壱04・鬼が出ない里
「すまない」
「お構いなく」
モバイルの持ち主は、ハンゾウだった。
といっても、自分に連絡してくる人はいないし、シウのモバイルはここでは使えないので、誰のものかはすぐに分かる。
シウは快く、席を外すハンゾウを見送った。
(……今日も仕事か)
ふたりきりになった室内。
いつものことなのでイオルは何故自分がここに呼ばれたかを察していたが、ハンゾウに連絡が来たことで確信する。
静かに食事を再開するが、イオルの瞳にはどこか呆れた色が浮かんだ。
「ここは、そんなにいいところじゃない。十七年住んでる俺が保証する」
改めて、彼は彼女に言った。
別に嫌がらせではない。
珍しく自分を貶すことなく助けてくれた人だからこそ、イオルは包み隠さず本当のことを言っている。
「この里は鬼が出ないんじゃない。出さないんだ」
勘の良い影法師なら、これで分かる。
彼の意味深な発言を聞いてか、シウが目を細めた。
「……まだこの里に来て二日だから。もう少しゆっくり見てみるよ」
まだ見極めるには時間が足りない。
彼女はそう眉をひそめて苦笑した。
「とりあえず、夜は外に出るなよ」
「うん。忠告ありがとう」
イオルは里に住むことを反対するような話はやめる。最終的に決めるのは彼女だ。言う通り、色々見てみればいいと思う。
「あと、さっき俺と会った道は治安悪いから、もう通らないほうがいい」
「えっ。そうなの?」
シウは意外そうに目を丸めた。
治安が悪いだなんて、桃幻郷という名もかたなしだ。
「あそこは厄介な客が来た時に案内する宿へ行くまでの道」
「へぇ〜。そんな裏話があるんだ」
そっちに案内されなくてよかった、と。
シウはほっと息を吐く。
「……そうだ! もし良かったらなんだけど、里を案内してもらえないかな。少なくとも一週間はお世話になるって、宿の人にも言ってて」
ハンゾウを紹介された彼女になら、色々と案内しても問題はないはず。
イオルも代わり映えのない日々を送っているので、たまには客人を相手するのもいいと思える。
「それはいいけど。俺と一緒にいると余計な面倒かけるかもしれない」
ただ、こちらは何かと面倒なサガを持っているので、シウに迷惑をかける可能性がゼロとは言えなかった。
今日の輩にまた絡まれるかもしれない。なんなら、よくあることだ。
「あ、そっか」
イオルに指摘されて、シウも彼との出会い方を思い出したようだった。
(俺が【月の子】だってこと、あまり意識してなかったんだろうな)
初対面でするであろう自分自身の話題をすっとばしていたので、そうだろうなとは思っていた。
シウは時として忌み子と罵られることすらあるこちらのサガに、少しも嫌悪を抱いていない。全く。
「傘役はちゃんとやるから任せて。ちゃんと涼しくするよ。それと、もし何かあったら師匠が追い払ってくれるから問題なし」
彼女はグッとサムズアップを決めて、ほころんだ。
悪戯っぽいその笑みは、とても楽しそうである。
「いつが空いてそう? ちなみに、わたしと師匠はいつでも平気」
のんびりと、温和な彼女が小首を傾げた。
どうやらイオルの心配は無用みたいだ。
「明日、は……予定があるから、明後日でいいか?」
「うん。時間は午前中のほうがいいよね」
シウは白いモバイルを取り出して、スケジュールを埋めた。
「これでよしと。明日は自分で散歩してみようかな」
彼は彼女を横目に、茶碗を持って炊き込みご飯をかき込んだ。
自分のアイデンティティにもなっていた特徴を軽くスルーしてくるシウは、本当に珍しい。
色んな藩を旅して来たという彼女にとっては、こんなサガも些細なものなのだろうか。
(羨ましい、な……)
正直その余裕が、心底羨ましいと思ってしまう。
自分と年が近いせいか。里の外からやってきた旅人に対して、こんな感情が湧き上がってくるのは久しぶりだった。
きっと彼女も、数日後には簡単にここを去って行くのだ。
そして、もう二度と会うことはない。
いつもそうだ。
「……朝、迎えに行く。宿は花宮? それとも東雲?」
「東雲に泊まらせてもらってる」
「わかった」
年々人が減っている小さな里だ。今挙げたものと、先程喧嘩を売られた男たちが向かった時雨の三つしか宿はない。花宮と東雲は、東雲のほうが高い宿である。
シウの財源は知らないが、それなりの余裕を持って旅をしているみたいだ。
「食事中に悪かったな」
「いえ」
そこで電話を終えたハンゾウが戻って来た。
(待てよ。耳がいいって――)
先程ハクの話題が出たからか、イオルは急にシウの耳のことを思い出す。
彼が分かりやすく慌ててこちらを向くから、シウが肩をすくめる。
「信じられないかもしれないけど、拾ってないから聞いてないよ。もし全部が聞こえていたら、わたしもわざわざイオルに道を訊いてない」
「……そうか」
鵜呑みにするわけではないが、大人な対応に、イオルは頷く。
例え聞こえていたとしても、彼女がどうこうできるという話でもない。
「短い間にずいぶん親しくなったみたいだな?」
イオルの視線を察して話し出したシウとのやり取りに、席についたハンゾウの表情が何の話だと語っている。
「人より少し耳がいいんです」
シウはとんとんと、自分の耳を指さす。
「そうだったのか。すまないな、あまり良い話ではなくて」
ハンゾウはイオルが想像していたよりも、簡単に彼女の言葉を受け入れた。
人がたくさんいる里の外では、特別に思えるようなサガも珍しくないのかもしれない。
「聞こえてないので、気にしないでください」
あくまで、彼女は聞いていないと話を通すらしい。何というか、見かけ目によらず肝が据わっている。
ただまあ、それはこちらとしても有り難かった。
聞こえなかったというシウが、わざわざ面倒ごとに足を踏み込んで来る確率は低いはずだ。
「さて。里に住みたいって話だったか」
ハンゾウが話を戻す。
「そのことについてなんですが……。風間さんが里を案内してくれるそうなので、その後にまた話を伺ってもいいですか?」
予想外だったのだろう。
ハンゾウの目がイオルに向いて、信じられないと訴えた。
「そんな顔しなくても……」
思わず、イオルは呟く。
確かに日中は外に出るようなことは避けているが、出ないとは言ってない。
今日だってここまで来ているわけで。
ちゃんと頼まれれば、こちらが断ることはほとんどなかったはずだ。
「そうか。そうだよな。助けてもらっておいて、何も返さないとは情けない。ちゃんと案内するんだぞ。宇佐美くん、こんなやつだがイオルと仲良くしてやってくれ」
ハンゾウの厳つい目が、シウをがっちり捕らえて離さない。
「……??」
彼女もハンゾウの熱に戸惑っている。
笑ってなんとかその場を誤魔化していた。
イオルは何故だか、嫌な予感がする。
バイブの音が聞こえて、彼は自分のモバイルに目を落とした。
――何としても里に残ってもらうぞ。
その一文を読んで、彼は思い切り顔を顰める。
この数分で、ハンゾウはシウのことが随分と気に入ってしまったらしい。
今まで、彼が引き止めようとした旅人は、皆そこそこ年のいった大人たちが多かったはず。
こんな若い芽をここで摘もうとするとは相当だ。
怪訝な面持ちでハンゾウを見たが、彼からは揺るぎない意志を感じるだけ。
イオルは何も知らないシウのことが、少し心配になった。
(もし少しでも嫌がってたら、逃してやらないとな)
ここに縛られる生活の窮屈さは、自分が一番分かっている。
彼は人知れず、そう決意を固めたのだった。
◆
昼餉を終えて、他愛もない話で盛り上がると、シウが「そろそろ」と暇を告げる。
「たくさん、ご馳走様でした。ありがとうございます。少しだけですが、これ」
彼女は床に左手をつけて、影からモノを引っ張り出す。
影法師の手荷物が少ないのは、こうして自分の影に体重分の重さだけモノを収納できるからである。
そうしてシウが取り出したのは、小さな袋。
「ヨザクラ岩塩です」
中に入っていたのは、全体が桃色で金粉が混ざった石。
彼女の説明に、ハンゾウが驚いた。
「これはまた、珍しいものを。イオルにも回復薬をやったんだろう? 気は使わなくていい」
ハンゾウはそれを押し返す。
「宇佐美くんはいくつなんだ? 若いのに、旅に慣れているようにみえる」
「今年で十七になります。もうあと一年もすればもう成人ですよ」
年の割に気が利きすぎるシウのことが気になるのは、イオルも同じだった。
比べるのもどうかと思うが、世の中には初対面の人間相手に暴言を吐いてくる大人もいる。タイムリーなことなので、あれと比較してしまうとシウはかなり大人びているように感じる。
この里の子どもは必ず道場に通い、男女関係なくハンゾウに扱かれるからか、里にいた娘たちは皆気が強かった。何なら、女子のほうが強かったくらいだ。
今や誰も里に戻って来ない記憶の中の彼女たちと比べても、シウは体も細いし、物腰柔らかで優しい雰囲気をまとっている。
こんな彼女が、ケモノが蔓延るレッドゾーンを超えて来たと言われても、どんな戦闘をするのかイメージがつかなかった。
(やっぱり、あの狼犬か)
イオルはハクの姿を思い浮かべる。
動物を従えている旅人は今までにも見かけたことがあったが、あの狼犬は別格。断言できる。
言葉で意思疎通が可能で、人の行動や心情を理解できるのは、正直言って超えてはいけない何かを突き破ってしまっている。
シウがハクのことを師匠と呼んでいるのは、案外その言葉のままの関係なのかもしれない。
「塩は受け取ってください。また、お世話になりますから」
彼女はそう言ってその場を収めた。
そんなことをしては、ハンゾウの好感度は益々右肩上がりである。
「イオル。送って来い」
玄関まで来ると、ハンゾウはイオルに命じた。その手にはメンテナンスを終わらせた直刀と装備が握られており、イオルに得物が戻って来る。
イオルは頷いて、肩からそれを斜めにかけて、刀がすぐに抜けるように位置を調整する。
「え。大丈夫ですよ」
シウはそこまでしてもらわなくても、と首を振った。
しかし彼女はここに来るまでに迷子になっていた人だ。
「帰り道、わかるのか?」
「……あ」
指摘されてから、そのことを思い出したようだ。
「えっと。たぶんハクがわかるから……」
しっかりしているように見えて、彼女は同じ年のただの少女だった。
イオルはこうなることを予想していたので、マスクをつけてフードを被った。
「行こう。あまりゆっくりしていると、日が沈む」
扉を開ければ、赤く熟れた太陽が山際に向かって落ち始めている。
ここは夏でも影に呑まれるのが早い。
平等な闇がやってくる。
彼は目を細めた。
シウは慣れた手つきで靴紐を結ぶと、すくっと立ち上がる。
「お邪魔しました」
「また何かあったら、いつでも来るといい」
彼女はハンゾウに軽く会釈すると、イオルの後を追って道場を出た。
引き戸が閉まると、待ちかねていたように白い狼犬が姿を現す。
『盛り上がったみたいだな』
「うん。親切にしてもらった」
シウは自分の足元まで来たハクの頭を撫でる。
ハクは気持ちよさそうに目をつぶって、それを受け入れていた。
「宿まで送ってくれるって」
『そうか。コイツが面倒かけて悪いな』
「これくらい気にしなくていい」
青い瞳と目があって、イオルは応える。
こちらにも聞こえるように会話をしてくれているようだ。
「明後日、イオルが里を案内してくれることになったから、その後またお邪魔することになったよ」
『好きにしろ。どーせ、今回も決められねぇんだ』
ハクの使う男の声は、非常に気怠げだった。
シウはむっと眉根を寄せる。
「夢のマイホームには、妥協しないって決めてるからね。この国で一番安全なところに、一番安全な家を建てるよ。わたしは。そのためにはたくさん下見しないと」
彼女はわしわしと、ハクの毛並みを掻き回すから、ハクが嫌がってぶるぶる頭を振る。
『それは何度も聞いた。だから、今回も買うなんて決められないと言っている』
「確かにまだ他と比べたい気持ちはあるけど、今回はかなり有力だと思うよ?」
そろそろ決まる、と。溜息を吐くハクを宥めるように彼女は言う。
『買う気満々なのはいいが、その前にどこか借りれる部屋を探せよ』
「……師匠って意外と慎重派だよね」
シウが怪訝な顔で言い返すと、ハクはポカンと口を開ける。
そして、みるみるうちに表情が変わっていった。犬なのに変化が非常に分かりやすい。
『お前、まさか本気で忘れてるのか?』
ハクは正気を疑うような、真剣な声色でシウに尋ねる。
彼女もそんな聞かれ方をするものだから、不安になったのだろう。狼狽えて、目が泳いでいる。答えが分からないと視線がハクに定まると、彼女に師匠と呼ばれるその狼犬は驚愕の顔つき。
『換金できてねぇんだから、先立つものが足りてねぇだろうが。家どころか土地も買えねぇよ、馬鹿』
深みのある重低音が、イオルの頭にも響き渡る。
「……あっ」
そうだった、と。
虚しいシウの気づきが溢れた。
(ハクの口が悪いのはいつものこと。シウも別に気にしてない)