壱07・霊薬
◇◇◇
「ふおおぉお〜!」
桃幻郷に三つしかない宿のうちのひとつ。
少しだけ格式の高い旅館「東雲」の一室で、シウは懐石料理に目を輝かせていた。
至れり尽くせり、ホスピタリティの限りを尽くした接待。そして何よりここでしか味わえない美味しい料理。
「ど、どうしよ。何から食べよう!」
温泉に入ってさっぱりした浴衣姿のシウ。
机に並べられた料理たちに興奮が収まらないといった様子で、傍で横たわるハクを見た。
『……迷ってる暇あったら、冷める前に食え』
「それは、そう!」
大きく頭を縦にぐわんぐわん振って同意すると、彼女は手を合わせて食事を始める。
ハクの助言に従って、揚げたての天麩羅からにしようと箸を伸ばす。
山菜の天麩羅をタレに浸し、それをひと口。
「う〜まぁ〜」
幸せいっぱい。彼女は破顔する。
気を遣ってくれたイオルには申し訳ないが、今夜は豪華な夕餉にしてもらったので、どうしても今日だけは時間に遅れずに宿に戻りたかったのだ。
シウの嬉しい悲鳴を聞きながら、ハクはまた始まったなと思う。
彼女は行く先々で、食に限らず装飾品や風景、人柄に至るまで自分が感動したものには、嬉しい感情を全面に押し出す。
普段が大人しくてのんびりしているため、嬉々としているときの彼女はまるで別人のように生き生きしている。
一見常識人ぽいだけで、その実シウは変わり者の部類に入るだろう。確実に。
本人には、全くその自覚がないらしいが。
『それで? 助けてよかったか?』
「ん〜?」
シウはちらりと緑の瞳だけ動かした。
『月の子』
「それはもちろん。すごくいい声が拾えたから慌てて駆けつけたけど、別品さんだったねぇ」
琴線に触れるところがある人やものに、シウは「別品」という言葉を使う。
十数年と一緒にいれば、彼女の好みもだいぶん分かってくる。
余計な寄り道ばかりして紹介された道場の場所が分からなくなっていると、突然「すごく、いい声がする」と言って走り出した時には、もう驚きはしなかった。
耳が良すぎるシウにとって、声がいいというのはかなりポイントが高いのである。普段はここまで大きな反応を示さないので、それだけ好みの声だったのだろう。
シウは耳が良いが、全ての音を拾っているわけではない。本能的に注視するべきものに反応する。
イオルの声が、彼女の中では何か特別なものなのは違いない。
「話せてよかったし、浅田さんにも良くしてもらえたからいい出会いだったよ」
シウは上機嫌だ。
突拍子もなくおかしなことを始めたかと思えば、いつの間にか楽しんでいる。
彼女はそんな運のある人間だ。
一緒にいてここまで飽きないとは、驚きを越してもはや尊敬すら覚える。今までで一番退屈しない人間観察だ。
ただ、まあ。その分やっぱり変わっていて、呆れることも多いのだが。
「彼、能力高いよ。師匠から見るとどう?」
宿に帰って来ると、シウはすぐに風呂に入りに行った。その間に、自分たちを尾けていた男たちに牽制しにいこうとハクは動いたのだが、その役はイオルが代わりに果たしていたわけだ。
距離はかなり近かったので、シウはその様子を視ていたのだろう。
『月の子にしておくのは勿体ないな』
「おお。珍しく高評価」
いつも辛口で辛辣なハクの評価を聞いて、彼女は楽しそうに、口に料理を運ぶ。
イオルの才能は本物。間違いない。
ふたりの考えは一致する。
『……お前もそう思ったから、さっき言い淀んだんだろ』
これは言うか迷ったが、シウが何を言おうとしていたか思い当たる節があるハクは、それを伝達した。
シウは「お見通しですか」と苦笑する。
『霊薬をやれば治るからな、あれは。逆に言えば霊薬でしか治らないが』
どんな状態異常も治し、個体が持つ最高のコンディションを引き出す奇跡の水薬。――【霊薬】
そう呼ぶことが許された効能を持つ薬の製法はいくつかある。
そのうちのひとつに、一万匹に一匹しかいないと言われている黄金のカエンサソリからとれる毒を混ぜた、ヤシマで一番高い山に流れる綺麗な水で育てる青い椿のオイルを使う……というものがある。
使った最初は優れた回復薬とそう変わらず、その真価は数時間後に発揮されるので他の霊薬より少し価値は下がるが、それでも霊薬と名乗ってよい奇跡の代物。多少の副反応もでるらしいが、一度服めば、自己修復力が跳ね上がると云われている。
そしてそれが今、シウが所持している霊薬だ。
御守体の護りが最高ランクの土地を十坪なら買えると言われている価値があるそれを、彼女は数年前に自らの手で作りあげていた。
そんな訳なので、シウはついどこの土地でもすぐに買えると思っていたのだが、そうとも行かないのを忘れていたのである。
「申し訳ないけど、さすがにイオルがそれだけのお金を持ってるとは思えないから。命がけで作ったものを安く売れるほど、器は大きくないよ」
温和な彼女だが、断じて聖人君子などではない。言葉通り、命を懸けて作った微量の薬を初対面相手に譲るほど、シウもお人好しではなかった。
命を狙われてもおかしくはない大金の価値を持つものを持ちながら、正気を保って旅している時点で、それなりの精神力である。
『で。どうするんだ?』
「……どうしよっか」
ハクに訊かれて、彼女は難しそうに顔を歪める。座椅子に背中を預けた。
『信用がなければ、あの薬に価値はない』
「うん……」
光に触れると効能が消えてしまう霊薬。
手元にあるのは、専用の瓶にいれた一本だけ。
どうすれば、これが本物だと信じてもらえるか。そこが問題だった。
旅をしていれば、普通に歩いていても舐められるシウだ。まず、本物だと信じて貰えない。信じて貰えたとしても、下手に情報を漏らせばカモにされるし、取引相手にも物だけ奪われそうになる。
「すっかり記憶から抹消してたなぁ」
昔、それで一度痛い目を見たことを思い出して、彼女の声色が暗くなった。
金を持っている相手と、まともにやり取りができた試しがなかった。
『ここに着いてから気が弛みすぎだ』
「……そうだね。色々あって疲れてたのかも。気をつけるよ。――どうやらここも、夢の理想郷ってわけじゃないみたいだから……」
シウは溜息混じりに姿勢を正し、箸を手に取る。
『薬を売るか、働いて返すか。借金背負ってここに縛られるんだったら、お前ともここまでだな』
何の躊躇いもなく、さらりと頭に響く男の声。
「――手厳しい」
彼女は噛みしめるように苦笑した。
「明後日イオルと一緒に下見をして、色々教えてもらうよ。時間はまだあるし、この里の雰囲気を見ながら次のことは考える」
ハクに向けてではなく、自分に言い聞かせるようにシウは予定を口する。
くつくつと湯が沸いた鍋が載る焜炉の赤い火から視線を逸らし、彼女はハクを見据えた。
「それにさ……。実を言うと、ハクと一緒にこのまま旅してるのも悪くないなって思えて来たところなんだ」
影力の影響で綺麗な緑に染まったその瞳が、細くたなびく。
久しぶりにあだ名で呼ばれた、決まった名もなき狼犬は、なんだかくすぐったくて前足に顔を擦った。
『…………好きにしろ。オレも勝手にやってるだけだ』
「うん。わかってるよ」
そっけない返答にシウは頷くと、気を取り直して料理に向き合う。
「ん!? これ、おいし!!」
見たことのない前菜を食み、すぐに機嫌を取り戻す彼女。
数ヶ月ぶりにきちんともてなしてもらえる旅館に泊まったので、はしゃぐ気持ちも分からなくはない。ここなら少しゆっくり休めるだろう。
狼犬はゆるりと尻尾を振って、それを床に寝せた。
「ごちそうさまでした」
しばらくすると、ひとりで食事を綺麗に平らげたシウが手を合わせる。
「デザートの桃、すごく美味しかった。ちょっと食べすぎちゃったかも」
満腹になって腹が苦しいのだろう。
ふうと息をついて姿勢を崩す。
やることもなく彼女を観察していたハクは、喉を鳴らすわけではないが人が話し出すかのように口を薄く開いた。
『……ところでお前。特に確認してなかったが、薬の保管はちゃんとできているんだろうな?』
ハクはいつも通り、低い男の声で呟く。
シウは床についた手に視線を移した。
「おん。ちゃんと、ここにカモフラージュして入れて――」
指の先が影に埋もれていき、床にできた黒い穴に手が消える。
確かここらへんだったよな、と。
彼女は少し考えて影の中の情報を漁っていたが、ある一瞬、ぴたりと手を止める。
「え――?」
顔からはたちまち血の気が引き、サアッと青ざめていくのが目に見えて分かった。
「……ま」
『ま?』
どう考えても雲行きが悪い展開に、ハクも伏せていた顔を上げてシウを見つめる。
「間違えたかもーーーーッ!?!?!?!」
部屋に響き渡るのは、絶叫に近い彼女の声。
狼犬は思いっきり顔を歪めた。
◇◇◇