壱06・逆光
――可哀想だから、優しくしないと。
それは昔から、イオルがよく言われる類の言葉だ。
影法師しかいないこの里で、影を使えないサガを持った彼は珍しい。運が良いことに、絶対的な弱者を人として扱わぬほど里の大人たちは厳しくなかったが、あまりにも優しすぎた。
イオルは体が弱いんだから無理をさせるな。
お前はやらなくて大丈夫だ。
無理はしなくていいから家にいろ。
自分のためを思って言ってくれているのは分かるが、その何とも言えない甘ったるい気遣いが、どうにも気持ち悪かった。
こんなおこがましい感情は誰にも吐いたことはない。否。吐けるわけがなかった。
そんなことを言って里から反感でも買えば、自分の居場所は一瞬でなくなる。どこかに消え去ることができればまだマシだが、里の外に出られない以上、それは死すら意味した。
片親だった母親がイオルをこの里に残して消えた時点で、ここで「良い子」でいなければ誰にも守ってもらえずに捨てられることは、割と小さな時から悟っていた。
母親ですらその扱いなのだ。大人たちは優しかったとは言ったが、中には太陽に背かれた子だからと陰湿な仕打ちを受けたことは勿論ある。影を使えることが当たり前の世界で、それを使えないものは忌み嫌われる風習は根強い。
そして子どもは、自分と違うものには敏感だ。
叱ってくる大人の目がなければ、覚えたばかりの制御が中途半端な影法で痛めつけられた。悪気のない刃も飛んでくるからタチが悪い。まともに話ができても、自分だけ惨めな思いをする。話が合わないのだ。単純に。見えているものが違うから。
今でも歳の近い若者には、たまに帰省してくると寄生虫と呼ばれる始末。
全て事実でしかなく、受け入れるしかない。
そんな人生を送って来た中、唯一居心地が良いかもしれないと感じた場所が、ハンゾウが許してくれたあの道場だった。
基礎を鍛えるために、自分と同じ修業をする者たちと切磋琢磨するあの時間が、イオルは好きだった。純粋に楽しいと思えた。
あの瞬間だけは、誰も自分を可哀想だなんて思わずに、敵として真剣に勝負してくれる。
負けたら悔しい。勝ったら嬉しい。
どんな護りをすればよかったか。次はどんな風に攻めようか。そのためには何が必要か、と。自分の能力を研鑽するのが楽しかった。
しかし、そんな彼を置いて、他の弟子たちは外へと巣立ってしまう。
イオルだって分かっていた。
自分が決まった条件がなければ、優位になることがないことくらい。
その条件を満たすことができないから、自分はずっとこの里にいるしかない。ここで生きていくには、見捨てられないように頑張らないと、同情すらしてもらえなくなる。
努力することこそ、自分に出来ることであり、また求められていることだとイオルは理解していた。
だから、彼は頑張ることを頑張った。
何にせよ、この小さな里でできることもやることも限られている。
里に残っているのは、老熟した玄人たちが多くなった。呼ばれれば断る事なく仕事を手伝い、長い昔話を聞きながら気になったことは教えを乞う。
勉強は、いつの間にか教えてもらうのではなく、まだ小さな子どもたちに教える側になっていたが、新たな気付きもあった。
空いた時間に剣を振り、体を鍛え。
――里の者が手を下すまでもない奴の相手は、積極的に引き受けた。
「……今日はひとりか」
イオルは自分のモバイルに送られてきた資料を確認する。
今日の仕事は、久々の荒業。
国のお尋ね者が里の敷地に紛れ込んでいるらしいので、急いで掃除することになった。
潜伏先は、里の北東にある神社だと目星が付いている。夜に明かりはなく、渓谷の斜面にあるその場所は星が綺麗に見えるいい場所だ。
イオルはいつも通り露出の少ない服装に、更に暗視ゴーグルをつける。
準備を整えると、神社へと続く階段は通らずに、彼は桃の香りがほんのり漂う山をひっそり登った。
(いた……)
神社の裏に男が背を預けて座っている。
眼を細めよくよく見れば、相手の服はボロボロ。体のあちこちに包帯を巻いているのが分かった。
イオルは音を立てないように、細心の注意を払いながら死角から距離を詰める。
影法師を相手に、無能が勝てる条件。
一、相手の影が他の影に重なって形を成していないこと。
一、接触面から出来る影を使わせないこと。
一、太陽の光からできる影には能力が劣るとはいえ、灯りを点けさせないこと。
これができれば、相手は同じ土俵の人間。
最後に付け加えるとすれば、こちらが無能だと悟られる前にケリをつけること。くらいだろう。
イオルは影を操る能力がないことを、「特別」だと思ったことは一度もない。
都では、影法師を志す人のほうが断然少なくて、少しでも使える影法師になればいい給与をもらえるのだと、近所のおばさんに話を聞かされた。
だから、彼は影が使えないこと自体を恨んだことはない。
ただ、まあひとつ言うとすれば、自分がこの辺鄙な里で生まれずに、どこかの藩の都に生まれていれば、きっともっと人生は違ったのだろう。
もう、どうすることもできない話だが。
イオルは暗視ゴーグルを外し、暗闇に目を慣らす。
相手は弱っている。条件もこれ以上ないベスト。この相手を仕留めることができなければ、ただ自分が弱いだけである。
背中の得物に手をかけると、彼はそれを引き抜きながら一気に駆け出した。
ギンッと直刀が唸る。
死角からの一撃は、相手の腕にぶつかって阻まれた。
(へぇ。咄嗟の防御に、影を使ってくるのか!)
こいつは、強い。
影の鎧は自分の服と体の間にできる影でできる。光影術を使えない身からすれば、そんな言葉遊びのような影の定義に疑問しかないが、出来るものは出来るのだから認めるしかない。
影の体は光の体と同様に、意識して動かすもので、無意識に影の鎧を作ることはできないそうだ。体勢を維持するのと同じ感覚で、鎧を維持するため、長期間それが保てるのはかなり出来るやつに分類されると聞く。
ただまあ、だからといって、焦る必要はない。
これは鉄の鎧を着て、盾を持っている奴を相手するのと、大して状況は変わらない。
狙うは急所、一点。無駄な振りはいらない。
イオルは瞬きひとつせずに、情報を拾った。
(腹と、足、それから左腕か)
怪我をしているのだろう場所を確認すると、躊躇なくそこを狙う。
「こんな場所にまで知れ渡るなんて、俺も有名になったなァ!」
男は襲われているにも関わらず、楽しそうに喉を震わせた。その顔は嬉しそうに歪んでいる。
(狂気、だな)
こんな状況で笑っているのを、狂気と言わずになんと表現すればよいのか。イオルは知らない。
「ここで暴れたら、もっと有名になれるよなァ! お前もそう思わないかぁあ?」
よく分からないが、今の発言で危ない奴だということは分かった。
人を殺してきたお尋ね者に、里で暴れられては困る。
何よりこれは仕事。失敗すると次の仕事が貰えなくなる。これ以上、出来ることを減らされるのは御免だ。
「思わない」
ぴしゃりと、否定するとイオルは男の攻撃を避けながら袖に隠していたペンライトを取り出して、男の首元目掛けてそれを点ける。
暗闇の状況で自分の足元にできる影を実体化できないようにすると、影法師は服の影などの「自分と何か」の間にできる影を使って戦う。
しかし、体に直接光が当たったところに影はできない。暗闇で光が当てられると、影の鎧は一度解除されることになる。
男の首は明るく照らされ、邪魔な影は消え去った。
この一瞬を逃せば自分の負けだ。駄目ならここで殺される。
イオルは作ったチャンス逃すことなく、片手で握った直刀を喉元目掛けて突き、トドメを刺した。
最後にきちんと脈と瞳孔を見て、死亡を確認する。
(今回も、何とかなったな)
仕事は終わりだ。彼はふうと一息つく。
無能が能力者相手に戦うのだ。最初から不利な状況だと分かっていながら戦うからには、それなりの覚悟もいる。
イオルは背中の鞘に刀を納める。
「もしもし――」
彼は仕事が終わったと、仲間に連絡を入れた。
少しすれば、待機していた仲間が手にランプを持って現れる。
「お疲れ様です」
イオルは軽く会釈した。
「……流石だな」
現れた男三人は、さほど荒れた形跡のない現場を見て眉を寄せる。一方的にイオルが終わらせたのは、彼の余裕から簡単に察することができた。
「後はこちらでやっておく。ご苦労だったな」
「……。ありがとうございます」
イオルは礼を言うと立ち上がり、ペンライト片手に階段を下っていく。
残された男たちは、たった数十分の間にこれをあの力を持たない少年がやったのだと突きつけられて、舌を巻いた。
「斐甲藩の唐島ホロイで間違いないよな……?」
「そうさ。十人以上辻斬りしたってんで、懸賞金は三〇〇〇万圓くらいだったはずだ」
「それを相手にこれか。……本当に、勿体ないもんだ」
男たちの視線は、イオルが消えていった階段に向けられる。
「……【霊薬】が、手に入ればな」
「俺たちも二十くらい若けりゃ、探しに行けたが。年が年だ。それにあれは探せば手に入るってもんでもない」
この里から出るのでいい運動になっちまうからな、と。男たちは顔を見合わせ息を吐いた。
訛りのある言葉をしゃべる男は視線を戻して腰を下ろすと、ランプを地面に置く。
「イオルに追い払われた奴で、生きて都さ着けた奴があいつのことなんて言ってっか知ってるけ?」
聞いたことのない話に、男ふたりが首を振った。
そもそも、イオルが相手をしなくてはならないような奴が、生還できること自体がレアケースだろう。彼のことで噂が立つようなことはないと思っていた。
「知らないな。何か言われてるのか?」
「オレも都に下りて最初その話聞いた時は、何のことだかわからなかった。噂には尾鰭がつくもんだべ? でも、やっぱりあれはイオルのことだと思うんだ」
彼が言うには、やはり憶測の話ではあるらしい。しかし、それでも納得できるような呼び方をされているのだろう。
「で? なんて言われてるんだ?」
単刀直入にひとりが尋ねた。
ただでさえ苦難が多いイオルだ。余計な噂であれば、今度都に下りた時にでも消そうと考えているのは、噂を知らない男ふたりで一致していた。
しゃがみ込んだ男は、胸元から夏は常備している扇子を取り出しながら、ゆっくりと口を開く。
「――『逆光』。あいつにぴったりだと思わねぇけ?」
彼はランプの前に閉じたままの扇子を立てて、出来た影を見つめる。
地面に写る影ではなく、光を受けた扇子の反対側に出来た黒を。
「……『逆光』か。いいな。それは確かにあいつに相応しい名かもしれん」
「こればっかりは、噂を流した奴を褒めてやらなくもないな」
逆光。光に逆らう。
影法師を相手に戦えるほどの、自分自身の鍛えた肉体こそ、彼にとっての影。
悪くない呼び名だ。
ただ、外で噂になるだけの力をつけたイオルが、里から出られないことを思うと本当に悔やまれる。
「いつか、あいつが外に出られる日が来ればいいんだがな」
男のひとりが深く溜息を吐いた。
「霊薬は実力云々よりも、運だからな……」
強者が安息を求めて留まる地。桃幻郷。
必要であれば自分たちで必要なものを確保するだけの能力は十分持ち合わせているが、【霊薬】については話が別だった。
イオルが里の外に憧れて、体を鍛え初めてから、ずっと薬に関する情報には神経を尖らせていたが、未だに入手できていない。
「そういえば、今日、イオルが若い娘さんとふたりで歩いてるところを見たって聞いたぞ」
「ああ。それなら、俺のところにも浅田師範からメッセージが来たよ。こうなったらイオルにはいい嫁さん見つけて、ここで幸せに暮らしてもらうしかないからな……」
男はそう語りながらモバイルで履歴を探す。
「ん。これか。『イオルが嫁候補、連れてきたぞ』って」
「……なんだか楽しそうだな、師範殿」
メッセージの内容を聞いて苦笑い。
「新しいことが少ない里だ。情報なんてすぐみんなに渡っちまうよ」
モバイルの電源を切ると、その男も肩をすくめた。
里の情報網は侮れない。
明日にでも、一緒にいた娘とやらについて、イオルと関わりのある大人たちはみんな知っていることだろう――。
言葉は異世界のものです。