弐01・地天の涙
桃幻郷。
ケモノ「怪物(monster)」と呼ばれる人に害を与える動物たちが棲まう険しい山に囲まれ、太くて長い川が流れる渓谷のそばに、その身を隠すが如く住居を構えた里。
国の電波は通っておらず、旅人たちのモバイルは使えないほどの田舎。水道電気は自給自足。もちろん食べ物も畑と山と川で何とかする。何とかならないものは、定期的にやってくる運び屋から受け取るのがこの里のやり方。
加えて、どうやらその周辺は特殊な電磁波を放っているらしく、人工衛星からもその姿をきちんと観測されたことがない超が付く辺境の「幻の里」である。
そんな里の朝は早い。
畑で野菜の収穫に、草刈り。家畜の世話。里を囲う仙木の状態を確認。
朝日が里の土地に差し込むのと同じくらいの時間には、みんな揃って動き出す。
昨夜、いや。今朝に仕事が入ったため予定ではゆっくり寝るつもりだったイオルだが、一人暮らしの狭い部屋で、いつもと同じ時間に目を覚ました。
いつもと同じ、何も変わらない平凡な朝。
――が、何か少しだけ違うことに気が付く。
「……?」
イオルは起き上がりながら、自分の頬を伝うものを右手で拭う。
(涙?)
自分の瞳から流れる涙だった。
欠伸をして流すようなそれじゃない。
全く覚えてはいないが、何かおかしな夢でも見たのだろう。嫌な汗をかいて、服がじっとりしている。
ツー、と溢れ出す涙に自分で困惑しつつ、彼は適当にそれを拭いて寝台から足を下ろした。
そして――
『起きたか』
「――!?」
目の前に座っていた狼犬の姿に、彼の鼓動が跳ねる。
突然のことにイオルは寝台のすぐそばに置いてある刀に手を伸ばしたが、それが昨日体験した念話だと思い至り我に返った。
『勝手に邪魔して悪いな』
白い毛並みに青い瞳の狼犬。
低い男の声が自分の頭に響く。
「……ハク、か?」
イオルは戸惑いながら口を開く。
『そう呼ばれてると言った。昨日会っただろ』
こちらの説明はいらないだろうと、遠回りに言われたがイオルは瞬きを繰り返す。
「いや、だってお前……。――なんか、小さくない?」
夢でも見ているのか、寝ぼけているのか。
寝台の前にいたのは、バケツほどの大きさしかない小型犬サイズのハクだった。
『窓から入るのに体を縮めただけだ。そんなことよりも、だ。お前、身体はなんともねぇのか?』
「身体? 別に、いつもと変わらないけど……」
聞きたいことは色々あったが、有無を言わさぬような圧に、イオルは頭に疑問符を浮かべたまま応える。
電気をつけていないのにカーテンが開いて部屋が眩しいのは、どうやらこの狼犬の仕業らしかった。
『とりあえず、鏡を見てこい。話はそれからだ』
「……??」
起きて早々、分からないことばかりで困るが、ハクは敵ではないはずだ。
どうやってこの家にたどり着いたのか。どうしてここに来たのか。聞きたいことは喉の奥に押し込め、洗面所に立つ。
「――――は?」
そして彼は愕然とした。
「なんだ、これ……」
嫌いだった真っ白なだったはずの髪が、根本から真っ黒に染まっている。
『影を見てみろ』
ついて来た足元の小犬に導かれ、イオルは呆然と日除けを開け放たれた窓から朝日が差し込んだ部屋で床に出来た影を見た。
「――――黒、い」
見たものが信じられなかった。
あまりの驚きにたじろぎ、一歩足を引く。
「一体何が……」
これは夢か現か。
一生付き纏う筈だった白い影が、何故か黒に染まり、それに呼応するかのごとく髪の色が黒くなっている。
まだ夢から醒めていないのかもしれない。
他の生き物たちと同じ、黒い影が自分にあるなんて。あまりにも自分に都合が良すぎる。
イオルは水道の蛇口を捻り、顔を洗いながら髪まで一気に水で洗い流す。
そうして再び鏡を見た。
「夢じゃ……ない?」
しかし、そこに映るのは先程と変わらない黒髪の自分。
乾いた喉から、ぽつりぽつりと言葉が溢れた。
どうしてこの狼犬がここに来たのか。
ここまで来れば、流石にもう分かる。
「――何か知ってるのか? ハク」
イオルは芯から黒く染まった髪からぽたぽたと水滴を落としながら、小犬に視線を注いだ。
ハクは無言のまま、自分の影を拡大させる。
すると影の身体と共に、ハク自身の身体も大きくなり、昨日見た大きさの狼犬の姿に変わった。
彼はブルリと身体を震わせると、呆れたような顔つきになって口を開ける。
『馬鹿ウサギが馬鹿やらかしたってだけの、しょうもない話だ』
ハクはそんな風に言ってのけるが、正直全く状況は理解できなかった。
◆
落ち着いて話をするために、イオルはとりあえずシャワーで嫌な汗を流して服を着替えた。
しっかり洗っても全く色落ちする様子がない髪を乾かして、ハクが待つ部屋に戻る。
夢ではないと分かっていても、まだ気持ちが浮ついていた。
――どうして。何故。一体何が。
イオルの心中では複雑に感情が混ざり合う。
何かの間違いかもしれない。
自分に何が起こったのか分かるまで、手放しに喜ぶことはできない。期待して裏切られるのは最悪だ。
『そういえば、お前をその身体にした原因のアホは、家の前で待機させてるぞ』
「え」
そこで思ってもみないことを言われて、イオルは慌てて玄関へ。
扉を開けてみれば、すぐ横に膝を抱えて小さく座っている茶髪の少女がひとり。昨日の朗らかな様子とは打って変わって、重い空気を纏っている――気がする。
「シウ……?」
膝に顔を埋めていて、表情が分からない。
声をかけると、ゆっくり彼女が顔を上げた。
「おはよう、イオル。いい朝だねぇ」
シウは困ったように眉を垂らして、のんびりと挨拶を返す。
イオルは戸惑ったまま、口を開いた。
「……いつからここに」
『だいたい四時間くらい前か?』
「そんなに前から?」
部屋の時計を確認して答えるハクに瞠目する。
『まあ、オレも月の子が【霊薬】を飲んでどうなるかまでは知らなかったからな。もしお前に何かあったら人手がいるだろ』
イオルは一瞬動きを止めた。
――今、何かすごく大切なことを言われなかったか?
「霊薬……?」
御伽草子に出てくる架空の薬が、どうして今。
理解は全く追いつかない。彼の話を理解するには、自分の知識が足りなすぎるようだった。
『そいつが初めてお前に会った時に飲ませた水薬が、カモフラージュしておいた偽物じゃなくて本物の霊薬だったってことだ』
あまりにも時差のある話だったので、言われてからやっとイオルは自分の飲んだ水薬のことを思い出す。
「ま、待ってくれ。本物の霊薬って――」
すぐにでも答えを知りたかったが、外から人の声がして閉口する。他の誰かにこの姿を見られるのは面倒なことになる。
「……とりあえず入れよ。話を聞きたい」
座ったままのシウに手を差し出した。
「ありがとう」
握り返された手は自分のものより小さく細かったが、皮膚は厚く硬く、マメもできていて。働き者の手だった。
「おじゃましま〜す」
「俺以外住んでないから、あまり気は使わなくていい」
「へぇ〜。そうなんだ」
イオルはシウが家の中に入ったのを見てから、ドアの鍵を閉める。開けておくと勝手に誰か入ってくる可能性があるからだ。
彼女を椅子に座らせると、適当に貰い物のパンに、貰い物のジャムにこれまた貰い物の果物やら何やらと机に並べ、冷たい茶を出す。
この里の住人は結構頻繁に家に上がってくるので、コップも椅子も余分に置いてある。
イオルは自分もそれに腰掛けた。
あくまで、冷静に、慎重に見極めなければ。
ふうと息をひとつ吐き、彼は昨日会った時と変わらないテンションのシウを見る。
「それで。俺の身体に何が起こったのか、説明してもらっていいか?」
自分の身に起こったことだが、自分が一番何も理解していない。
身体の変化は体毛が白から黒に変わって、【太陽に背かれた子】特有の白い影も黒くなった。
これは一時的なものなのか。見せかけのものか。はたまた自分だけが見える幻覚か。
「イオルは霊薬のこと、どこまで知ってる?」
シウはコップに口をつけて喉を潤してから、口火を切った。
「御伽草子でしか聞いたことがない」
霊薬なんて空想の産物だろう。
昔話を信じるほど、夢を見てはいない。
シウを馬鹿にするつもりは全くないが、イオルは素直に思ったままを答える。そんなものは彼にとって物語の中だけの存在だった。
「そっか〜。多分、里の人は変に期待させたくなくて黙ってたんだろうね」
「…………」
空いた手で、シウは隣に腰を下ろしたハクの頭を撫でる。
「霊薬は実在するんだよ。わたしがイオルに飲ませたのが、黄金のカエンサソリを使って作った霊薬――通称【地天の涙】。どうやら、欠乏していた肉体的な能力を癒し、君は今、月の子から只人になったってことみたい」
イオルの瞳は、大きく見開かれた。
告げられた事実が自分にとって大きすぎて、言葉がすぐに出てこない。
シウが口を閉じると、部屋はシンと静まり少しの沈黙が流れる。
「……じゃあ、俺の身体は霊薬で只人と同じになったってことか――?」
「うん」
――つまり、だ。
「今の俺なら……光影術も学べる?」
恐る恐る口にするのは、自分が使えるわけもないと触れるのを避けていた術。
「そのはずだよ」
あまりにも突然与えられた機会にイオルが答えを疑う中、シウの応えは早かった。
イオルの呟きにハクの影が揺れ動き、彼の影に伸びる。
『ちゃんと、こっちから影の体に干渉できる。生まれ変わったみてーだな。訓練すればすぐに影が使えるようになるだろ』
「――――ッ、」
息を、呑んだ。
胸の底から、それまでどこにもぶつけることができずに澱んでいた何かが込み上げて来る。
どれだけ努力したって。
どんなに望んだって、彼は弱かった。
ずっと。喉から手が出るほど必要としていたものが、切望した手に入らなかった力が、今、自分の身に宿っている。
太陽には背かれ、影にも恵まれず、実の親には捨てられ……。
人にはあって、自分だけ常に欠けていた。
生まれてから今日というこの日まで、ずっと。
誰も、その欠けたものを埋めてくれるカミも人もいなかったというのに。
チャンスは、どこにでも転がっていそうな出会いと共に転がり込んで来た。
「――ちなみに」
「……?」
イオルが名状し難い感情に言葉を詰まらせているところ、彼女は特に遠慮する訳でもなく明るい表情のまま言葉を続ける。
「幻の水薬【地天の涙】のお値段は、なんと八億圓!」
ぱちっと。
緑の片目を閉じて、シウは軽快にウインクを飛ばした。
子どもの表現でしか出てこないような莫大な額が聞こえて、イオルの思考回路はそこで一度停止する。
「一等地マイホームが一気に遠のいて、笑っちゃうぜ!!」
『「笑っちゃうぜ!!」じゃねぇよ。なに呑気に笑ってやがる。あの薬を作るのに一体、何度死にかけたと……』
からから笑っているシウに、ハクが溜息混じりに辛辣な単語をぶつける。
あまりにも明るく笑っているものだから、冗談でも言われてるのかと思ったが、狼犬の反応は冷静で正反対。
「――って、ことで。お代は出世払いで頼んだ!」
よろしくッ、と。
突然現れて、偶然人生を変えた少女は、顔の前で手を合わせて困ったように笑った。