこの館にこれほどの美青年が現れようとは。


(あっ挨拶)


 彼は私を前にして立ち止まり、にこやかに微笑みかけてきます。私が自分から口を開いて大丈夫なのか迷う間に手荷物も引き受けてくれました。

 その直後です。私がちょっと信じがたい第一声を耳にしたのは。


「君が僕の新しい婚約者なのゲスか?」


 ──聞き間違い、だったのでしょうか。それとも噛んじゃったのでしょうか。精霊級の美青年はそこらの少女ならとろけそうな甘い声で私にそう尋ねました。

 まさかこの美の奇跡、ラクダも驚きの長い睫毛の集合地である目の持ち主が語尾にゲスなどつけるはずがありません。これはきっと馬車に揺られて疲れた私の聴覚神経が正しい音を捉えそこなったのでしょう。


「あ、はい、多分そうです。私はマゴリーノ・ウラキーモンと申します」


 動揺しつつも一礼し、私は自己紹介をします。先方がウラキーモンと聞いてもピンと来ない様子だったので私は「ええと、社交界とは縁の薄い男爵家です」と付け足しました。


 美青年はふむと思案するようにほっそりした人差し指を唇に押し当てます。あたかもそれが一幅の絵画のようで私はほうと見入りました。ですがその感嘆も、彼が口を開くと同時にあえなく吹っ飛んだのでした。


「歓迎するゲス! 僕の名前はリチャルド・ルビリアン、この別邸の主であり、公爵家の跡継ぎでゲス」


 やっぱりゲスって言ってるよね? 最後は「でゲス」って言ったよね?


 あまりにも似つかわしくないキャラ付けに私はしばし固まりました。これがなんらかの不遇令嬢物語ならここでパタンと本を閉じ、棚に戻す読者がいてもおかしくはありません。確かに個性は大切ですが方向性を見失いすぎです。一体誰がゲスゲス喋るお相手男性に胸ときめかせると言うのでしょう。ヒロインが地味な眼鏡令嬢なら釣り合いを取るために相手役には普通スーパーダーリンを持ってくるのが定石ではないのですか?


(えっ? これつっこんでいいの?)


 私は数秒悩みました。けれどこの語尾はスルーできません。せっかく透き通る美声なのに、眩しいほどの美貌なのに、ゲスはさすがに駄目でしょう。秀麗なる素材に対する冒涜です。


(いや、でも、本人が好きでゲスゲス言ってるんなら外野がどうこう言う話でもないのかな……? 語尾がゲスでもザマスでもその人の自由だし……)


 更に追加で数秒迷い、私は思い切って彼に尋ねてみることにしました。

 婚約者なら多少失礼な質問でもぶつけてみていいはずです。この先の展開によっては一応夫婦になる可能性もあるのですから。


「あの、リチャルド様」

「リチャルドでいいゲス」

「ええと、それじゃリチャルド、あなたのその喋り方は……?」


 私が聞くとリチャルドはハッと目を見開きました。薄紫のガラス玉みたいな瞳にじわりと涙の膜が張ります。その反応にこちらが戸惑っているうちに彼は滲んだ水滴をぐいとぬぐって言いました。


「なんてことゲス……! ああ、君は男爵家で社交界への出入りが少ないから知らなかったんでゲスね。これは僕が十歳のとき受けた呪いで、何をどうしても語尾にゲスがついてしまうんでゲスよ……!」


 ──なんだその呪いは。想像していた種類のそれとはあまりに異なる事実を明かされ、私はまた固まりました。呪いってもっと、満月の夜だけ化け物の姿になるとか、人の心の闇が見えるとかそういうのじゃないんですか。


「ご、語尾にゲスがつく呪いですか?」

「そうでゲス。今までここに来た令嬢はみんな僕のゲス口調に哀れみと(さげす)みの目を向けて帰っていったゲス。予備知識なく婚約者にさせてしまうとは非常に申し訳ないでゲス」


 リチャルドはそう言って不憫そうに目を伏せます。憂えるその表情は彫像のごとく美しく、私は不可解な気分でした。例えるなら華麗なる紅薔薇から異臭が漂っているような、国民全員ツインテールで日常業務をしているような、馴染みきれないちぐはぐさに脳がシェイクされるのです。この形良い唇からこぼれてくるのがなぜ下っ端の山賊のようなゲス喋りであるのかと。


(せめてもうちょっとゲス顔の似合う美形なら良かったのに……)


 私はちらとリチャルドを盗み見ました。優しげな面差し、光の輪を作る金髪。何度見てもリチャルドは爽やかな好青年です。


「マゴリーノ、失望したゲス? いいんでゲスよ、正直に言ってくれて。もしも君が今すぐにでも実家に帰りたいのならそうしてくれて構わないゲス」


 震えて揺れた薄紫の双眸に私はハッとなりました。しょぼい部類の呪いでも呪いは呪い、かけられた本人にはつらいものであるはずです。正直「なーんだ、それだけか」と思わなくなかったですが、逆にそれだけだからこそリチャルドは一人で苦しんできたのでしょう。語尾がゲスというだけですべてがコミカルに響きますし、深刻な話も深刻に聞いてもらいにくいでしょうから。


「その呪いって命に別状はないんです? 周囲に伝染したりとかは?」

「ないでゲス。本当にただ語尾にゲスがつくだけでゲス」

「なるほど。それくらいなら私全然平気ですよ」

「! ほ、本当ゲス!?」


 私の返事に喜んでリチャルドがまた目に涙を浮かべます。彼は随分と感激屋らしく、高く両手を万歳すると妖精が踊るように玄関ホールを跳ね回りました。


(ふふ。もし縁談がまとまらなくても友達くらいにはなれるかな)


 最後は天に感謝の祈りを捧げるリチャルドを見やって私はそうひとりごち、通された客室に荷物を広げたのでした。




 ***




 さて、公爵家での最初の夜が明けました。私はううんと背伸びをし、ベッドを下りて身支度を始めます。


 私の準備は簡単です。顔を洗ったら地味で丈夫で軽いドレスに袖を通し、髪を二本の三つ編みにし、汚れを拭いた丸い眼鏡を装着するだけ。面倒なので化粧はしません。化粧をしない女には映えないのでアクセサリーもつけません。


 いつでも部屋を出られる状態になると私は窓を開きました。外はなかなかの快晴です。ルビリアン家の広い庭が遠くまで見渡せます。赤、白、ピンクに紫と色とりどりの花咲く園に蝶々らしきヒラヒラが飛んでいるのを楽しんでいると後ろでコンコンとノックの音が響きました。どうやらリチャルドが迎えにきてくれたようです。


「おはようでゲス、マゴリーノ! 朝食の時間でゲスよ!」

「おはようございます。今行きます」


 窓を閉じ、私はドアに向かいました。そのときです。私に追従するように一匹の蜘蛛が壁を伝って同じドアを目指しているのに気づいたのは。


「ふうん? この形状とこの大きさなら家蜘蛛(イエグモ)かな。高貴なお家とか関係なくどこにでもいるねえ君は」


 黒っぽく小さな蜘蛛はゴキブリの卵などを食べてくれる益虫です。家の中に虫を入れないというのは公爵家でも不可能なのだなと私はうんうん頷きました。


「マゴリーノ? 大丈夫ゲス?」


 と、リチャルドの声が廊下から呼びかけてきます。いけない、いけない。少し足を止めすぎました。私は慌ててドアを開けます。


「大丈夫です、行きましょう!」


 私たちは食堂へと歩き出しました。ちらと視線だけ振り返ると、家蜘蛛は壁を這って私の後を追ってきているようでした。




 そんなこんなで朝食です。私はリチャルドのエスコートを受けてテーブルに着きました。

 別邸には昨日からメイドの姿がなかったのですが、食事だけは出張で作りにきてくれているようです。白いテーブルクロスの上には香ばしく柔らかそうなパンやオムレツ、瑞々しいサラダのお皿が並んでいました。


「嬉しいでゲス! 誰かと一緒の食事は久しぶりでゲス!」


 向かいに座ったリチャルドはにこにこと上機嫌です。彼の発言が気にかかり、私は思わず尋ねました。


「いつもはお一人なんですか?」

「別邸に住んでいるのは僕だけなのゲス。父は領地と行ったり来たりで留守の日が多いゲスし、母と弟は基本的に本邸でしか食事しないゲス」


 なんということでしょう。薄々そんな気はしていましたがやはりこの別邸は彼の住処でもあったようです。跡取り息子なのにボロ屋敷で暮らしているなど気の毒がすぎるので本邸から婚約者のもてなしにきているのだと信じたかったのですが。


「僕が十五歳になった年にここに移り住んだのゲスよ。母上が、僕がゲスゲスと喋るたびにストレスを溜め込んでおられる様子だったゲスから……」


 追い出されたわけではなさそうで私は少しほっとしました。とは言え家族の誰も引き留めなかったのかと引っかかりはしましたが。そんな私の表情を見てリチャルドは「あ、いや、」と言い訳のように続けました。


「僕だけ別邸暮らしと言っても家族仲が悪いとかではないのゲス! 弟はよく遊びにきてくれるゲスし、館の管理費もしっかり渡されているでゲス。ただ僕が母上へのプレゼントに使い込んで修繕が間に合っていないだけで……」


 なるほど。どうやらリチャルドは使用人の雇用をもケチるほど母親への愛が深いようです。いえ、この場合大変な気遣いをしていると表現したほうが正しいでしょうか。

 少しの会話でそうとわかるほどリチャルドは心優しい青年です。ゲス喋りで肉親をイラつかせてしまうなど彼には耐えがたいのでしょう。


「そんなにお母様に贈り物をなさっておいでなんですか?」

「会って話すとがっかりさせてしまうゲスからね。贈り物くらいしかできないのゲス」


 リチャルドの台詞からは彼が長く母親とまともな交流を持っていないことが窺えます。ふむ、と私は考え込んでしまいました。


(なんだかこう、根深い問題を抱えていそうな一家だなあ……)


 さすがの私も出会って二日目の婚約者に「おうちこじれてるんですか?」とは聞けません。ルビリアン家の実態は地道に把握していくしかないでしょう。まあ手に負えなさそうであれば婚約を辞退するまでです。


「でも僕も、そろそろ後継者として本邸に戻るでゲスよ! 母上から言われているのゲス。無事に結婚できたなら本邸で一緒に暮らしましょうと! だから僕はマゴリーノに素敵な婚約者だと思ってもらえるように頑張るゲス!」


 リチャルドはそう言うと「マゴリーノにもプレゼントがしたいゲスね。どんなアクセサリーが好きゲスか?」と尋ねてきました。


「うーん。私は昆虫採集や鉱物採集が好きなので、アクセサリーより箱を貰えたほうが喜ぶと思いますね」

「昆虫採集……!? マゴリーノはアクティブでかっこいいゲスねえ」


 話題はそのまま私がどんな標本を持っているかに移っていき、朝食は楽しいひとときとなりました。リチャルドの顔面と語尾の噛み合っていなさには時折くらくらしましたが昨日ほどではありません。美人も三日すれば慣れると言うように、私もそのうち彼のゲス口調に慣れるでしょう。


「ところで君はこのあと母上から夫人教育を受けるんゲスよね?」

「あ、はい。そう伺っています」

「厳しい人だからつらいこともあるかもゲス。そんなときは僕を頼ってほしいゲス。助言できることは助言するゲスし、愚痴だっていくらでも聞くでゲス」


 私を安心させようと微笑むリチャルドは十分素敵な人でした。語尾は大問題ですが今までどうして彼が結婚まで至らなかったのか不思議です。貴族というのは見栄を気にする生き物なので語尾がゲスの時点ですべて駄目だったのかもしれませんが……。


「ありがとうございます。頑張ってきます」

「うん! 応援しているゲス!」


 私たちが朝食を終える頃、ちょうど本邸から迎えのメイドがやって来ました。

 公爵が家と領地を行ったり来たりで不在がちということは本邸で最も力ある人物はオルネア夫人と見ていいでしょう。

 初見時の彼女の態度を思い出し、私は小さく嘆息しました。対応の面倒そうな相手です。まあ所詮人間の起こせる面倒などたかが知れていますけれど──。




 ***




「マゴリーノ嬢、なんなのですかこの書類は? やり直しです。もっときちんとしたものを書いて持ってきてください」

「ええ……またですか? これでもう十回目なんですけど……」

「やり直すべきだからやり直すように指示をしているのです! 口答えするのではありません!」

「はあ、わかりました」

「気の抜けた返事をしないでくださる!? 返事はハイ!」

「はーい」

「だからそのふにゃふにゃした喋り方をおやめなさい!」

「うっ……すみません。気をつけます」


 予測に違わずオルネア夫人のレッスンは難しいものでした。まず実務能力を見るということで私は執務室の片隅に机を用意されたのですが、先程から何度同じ書類を修正したか知れません。いえ、内容は単純な計算でたいしたものではないのです。ただ文字が乱れすぎだと永遠にリテイクを食らっているのです。


(厳しいのはわかったけど、厳しくするところはそこじゃない気がするなあ)


 私はこそりと肩をすくめ、再び机に戻りました。

 帳簿の数字など読めればいいのではないでしょうか。多少汚く書いていても外に出すものではないのですから。レッスンの傍ら公爵家の会計仕事をこなすオルネア夫人本人も、盗み見た限り数字の記入は速さ重視のようですし。

 計算は正しいのです。文字も別に曲がったり跳ねたりしていません。けれども夫人は認めてくれず、無為に時間が過ぎていきます。


(疲れてきちゃった。丁寧に仕上げてるふりして適当にさぼっちゃうか)


 真面目な令嬢、気位の高い令嬢はこんな初歩的な書類作成でやり直しばかり要求されたら泣くか怒るかするのではないでしょうか。オルネア夫人は今後を見据えて力関係を明確にするべく無茶な指令を出しているとしか思えません。どんなに美しい字で書いても「乱れています」と却下する夫人の苦言はほとんど言いがかりでしたから。


(うーん、やっぱり面倒な人だ。ご家族にはなりたくない)


 私はあくびを噛み殺し、机に上がってきた家蜘蛛にペンを向け、床に下りろと追い立てました。その動作に目ざとく気づいた夫人が声を荒らげます。


「マゴリーノ嬢! 何を遊んでいるのですか!」

「すみません。ちょっと蜘蛛がいて」


 その後も書き直しは続きました。一枚で済むようなものを百枚は書かされたのではと思います。レッスンはそれだけでなく、歩き方や挨拶の仕方、美味しい紅茶の淹れ方と多岐に渡り、そのすべてにおいてオルネア夫人は小さな欠点をあげつらい、私に何度も同じことをやらせました。


 こう言ってはなんですが教育という名の嫌がらせです。新しい知識を授けてくれるならともかく、夫人は私に何をどうすれば正しい作法になるかは教えてくれません。この家に着いたときと同じく説明らしい説明もせず「やりなさい」と命じるのみです。


 苦痛極まりないレッスンは日没とともに終了する予定でした。しかしそれは意外な形で切り上げられることになりました。

 疲れたなあ。そろそろケーキとか食べたいなあ。午後三時を告げる時計に私がそう項垂れたときです。突然バタンとバルコニーの窓が開き、室内に砂混じりの突風が吹き込んできたのです。


「キャーッ! 目が、目がああぁッ!」


 オルネア夫人の叫び声は屋敷中に響きました。なんだなんだとメイドたちが大騒ぎで集まってきます。

 私が壁に目をやると家蜘蛛はやってやったぜとばかりに身体を揺らしているところでした。その後すぐに私は治療の邪魔だからと追い出され、思ったよりも早く別邸に帰れることになったのでした。




 ***




 夫人には申し訳ないですが、実りのない授業から逃れられて私はほっとしていました。明日以降もあんな感じのレッスンが続くのでしょうか。であれば少々考えものです。このままでは私もつまらないですし、オルネア夫人は更に危険な目に遭ってしまうかもしれません。


 うーんうーんと悩みながら別邸まで戻ってくると中から誰かの談笑する声が聞こえました。どうやらリチャルドにお客様が来ているようです。ひょっとしてよく会いにきてくれるという彼の弟さんでしょうか。


「ゲースゲスゲス!! 笑いすぎてお腹が痛いゲスー!!」

「まったくもう、兄上ったら……」


 声は玄関ホールの脇にある食堂から響いてきます。リチャルドって笑うときそんな風なんだ……。衝撃に動揺したまま私はそちらに顔を向けました。


「あっ、マゴリーノ! もう帰ってきたのゲス? 弟が来ているゲス! 君に紹介したいゲス!」


 半分開いていた食堂のドアの隙間からひょいとリチャルドが顔を出します。客人はやはり弟さんだったようです。続いて彼の後ろからこれまた整った顔をした金髪紫眼の少年が現れました。

 リチャルドが精霊的な美貌の持ち主だとするとこちらは小生意気な美少年といった風情です。年齢は私より少し下、十六歳くらいでしょうか。彼は吊り気味の大きな目に私を映して言いました。


「初めまして、マテオ・ルビリアンでガス」

「もしかして弟さんも呪われているんですか!?」


 今日イチ大きな声を出して私はリチャルドに問いました。語尾は伝染しないという話でしたし、弟さんはゲスではなくガスと言っていますので別の呪いと考えたほうが妥当でしょう。

 しかしどうやらこれは私の早とちりだったようです。「違うでゲス!」と首を振り、リチャルドは混乱する私に説明してくれました。


「弟は僕に配慮して会話のレベルを合わせてくれているんでゲス」

「そ、そうだったんですね」


 呪いではないと知って私は胸を撫で下ろしました。息子が二人ともゲスだのガスだの愉快な語尾を強いられているとしたらオルネア夫人の精神が歪むのも無理はありません。片方は無事で本当に良かったです。


「母上に叱られるからやめろと言っているんでゲスけどねえ。マテオは反抗期なのかちっとも言うことを聞かないゲスよ」

「それは母上が悪いのガス! あの人は語尾がゲスというだけで兄上のことをまったく認めようとなさらないじゃないガスか!」


 ぷりぷりと憤慨しもって弟さんはそう答えます。彼はリチャルドが大好きなようで私は微笑ましくなりました。


「自分の意思で語尾をガスにするなんてマテオさんは兄想いなんですね。私はマゴリーノ・ウラキーモンと申します。不束者ではございますがどうぞよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ兄上をよろしく頼むでガス」


 兄想いと評されてマテオの頬がほんのりと赤く染まります。なんだか可愛い少年です。


「そうだ。兄上たちにデザートを持ってきているでガス。せっかくだから三人で食べるガス」


 マテオが厨房に向かったので私も紅茶を淹れるべく後を追いました。するとぱたぱたリチャルドの足音もついてきます。


「わあ、待ってほしいゲス! 僕にも用意を手伝わせてほしいゲス!」

「じゃあ兄上にはテーブルセッティングをお願いするガス!」


 こうして私たちは厨房と食堂とに分かれました。マテオはてきぱきケーキを切り分けていきます。私も甘味に合いそうな茶葉を選んで湯を沸かしました。

 マテオが静かに耳打ちをしてきたのはそのときでした。


「マゴリーノさん、母上には気をつけてくださいね。あの人はこれまでも兄上の婚約者をねちねち虐めて家から追い出してきたのです」


 ガ、ガスじゃない。語尾の正しさに息を飲んだ私でしたがマテオの表情は真剣そのものでふざけた返事は口にできませんでした。


「母上はゲス喋りの兄上が気に入らず、僕にばかり肩入れをするのです。ですがどうか兄上をお見捨てにならないでください。兄上は僕と違って本当に立派な男なんです……!」


 オルネア夫人が次男にばかり肩入れする? どういうことかもう少し詳しく聞きたくて私はマテオを仰ぎました。しかし結局それ以上のことは聞けませんでした。食器類(カトラリー)を取りにリチャルドが厨房へ入ってきたからです。


「うーん、紅茶のいい香りがするゲスねえ!」


 ニコニコ顔のリチャルドの前で不穏な話はしづらいです。しかも彼が傷つく可能性のある話など。

 私はリチャルドが食堂に戻った隙に「大丈夫ですよ」と微笑むに留めました。私のほうもマテオに詳細を伝える時間はありませんでしたが。


「確かにオルネア夫人には既にねちねちやられていますが私トラブルには強いんです。今のところリチャルドの好感度も高いですよ。本当に彼と結婚するかは総合的に判断しますが」


 私の目をじっと見つめてマテオはこくりと頷きました。


「信じますよ、マゴリーノさん」


 なんだか婚約を辞退するハードルが上がったような気がしますが、まあいいでしょう。総合的に判断するというのも嘘ではありません。


 ささやかなお茶会を楽しんだ後、私たちは解散しました。マテオが帰ってから聞いたのは、リチャルドがその身に呪いを受けた日に一番側にいたのが彼だという話です。兄弟は二人で遊んでいて、リチャルドだけが災禍の犠牲になったのでした。


「マテオはずっと責任を感じているようでゲス。だからあの子は僕の婚約者にいつも優しくしてくれるゲスし、いまだに呪いを解く方法を探してくれているのゲス」


 リチャルドがゲスの呪いにかかったのは十年前、十歳の頃と聞いています。ということは、当時マテオは五、六歳くらいのはずです。兄弟の歴史を感じて私はなんだか神妙な気分になりました。珍奇な効果しかありませんがやはり呪いは人を不幸にするのです。


「あ、そうでゲス。言うのを忘れていたゲスが、東の森には近づいちゃいけないゲスよ。あそこには僕が呪いにかかった泉があって危険なんゲス」

「え!? 森があるのに入っちゃいけないんですか!?」


 私は思わず声を乱して問いかけました。庭とか森とかスケジュールの空いた日に散策してみようかなと楽しみにしていたのに。


「昆虫採集……標本作り……」


 がっくりと肩を落とすとリチャルドは慌てふためきました。「えっ、そんなに行きたかったゲス?」と尋ねられ、私は素直に頷きます。


「行きたかったです……! 伝手がないと入れない私有地の森、めちゃくちゃ行きたかったです……!」


 さめざめと嘆く私を見るに見かねたか、リチャルドは思案の後に言いました。


「わかったゲス。だったら僕が付き合える日に行くでゲス。どこが危険地帯かをナビゲートしてあげるゲス」

「リ、リチャルド……!」


 なんていい人なんでしょう。私はすっかり感激しました。昆虫採集に引かないばかりか同行までしてくれるなんて。


「ありがとうございます。ありがとうございます」

「マゴリーノが喜んでくれるなら僕もとっても嬉しいゲス。明日は父が帰ってくるから行くなら明後日ゲスかね? 楽しみにしてるゲス!」


 私たちは森林デートの約束をするとウキウキで食堂を後にしました。

 一日中私の周りをうろうろしていた家蜘蛛もぴょんぴょんと跳ねて嬉しそうでした。




 ***




 翌日。領地から帰宅したルビリアン公爵が別邸にやって来ました。中年太りはしていましたが若い頃はさぞやモテたに違いない顔立ちの紳士です。この家の息子たちは長男が父親に、次男が母親に似たのだなとわかりました。


「おお、君がマゴリーノ嬢か。リチャルドとは上手くやれているかね?」

「はい。とても良くしてもらっています」

「そうかそうか。それなら良かった」


 公爵は初めて顔を合わせる私と簡単に挨拶を済ませるとリチャルドを連れて本邸へと引き揚げていきました。あちらはあちらで後継者教育があるようです。別邸に一人残された私はのんびり午前を庭で過ごしました。


 夫人教育はいいのかって? 実はオルネア夫人の気分が優れないとのことで今日は午後から授業開始となったのです。そんなわけで私はガーデンチェアに腰かけて朝から本を読みふけっていたのでした。


「マゴリーノ様、お食事のご用意ができました」

「あっ、はーい! ありがとうございます」


 呼びかけに顔を上げ、私はお礼を伝えます。ガーデンテーブルに昼食を運んできてくれたのは授業時刻の変更を告げにきたメイドでした。この人は私が庭に一人でいるのを見かけると親切に「サンドイッチでも持ってきましょうか?」と申し出てくれたのです。


「わーい美味しそう! いただきます!」


 けれど私のルンルンタイムは長くは続きませんでした。ジャリイイイッ! 卵のサンドイッチを頬張る口からしてはいけない不快な音が響いたからです。


(……!? 殻でも混じっていたのかな?)


 ぺっと一部を掌に吐き、私はいっそう驚愕しました。混じっていたのは殻ではなく灰色の砂粒だったからです。


「っ……!?」


 私は思わずメイドを振り返りました。オルネア夫人付きの彼女は澄まし顔でテーブルの奥に控えています。

 まさかとは思いますが、彼女はわざわざ食べられないサンドイッチを作って持ってきたのでしょうか。嫌がらせには気をつけてと忠告は受けていましたが、こんなことまでされるとは……。


(そんなに姑が上で嫁が下だって思い知らせたいんですかね!?)


 空腹なのに手の中のサンドイッチにかぶりつくわけにもいかず私はしゅんと落ち込みました。兵糧攻めなんて酷いです。ほかのことならスルーできなくないですが、お腹が減ると私はふらつく体質なのです。


「あのー、これ砂が入ってないやつに交換してもらえませんか?」


 頼んでもメイドは知らん顔でした。どうやらこれは本格的にオルネア夫人の息がかかっていそうです。なんだってあの人は息子の婚約者に嫌がらせなんてするのでしょう。呪われし我が子の妻になってくれるとはありがたいと普通はもっと感謝しそうなものですが。


(うーん、仕方ないなあ。このサンドイッチは庭のアリさんたちに進呈するしかないや)


 無事な食パン部分だけ自分の口に放り込むと私はサンドイッチの具を足元に散らしました。もちろんパンだけでは足りないのでポケットに忍ばせておいた非常食のクッキーを追加でぽりぽりむさぼります。

 その間もメイドは無反応でした。そして突然「そろそろレッスンのお時間です」と食事を中断させたのです。


 なんだか嫌な予感がしました。そしてこの予感は見事に的中してしまったのでした。




「マゴリーノ嬢! 大遅刻ですわよ! 一体どこで何をなさっておいででしたの!?」


 ああ、やっぱり。不遇令嬢物語で時々見かける例のあれです。パーティなどの開始時刻をわざとずらして教えておいてヒロインに恥をかかせようとするやつです。

 私は読書好きなのでなんとなく裏が察せますが、悪意に弱い令嬢は夫人の前に立ち尽くすしかできなかったことでしょう。


「すみません。今日は午前の授業はないとお伺いしたもので」

「言い訳はおよし! 確かに午前はないと言いましたが午後すぐに来るようにわたくしのメイドが伝えたはずですよ!」


 オルネア夫人はオペラ歌手にもなれそうな大きな声で吠え立てます。きっと執務室周辺で働く使用人たち全員に私の失態が知れ渡ったに違いありません。

 夫人はおそらくこういった尊厳破壊を得意としているのでしょう。マテオが気をつけろと言うはずです。人間生きていればミスを犯すものなので私は何と噂されても別に気に病みはしませんが。


「奥様、実は……」

「うん? なんですって?」


 と、先程のメイドが夫人に耳打ちします。すると夫人の双眸が更に吊り上がりました。


「マゴリーノ嬢、あなたはレッスンに遅れてやって来ただけではなく、この子に作らせた昼食を庭に放り捨てたのですって?」

「えっ」

「いくら庶民も同然の男爵令嬢とは言え恥ずかしくないの!? そんな振舞いは公爵家に似つかわしくありません!」


 さっきのあれがそうなるかあ。悪だくみにもいろんな伏線があるんだなあ。

 ここまで来ると腹が立つより感心します。いえ、もちろん食べ物を粗末にした人間への「それは駄目でしょ」との感情はありますが。


「サンドイッチは砂が入っていたんです。パンのところは食べましたよ」

「お黙り! 稚拙な弁解をするのではありません!」


 オルネア夫人はこちらの言い分など聞く気はまったくなさそうでした。まあ私を辱めるのが目的ならば当然でしょう。

 それにしたって本当にやりすぎです。上下関係というものを躾けるだけならここまでする必要はないのではないでしょうか。


「わたくし付きのメイドを馬鹿にすることはわたくしを馬鹿にすることです。マゴリーノ嬢、あなたに謝罪を要求します。土下座して許しを乞いなさい!」

「ええっ!?」


 どんどん飛躍していく話に私もちょっと焦ってきました。悪くないのに謝るのも嫌ですが、土下座なんて虫の生態を観察するときしかしたくありません。

 私が困り果てているとオルネア夫人は勝ち誇って言いました。


「嫌なら男爵家に帰ればいいのよ! あの子との婚約を破棄してね」


 ──あれ? 私は不意に湧き上がった違和感に眉をしかめました。

 オルネア夫人ってもしかして本当に私を追い出したいんでしょうか。嫁姑のなんたるかを仕込もうとしているのではなく、婚約自体を妨害したい?


「これはあなたへの親切で言っているのです! リチャルドなどと結婚したら一生不幸になりますわよ!」


 脳内でクエスチョンマークが乱舞します。公爵家は息子を結婚させたいから私を連れてきたはずなのに、夫人はそれとは真逆の行動を取っています。マテオの話では今までも夫人がリチャルドの縁談を白紙にしてきたようですし、私の知らない裏がまだありそうです。


「さあ! 額を床にこすりつけて慈悲を乞いたくないのならさっさと公爵家を出ていきなさい!」


 興奮したオルネア夫人は私の周囲をメイドたちで固めます。これはもう限界だなと私が諦めたときでした。一切の前触れもなく執務室の本棚が夫人に倒れかかったのは。


「奥様、危ない!」


 私はとっさに一歩踏み込み、夫人の手を引きました。間一髪、オルネア夫人は重量たっぷり本棚の餌食にならずに済んだようです。


「ひっ……!?」


 飛び出した分厚い本が何冊も潰れているのを目の当たりにし、夫人はぞっとした様子でした。怪我はないみたいですが今日もベッドにこもりそうです。


「あのう、奥様。私って守護霊がめちゃくちゃ強いらしいんです。なのでこう、発言には十分気をつけられたほうがよろしいかと……」


 掴んでいた手を離しつつ私はそう助言しました。メイドたちが散乱した本を片付けている間にサッと出口へ向かいます。

 お互いに()()が迷惑をかけたのです。今日のところは相殺ということにしてもらいましょう。


「ちょ、マゴリーノ嬢! どこへ行くおつもりですか!?」


 引き留める夫人の声に私は振り返って告げました。これ以上私がこの部屋に留まっては死人が出るかもしれませんので。


「すみません。守護霊がかなり怒っているのです。危ないですから私はひとまず別邸に戻りますね」


 後ろでまだ私を呼ぶ声がしましたが、全部無視して屋敷の外へと急ぎました。ちらと見やった廊下の壁には猛スピードでついてくる家蜘蛛の姿があります。


「まったく……!」


 私は眉間にしわを寄せ、家蜘蛛にデコピンを食らわせました。けれど家蜘蛛はピンピンして、むしろ私の腕に乗っかってくるのでした。




 ***




「あれっ? マゴリーノ、今日も早かったんゲスね!」


 私が別邸に戻ってすぐリチャルドも帰ってきました。今日のこと、彼に相談をしておくべきかと思えますがどう説明すべきかわからず私は返事を濁します。

 しかしリチャルドにはまだ真顔眼鏡の私の表情を読み取ることは難しかったようでした。彼は朗らかな笑みを浮かべて「食堂まで来てほしいゲス!」と私に手招きをしました。


「マゴリーノにお土産があるのゲス! きっと喜ぶと思うゲス!」


 街まで出ていたわけでもないのにお土産とは一体どういうことでしょう? ひとまず私は先に彼の話を聞くことにしました。


「ゲースゲス! これを見るゲス! なんとこのガラスの箱はルビリアン家に代々伝わる魔法の金庫なのでゲス!」


 リチャルドはそう言うと食卓に置いた、標本ケースにできそうな透明平箱を示します。魔導具ということは相当古いもののはずです。けれど魔法のかかったそれはピカピカして新品のようでした。


「これって本物の魔導具なんです?」

「そうでゲス! マゴリーノ、箱が欲しいと言っていたゲス? これなら中が見えるから昆虫を並べても鉱物を並べても綺麗だと思ったゲス!」

「えっ」


 もしかしてそれだけのために家宝を引っ張り出してきてくれたのでしょうか。だとしたらいい人すぎて驚きです。知り合って間もない小娘に貴重な品を贈るなど、変な壺やら買わされないかも心配でした。


「本当は婚姻契約書なんかを収めておく箱なんゲスが、それは僕の金庫で保管すればいいゲスから、こっちはマゴリーノの好きに使うゲス」


 聞けばこの魔法の金庫はほかにもう一つ同じものがあるらしく、次期当主とその妻に受け継がれてきたそうです。箱の認識するルビリアン一族の人間しか開けられず、台座に固定すれば盗難の心配もないとのことで、私は「なるほど」と頷きました。


「結婚すると貰えるものを早めに持ってきてくれたんですね。一瞬構えちゃいましたよ。金銭感覚どうなっているんだろうって」

「僕だってなんでもかんでもプレゼントにはしないゲス! これはマゴリーノだから渡すゲス!」


 母親への贈り物のしすぎでボロ屋敷に住んでいる人が何かわめいています。私はこちらを窺うように見つめてくるリチャルドに返しました。


「ふふ、素敵なプレゼント嬉しいです。虫かごとかにもなりそうだなあ」


 ありがとう、と感謝を示せばリチャルドは白磁の頬をぽっと染めます。


「マゴリーノみたいな女性は初めてゲス」

「私みたい? それってどんな女性のことです?」

「僕がゲスゲス言っていても平坦に受け止めてくれる、懐の深い女性ゲス」

「そうですか? 初めは結構びっくりしていたと思いますけど」

「全然平然としていたゲス! 眼鏡だって1ミリもずれなかったゲス!」

「うーん、まあ普通の人よりは妙なトラブルに慣れているからかもしれませんねえ」


 あ、そうだと私はリチャルドに向き直りました。彼の母オルネア夫人のこと、やはり早めに相談しておかなければと思ったのです。


「あの、ちょっと今から重い話するんですけどいいですか?」


 切り出し方には迷いましたが私はなるべく順を追ってオルネア夫人にされた諸々を打ち明けました。初日のやや失礼な発言、無為な過酷さに満ちたレッスン、そしてメイドを使った謀略──。


 リチャルドが信じてくれるかどうかはわかりませんでした。母親を愛する彼には妄言だと否定されるかもしれません。しかしこの問題を放置するとゲスの呪いどころではない災いを呼び込んでしまいかねないのです。


「奥様が私につらく当たる理由ってわかります? できたらこう、厭味を言うくらいにしてもらって、物理的なのはやめてもらいたいんですけど……」

「は、母上が……?」


 私が尋ねるとリチャルドは深く黙り込みました。ゲスゲス喋らず真剣な顔をしていれば彼はやはり目に眩しい青年です。


「心当たりはあるでゲス……」


 瞼を伏せて呟いたリチャルドの表情は苦しげでした。思わずその手を握ってあげたくなるほどに。


「何度も婚約を破棄されて、僕は母上に言われたゲス。男爵家の令嬢にも愛想を尽かされるようなら後継者の座は弟に譲って完全に隠居しろと。母上は、僕よりマテオに後を継がせたいのゲス。当主になって社交界に顔を出せば確実に僕は笑い者にされるゲスから。それはルビリアン家全体が馬鹿にされるということなのゲス」


 え、と私は目をみはりました。ということは、私が結婚を断ればリチャルドは公爵家を継げないということではないですか。

 それなのに彼は「失望したなら帰っていいゲス」と男爵家の娘などを気遣ってくれたのでしょうか。私の人生を大切にしろと。


「すまないでゲス。マゴリーノが大変なときに僕は一人ではしゃいでいたゲス。気づかなくって申し訳ないゲス」

「いえ、そこは別にいいんですけど」


 こんなときまでこちらに配慮を見せる彼がただただ不憫で私は溜め息をつきました。自分の母にこうも邪険にされていると知って彼は今どんな気持ちなのでしょう。私に何か力になれることがあればいいのですが。


「マゴリーノは帰ったほうがいいかもゲス。僕の呪いが続く限り、母上はきっとマゴリーノが出ていくように仕向けるでゲス」


 悲しそうな微笑みに私はなんとも言えなくなります。見ていられずに視線を移すとテーブルで魔法のガラス箱が光りました。思いやりのこもった彼からのプレゼントが。


「……あの、話したくなければいいんですが、あなたの呪いって誰にどんな風にかけられたものなんですか?」


 これはまだ会ったばかりの人だしなと遠慮して避けていた問いでした。

 呪いの根源にあるものは怒りや憎悪、負の感情です。十歳にしてそんなものを向けられたリチャルドはさぞや怖い思いをさせられたことでしょう。


「僕の呪いが誰にどんな風にかけられたものかゲスか? これは敷地の東の森でマテオと遊んでいたときに妖精にかけられたのでゲス」

「えっ!? 相手人間じゃなかったんですか!?」


 驚いて尋ね返すとリチャルドは「ゲス」と頷きました。国内有数の貴族であるルビリアン公爵家、その跡取り息子が呪われたなら術者は絶対に敵対貴族家のお抱え魔導師か何かだと思ったのに。


「あの日僕は十歳の誕生日を迎え、父上から当主の指輪を預かり、それを着けたままマテオと森へ出かけたゲス。泉のほとりで追いかけっこしようという話になって、僕は転んで指輪を失くしたり傷つけたりしないか不安になって、近くにあった石像の薬指に当主の指輪を嵌めたゲス」

「そうしたら石像を縄張りにしていた妖精の怒りを買った……!?」

「そうでゲス。マゴリーノ、よくわかったゲスね」

「妖精はそういう他人には読みにくいパーソナルスペースを持ってますからね。リチャルドは『私の石像に何をするんだ!』と呪いをかけられたわけですね」


 そうか、なるほど。お爺様がどうして私に「気に入らなければ帰っていいから公爵家に行っておいで」と言ったのかわかったような気がします。人間ではなく妖精が術者なら()()()に説得できるかもしれません。

 だったら初めからそう言ってくれればいいのに。いや、聞いていたら面倒そうだと警戒してそもそも公爵家へは来なかったかもしれませんが。


「その妖精、今も泉にいるんですね?」

「ああ、みんな僕みたいになりたくないから足を踏み入れないようにしているゲス。最低限の手入れはされているゲスが」

「案内してもらえませんか? もしかしたら知人の知人かもしれません。話ができると思います」


 えっとリチャルドが目を丸くします。私は手早くおやつと水筒の準備をして肩の家蜘蛛を確認しました。


「話ができるってなんでゲス? 知人って誰でゲス?」

「詳しくは歩きながらで!」


 私たちは足早に別邸を後にします。公爵家の敷地はだだっ広いのです。夕飯を食いはぐれないためにはキビキビ動かねばなりません。


「危ないゲスよ、マゴリーノ! 妖精と話そうなんて無茶でゲス!」

「心配しないでください! もっと強いの連れていくので!」


 庭園を突っ切って私たちは東の森へ急ぎました。

 ゲスの呪いなどかけたゲス妖精の棲む泉へと。




 ***




 小さな森の慎ましやかな泉には確かに霊験あらたかな空気が漂っていました。水は清らか、ほとりには美貌の女神像が立ち、ここなら妖精の一人や二人潜んでいても不思議ではありません。


「あの像ですね?」


 リチャルドに尋ねると彼はこくりと頷きました。私は石像に近づいてそっと眼鏡を外しました。普段は余計なものを見ないようにするために装着しているガラスの膜を。


(この子か……!)


 女神像のドレープたっぷりのワンピースにしがみついていたのは小さな黒い妖精でした。小さいと言っても私の膝下程度の身長はあります。このサイズなら生まれてまだ三十年くらいでしょう。目つきは悪く、鼻は尖り、髪はぼさぼさで美しいのは虫羽だけです。生まれたての妖精は醜く、成長して精霊に近づくほど見目麗しくなっていくと言いますから彼は弱い個体であると知れました。──そう、人の子にしょうもない呪いしかかけられないくらいには。


「な、なんだお前……!? 俺のことが見えてるのか!?」


 視線が合っていることに気づいて妖精が尋ねます。普通妖精は自分で呪った相手とか、契約で繋がっている相手にしか認識できない存在なので異質な私にびっくりした様子です。


「妖精さん。あなたに話があって来ました。あなたがリチャルドにかけた呪いを解いてはいただけないでしょうか?」


 単刀直入に私は要望を伝えました。もちろん彼はすぐには頷いてくれませんでしたが。


「はああ? なんで俺が人間の頼みなんか聞かなきゃいけないんだ? 知ったこっちゃないな。そいつは以前俺の領域を侵したんだ! 呪われて当然だ!」


 うーん、実に妖精らしい回答です。もはやお手本通りとも言えます。妖精とは自分本位な生き物ですが、そもそも彼がルビリアン家の敷地にお邪魔している事実は頭にもないようでした。


「マ、マゴリーノ」


 私のすぐ背後に立つリチャルドが怯えて腕を引っ張ります。彼は私が妖精に何かされないか心配なようです。森に入る前にちゃんと平気だと伝えたのに。

 私はふうと嘆息し、妖精に向き直りました。できればあまり脅すような真似はしたくなかったのですけれど。


「では人間の頼みでなければ聞いてくれるということですか?」

「はあ? 何言ってんだ、どう見てもヒトのガキのくせして。いいからとっとと家に帰り──」


 突っぱねる言葉は最後まで紡がれることはありませんでした。私がパチンと指を鳴らしたと同時、私の肩にくっついていた家蜘蛛から凄まじいまでの光がパアアとほとばしったからです。


「は!? なんだこの光!? いや、この力は……ッ!」


 私は昔から妖精や精霊が見えるのが当たり前でした。でもそんな人間は今や稀少になったようです。素で会話までできるのは世界に私くらいだと聞きます。

 人が犬猫を愛するように、精霊たちにも人を愛してやまない者は多いのです。つまり私は幼少期から一部の妖精・精霊にとてつもなくちやほやされてきたのでした。


「──頭が高い。精霊王の御前だぞ。ひれ伏せ、小さく卑しき者よ」


 家蜘蛛にとりつくことで私の守護霊を気取っていた(かぜ)の精霊王シルフィードは真の姿を現すやふんぞり返って命じました。妖精はもう蒼白です。いきなりの大物出現に可哀想なほどうろたえています。


「シ、シ、シルフィード様!?」

「聞こえなかったのか? ひれ伏せ」


 シルフィードは威厳ある美しい顔に険を浮かべて繰り返します。弱き妖精に逆らう術などあるはずもなく、彼は地に膝をつきました。


「そなた名は?」

「ヴィ、ヴィーと言います」

「ではヴィーよ。マゴリーノの願いを受け入れ、その男の呪いを解け」

「そんな……! なぜあなた様がそんなことをお命じになるのですか!?」


 ヴィーの疑問はもっともです。偉くて強い精霊は普通他人のためになど力を振るおうとはしません。彼が人間愛玩趣味のない妖精ならば理解不能な行動にしか見えないでしょう。


 それに命令の内容も内容です。これは「うちの子猫ちゃんがお前のおもちゃを気に入ったからこっちによこせ」と言っているのと変わりません。呪いをかけたということは、ヴィーにとってリチャルドは縄張りの一部なのですから。


「マゴリーノが望んでいる! 理由はそれ以外にない!」

「嫌ですよ! んな簡単に呪いを解いたら仲間に舐められるじゃないですか!」


 震えながらもヴィーは要求を拒みます。力の差は歴然としているのに意外と根性があるようです。


「はあ? そなた風霊(シルフ)の末端のくせにこの私に刃向かう気か?」

「だ、だって! 俺はちゃんと理由があってそいつに呪いをかけたんですよ!? 俺が解く気になって解くんならともかく、納得できない解呪はしたくないですよ!」


 ヴィーの主張にも一理あります。元々彼は大事にしていた石像に指輪なんかつけられて、怒って呪いをかけたのです。簡単に許しては妖精の沽券(こけん)に関わるのでしょう。ヴィーからすればあくまでも悪いのはリチャルドなのです。


「そ、その節は本当に申し訳なかったゲス……。どうすれば僕はあなたに許してもらえるゲスか?」


 と、会話の断片を聞いていたリチャルドがいたたまれなさそうに詫びました。けれどヴィーはふんと顔を背けるのみです。


「人のオンナに手を出したんだ! お前のことは許さない!」


 オンナって。私は思わず石で造られた美麗な女神を見やりました。呆れた顔でシルフィードも石像とヴィーを眺めます。


「この石像ってルビリアン家のものですよね? どちらかと言うとあなたではなくリチャルドのオンナなのでは?」

「誰の財産とか関係ねえ! 俺がずっと、生まれたときからそばにいて大事にしてきたんだからな!」


 妖精って本当にこういうところがありますよね。人間社会のルールとしては勝手に他人の所有物を私物化しているあなたのほう悪いんですが。


「なんだ。女人の像から離れられぬとは、そなたまだ乳離れできていない赤ん坊ということか」

「シルフィード、そんな言い方良くないですよ。実際生まれて三十年くらいなら人間換算では三歳です。お母さんのおっぱいを吸うにはちょっと大きいですが、母親離れはもう少し先ですよ」

「何勝手な解釈してんだコラァ!」


 と、顔を真っ赤にしたヴィーが私たちに凄みます。「それ聞いて仲間が本気にしちゃったらどうすんだ!」と彼は虫羽をばたつかせました。


「大人の妖精だと言うのなら解呪の条件くらい提示すればどうなんだ? 誰か呪うならそれを解く方法も伝えておくのが習わしだろう。まさか何も考えずに呪いだけヤアッとかけたんじゃなかろうな?」

「かかか考えてますよそのくらい!」


 ヴィーの慌てぶりからすると解呪の条件なんて決めていなかったのでしょう。忘れた記憶を思い出そうとするふりをして彼はもごもご続けました。


「ほら、あれです、し、真実の愛! 真実の愛があればゲスの呪いは解けるはずです!」


 ヴィーの返答に私は思わずがっくりします。真実の愛だなんて定番すぎるし具体性もありません。もっとこう、新月の夜にワイングラスに満たしたコウモリの血を持ってこいとか、百個の蛇の抜け殻で作った紐で黒猫を縛れとか、わかりやすい話を期待していたのに。


「そなた若いのに感性が古すぎてちょっとコメントしづらいな……」

「やめてくださいよ! 仲間が聞いたら笑うでしょう!?」


 忌憚ない精霊王の言葉にヴィーは半泣きです。でも古いのは確かでした。今は愛も多様な時代で何が真実かは他者に判定されることではありませんから。


「私も解呪条件が真実の愛というのはやめたほうがいいと思います。たとえばですけど身分違いの男女が胸に一生秘めた恋慕とかどう見極めるんですか?」

「うっ……!」

「表現されなかった愛は存在しないのと同じとか言いませんよね? それに私、ささやかに注がれ続けた親の愛も、一日一緒に遊んだきりのお友達との友情も、尊さは真実の愛に匹敵すると思うんです」

「ううっ……!」


 ヴィーはよろよろと石像の裏に倒れ込みました。そんな彼にシルフィードがとどめの一撃を放ちます。


「今時真実の愛なんて生でキスシーンを拝みたいスケベ妖精しか言わないぞ」

「うわーーーーッ!!!!」


 このパンチは強烈だったようでした。ヴィーはノックアウトされ、起き上がる気力もない様子です。彼が弱っている隙に私はすかさず条件修正を図りました。


「真実の愛ではなく、真実の苦しみではいけませんか? リチャルドは十年もゲスの呪いに耐えてきました。腹いせとしては十分でしょう?」


 私はヴィーに訴えます。そもそも呪いはかなり不当なものであったと。


「十歳の子供がしたことなんですよ? 許さないほうが大人げないです。大体この石像に『触るな! 呪うぞ!』と張り紙していたわけでもないんですよね? だったらあなたが怒るのもお門違いじゃないですか?」

「うるせーーーーーーーーーーッ!!!!」


 どうやら集中砲火を浴びせすぎたようです。あ、まずい。思ったときにはもう遅く、ヴィーは憤怒に髪を逆立てて大声で怒鳴り散らしていました。


「呪いは解かねえ! 絶対だ! 俺をコケにしやがって……! 一生ゲスゲス言ってろバーカ!」


 風に乗ってヴィーは天高く逃げ出しました。ああ、本当にまずいです。慌てて私はシルフィードの薄いケープを引っ張りました。


「グワーーーーッ!」

「あ、こら! マゴリーノ! 邪魔するから攻撃が逸れただろう!」

「殺すのはやめてください、殺すのは!」

「半殺しにしかならなかったよ、まったくもう!」


 空からぽとり、トルネードに巻かれた妖精が落ちてきます。私は彼をキャッチして腕の中に保護しました。


「すみません。うちの怖いお兄さんが……。でもこれでリチャルドの呪いを解く気になってくれてたりしませんかね?」

「な……っ、なってねえ……っ!」


 息も絶え絶えにヴィーが首を横に振ります。なんて強情なのでしょう。将来は気骨のある精霊になるに違いありません。


「マゴリーノ、やはりそいつ殺さんか?」

「駄目ですって! 解けないまま呪いが残っちゃうでしょう!」


 心の底ではリチャルドのゲス口調などどうでもいいシルフィードが溜め息とともに肩をすくめます。精霊王に睨まれても呪いを解除してくれないとは一体どうすればいいのでしょう。私はほとほと困り果ててしまいました。


 こうなったら作戦Bを実行するしかありません。できればあまり騙すような真似はしたくなかったのですけれど。


「わかりました。じゃあ呪いは解かなくていいです。その代わり、こういうのはどうでしょう?」


 私は一つまったく別の提案をしました。

 仲間からの評価を気にしているヴィーが面目を保て、愉快な話題を提供でき、こちらの望みも同時に叶える方法です。


「……へえ? 面白そうなこと言うじゃん? 最初からそっちを聞けよな!」


 どうやら彼は乗り気になってくれたようでした。精霊王の不興を買ったままなのも居心地が悪いでしょうし、いい落としどころになったのかなと思います。


「それじゃさっそくお願いしますね」


 私はスカートのポケットからクッキー袋を取り出しました。中身を平らげて空にすると、それをリチャルドとヴィーの前に広げます。

 そして……。




 ***




「父上、母上、マテオ、みんな! 僕の語尾が直りました!」


 本邸に駆け込むなりリチャルドが放ったひと言にお屋敷は騒然となりました。一家だけでなくあちこちから使用人まで集まって「本当だわ!」「普通に話していらっしゃる!」と驚きの声が上がります。


「おお、おお、リチャルド! お前に何が起きたんだね? めでたいことだ! 存分にお祝いしなくては!」


 息子と抱き合って公爵はくるくると回りました。マテオも突然すぎる奇跡に歓喜の涙を浮かべています。


「兄上! 本当に兄上なのですね!? ついに呪いが解けたんですね!?」

「そうだとも! マテオ、お前ももうガスガス言わなくていいでガス!」

「ちょっと! 普通に喋ってください!」


 玄関ホールに朗らかな笑い声が響きます。良かった良かったとみんなが彼を囲みました。


「マゴリーノのおかげです。彼女が例の妖精と交渉してくれたんですよ!」


 リチャルドは二人で森に出かけたこと、私がヴィーに解呪を訴え出たことを明かします。詳細が省かれたのは「私が精霊を連れていることは内緒にしてね」と頼んでおいたからでした。ただでさえ手に余る力なのに当てにされたくありませんので。


「マゴリーノさん、本当ですか!?」

「ありがとう! ありがとう! 君はルビリアン家の恩人だ!」


 マテオと公爵が私の前に跪きます。「たいしたことはしてませんよ!」と私は頭を振りました。私はそう、悪魔に橋を架けさせただけなのです。


 最初に橋を渡った者の魂を貰う──そういう条件で悪魔を雇い、断崖に橋を建設する逸話は物語でもよく見るものです。悪魔はもちろん人間の魂を求めていますが人間が最初に橋を渡らせるのは犬猫などの動物なのです。騙されたとわかっても悪魔にはどうしようもありません。私がヴィーにしたこともこれとほとんど同じでした。


 呪いは解かなくていい。代わりにここに封じてほしい。最初にこの袋を開けた人間が次に呪いを受けるように。

 そう言って私が差し出した菓子袋にヴィーはゲスの呪いを移してくれました。しょうもない呪いですので彼も飽きてはいたのでしょう。呪う対象を変えるという遊び要素を目新しく感じてくれたようでした。


 結局彼はまだ幼く移り気な妖精なのです。十年前の怒りより目の前の興味が勝ってしまうのです。

 私たちはサーカスから猿でも買ってクッキー袋を開けさせるつもりでした。いいえ、それすらも必要ないかもしれません。なんと言ってもルビリアン家には一族の者しか開けぬ魔法の金庫があるのですから。


「おお、ここにゲスの呪いが封じ込められているのか……!」


 公爵は私が渡したガラスの箱を持ち上げて唯一中に収納されたクッキー袋を見つめました。一見なんの変哲もないお菓子の空袋ですが、口を縛ったリボンを解けばたちまち呪いが降りかかります。


「父上、箱は開けないでくださいね」

「もちろんだ。わかっているよ」


 そのときです。ぱたぱたと上階から人の下りてくる気配がしたのは。

 上質なドレスを翻し、現れたのは強張った表情のオルネア夫人でした。誰かが呼んできてくれたのでしょう。使用人らが左右に避けると夫人はリチャルドと相対しました。


「母上! 僕は僕の言葉を取り戻しました! 祝福してくださいますか?」

「あ、も、もちろんです。ああ、本当にまともに喋れるようになったのね……。お、おめでとうリチャルド」

「……! ありがとうございます、母上!」


 どこかぎこちない様子なのは十年間で生まれた距離のせいでしょうか。何はともあれこれでもうリチャルドが跡継ぎの座を追われることはないはずです。


「厳密には呪いは消滅したわけではありません。この袋に封じられているだけです。もし袋が開かれることがあれば呪いは復活してしまうでしょう」


 だから気をつけてくださいねと、遅れてやってきた夫人にリチャルドが再度説明します。先程よりも話は省略気味でしたが危険性は十分伝わる内容でした。


「わかりました。袋を開いてはいけないのですね。この袋を開いては……」


 このとき私は問題のすべてが片付いたと思い、少々油断していたのでしょう。まさかこの後あんなことになるとは考えもしていなかったのです。




 ***




 ──その夜。寝静まったルビリアン公爵家の廊下には足音を忍ばせ歩く影があった。

 彼女は迷いなく屋敷の奥へと進んでいく。「なんなのよ、今更呪いが解けるだなんて」と小さく呪詛を吐きながら。

 彼女は長男を憎んでいた。最初は我が子を哀れに思い、死に至る呪いでなくて良かったと安堵したはずなのに、友人夫婦やその子供らの嘲笑を受けるたびに「この子のせいでわたくしまで恥をかく」と苛立つようになっていた。

 この数年は顔を見るだけで腹立たしく、次男が別邸へ行くたびに叱りつけていたほどだ。彼女は呪われた長男を嫌い、呪われていない次男を愛した。彼女を慕っているか否かは関係なかった。呪われていないことが重要だった。

 ああ、もう少しであの憎いリチャルドを排斥できたはずなのに。

 オルネア夫人はぶつぶつと呟きながら魔法の金庫のもとへと向かう。

 嫌って、嫌って、忌み嫌って、その憎しみはすっかり凝り固まっていた。呪いが解けたからと言って後継者の座を渡すのは我慢ならないと思うほどに。

 オルネア夫人は閉ざされた部屋の鍵を開けた。

 鍵を開けて、目的のガラス箱を見つけ出し、そっとその蓋を開いた。

 すると彼女は真っ黒な霧に包まれた。




 ***




 ゲスーーーーーーッ!


 夜中に響いた絶叫に私たちは飛び起きました。次期当主に相応しいノーゲス言語を獲得して本邸に凱旋したリチャルドも、ついでに客室を移してもらった私も今夜はぐっすり眠れると思ったのに。


(今の声なに!?)


 手早く部屋着に着替えると私は騒ぎの現場へと急ぎました。

 貴重品の保管室らしき部屋の前、絨毯に伏して泣いていたのはオルネア夫人。傍らにはあのガラスの箱が開いた状態で転がっています。夫人をぐるりと囲むように数名の使用人、寝間着姿のルビリアン公爵、リチャルド、マテオも立っていました。


「違うのゲス、わたくしはただマテオに後を継いでほしいと……」


 ええっと私は驚きました。まさかこの人、あの袋を開けてしまったんでしょうか。()()()()()()()()()()()と思い込んで?


「……はあ。オルネアからは私が話を聞いておく。お前たちは食堂ででも休んでいなさい」


 疲れた顔で公爵は夫人を支え起こしました。使用人たちも主人の後に従って屋敷の奥へと消えていきます。


「…………」


 私たちは呆然と食堂まで移動し、呆然と温かいお茶を淹れ、呆然とそれを啜りました。リチャルドにどう声をかければいいか全然わかりませんでした。


 万事上手く行ったとばかり思っていたのに。母親がすべて台無しにしようとするなんて彼はどんなに傷ついたことでしょう。確かにこの十年の間に愛情の増減はあったとは思いますけれど。


「……母上が誤解するような言い方で説明したのはわざとなんだ」


 不意にリチャルドがテーブルの隅でこぼしました。か細く震えた声にどきりと胸がざわめきます。隣のマテオも息を飲み、兄の懺悔に聞き入りました。


「あの人に、もう一度僕を家族として認めるつもりがあるのかを知りたかった。でも……っ」


 やりすぎだったかな、との声が一粒の涙とともにティーカップに落ちていきます。ぽちゃんと跳ねた滴を見て立ち上がったのはマテオでした。


「やりすぎなんてことないよ! あの人が今まで兄上に何をしてきたか覚えてないわけじゃないだろ!? 兄上が別邸に出ていくように仕向けたり、贈り物も気持ち悪いって全部捨てて……! 僕はちょっといい気味だって思ったよ! ねえマゴリーノさん!?」

「えっ」


 突然話を振られたら人は戸惑ってしまいます。私は「うーん、そうですねえ」と思考をまとめて返答しました。


「やりすぎとは思いませんよ。自分の身に同じ災いが降りかからないと他人の気持ちが理解できないタイプの人間はいますしね。寿命が縮むわけでもないし、奥様にとっていい経験になるんじゃないかと思います」

「だ、だけど……」

「だけどじゃない! 兄上は悪くないです!」


 双方から諭されても善良なリチャルドはまだ後ろめたいようです。まあ彼も長いこと呪いに苦しんだわけですから、夫人の今後が想像できすぎてしまうのでしょう。


「大丈夫ですって。妖精って少しずつ善性を得て精霊に成長するんです。十年もすればあのヴィーって子も話せる相手になっているかと思います。そうしたら私がまた呪いを解いてほしいってお願いに行きますから」


 同じ年月呪いを受けるならおあいこですよ。そう微笑むとリチャルドはなぜか顔面を真っ赤に染めて恥じらいました。私何か変なことを言ったでしょうか。マテオに解説を求めるも、彼も無言で大いに色めき立っています。


「マゴリーノ、それはもしかして十年後もルビリアン家にいてくれるってことなのかい……!?」


 あ、そういう意味に取られましたか。なるほどね。確かにこれは求婚をお受けします的な台詞になりますね。


「えーと……」


 どう返したものか迷い、私は視線を泳がせました。最終的には断る予定でいたのですが、リチャルドに婚約者としての減点要素はありません。懸念事項だったオルネア夫人も今後はおそらく大人しくなるでしょう。私が見える人だというのもリチャルドは受け入れてくれましたし、結婚の阻害要因は本当にまったくありませんでした。


「そうですねえ、それじゃあリチャルドさえ良ければ」

「ゲースゲス! すごくいいゲス! 本当に嬉しいでゲス!」

「兄上! 癖になってる! 直して直して!」


 リチャルドは今までにない晴れやかな笑顔を見せてくれました。苦言しつつもマテオも満面の笑みです。




 こうして私とリチャルドはめでたく夫婦になりました。

 今も時々二人でいると彼のゲス口調が顔を出すことがあります。

 そんなとき私は出会った当初の彼を思い出し、懐かしい気持ちになるのゲス。




           公爵家の呪われしワケあり息子と婚約しました(完)



何件か「オルネア夫人が次男に肩入れするのはどうしてですか?」という質問コメントがあったので500字ほど加筆しました。(8/31)


たくさんの応援、感想、ありがとうございます!

楽しく笑ってもらえているようで嬉しいです!

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― 新着の感想 ―
[気になる点] ウラキーモン…
[良い点] 短編でも起伏に富んでいてとても面白かったです。 マゴリーノのキャラがいいですね!化粧しないことをグチグチ言い訳したり、逆に清楚だと美化するような小説には微妙な気分になってしまいますがマゴリ…
[一言] 笑いました。 ゲースゲスって笑うんですね。インパクトがしゅごい。 忌憚ない精霊王も良い!容赦なくえぐっていく少女と守護霊コンビに受けました。 けなげな弟ちゃんに語尾はゴンスも良いよと言ってあ…
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