壱02・ただの迷子
(一体、いつから――?)
手を取られるまで、全く彼女を感知できなかった。
イオルには、何よりもまず先に、それが衝撃だった。
痛みに意識が割かれていたとはいえ、誰かが自分の前でしゃがむことくらい分かったはず。
朦朧としていた意識は覚醒した。
人が良さそうに見えるが、この道にいるとなると、もしかすると「厄介な奴」なのかもしれない。
彼は新たな試練に、気合だけで身体を起こして、壁に背中を預ける。
「あのぉ……。あまり動かない方が……」
大きな緑色の瞳を持つ彼女の顔は少し幼く見えるが、口元、右下の艶ぼくろが印象的で、意外と年は近そうだ。
肩に着くほどの長さがある茶髪を上半分だけ結い、飾り気はない。素朴だが、美少年を思わせるような端正な顔立ちは、イオルが今まで見てきた中で一番印象的だった。
服装はさっきの女たちと違って、肌との接触面に影が作れる長袖に丈の長いパンツを履いている。
細身に着痩せしそうな服を着ているので一瞬性別を疑ったが、女性で間違いないだろう。
見た目は、かなりまともだ。
ただ、年齢を考慮すると、彼女も運でここまで来た流れ者の類かと思われた。
(いや――)
しかし、イオルはすぐにその考えを改める。
それは、彼女の横に座る白い毛並みに青い目を持った狼犬が、自分を凝視していたのが目に入ったからだ。
少女のほうは実力が読めないが、あの狼犬はヤバい。今、あれに噛みつかれようものなら、最悪の場合死ぬ。ケモノを甘く見てはいけない。
イオルがそう状況を読んで顔を歪めた時だった。
『弱ってる【月の子】なんて噛まねぇから、安心しろ』
頭の中に、柄の悪い低い男の声が響いた。
まるで狼犬から返事をされたようで。
「…………な、?」
イオルは何が起こったのか分からずに、大きく目を見開いた。
ついに幻聴が聞こえ始めたのか。
ともすれば、今見ている彼女と狼犬も幻覚か?
彼は疲労した頭を回転させるが、情報が集約せずに混乱する。
「あ、こっちは師匠のハクです」
『呑気に紹介してないで、さっさと助けろ。馬鹿』
「イタッ」
少女の頭を、白い尻尾が叩いた。
遠慮なく叩かれた彼女の頭は、イオルの前でガクンと曲がる。それでも重心がぶれないのは、ちゃんと鍛えているからだろう。
混乱していても、イオルは情報の収集を止めない。動けはしないが、灰色の瞳はじっと相手を捉えていた。
『【月の子】は、影に干渉できない。早く薬をやれ』
「……わかったよ」
少女が乱れた髪を整えながら返答して、確信した。
この低い男の声は、狼犬のものだ。
(念話か……!)
初めての経験に、イオルは瞠目する。
本当にこの世にその能力が存在しているとは。
その瞬間、相手に対する懐疑より、里の外に出たことがない彼には好奇が勝った。
「回復薬です。飲めます?」
少女はポーチから試験管のような形をしたボトルを取り出す。
「…………」
イオルは少し考えたが、相手に敵意は感じられない。意を決して、それにゆっくり手を伸ばした。
遮光された青いボトルを受け取ると、マスクを下ろす。
「うわぁ。せっかくいい顔してるのに。痛そう……」
少女はイオルの顔を見て嘆いた。
精悍な顔立ちは、鼻血が出て口にも血が滲み、殴られたところが腫れ始めていた。
イオルは彼女の呟きは無視して、血を拭い、独特な味のする水薬を喉に流し込んだ。
すうっと、体の中に取り込まれていくそれは、すぐに全身の痛みを攫っていく。
あまりの効能に、イオルはまたまた驚いた。
「これは……?」
「特別変異したオオツメシカの角、ヤマジリイモリの尻尾とキノメホヤに……あと何か再生能力が高い植物に咲いてた花の蜜から作った薬ですね」
再生効果がありそうな特異種を、とりあえず全部ぶち込んでみました。と言わんばかりのレシピだ。
特異種を狩るのは、そう簡単なことではないと聞く。
傷も瞬く間に治って行き、かなり性能が良い。それなりに値段がしそうな品だった。
こんな高そうなものを渡して、一体何を企んでいるのだろうか。
(【月の子】が珍しいから、か?)
自分のことを珍しがって、必要以上に絡んでくる奴らはいる。それが個性というものだから引きつけてしまうのは仕方がないと師範には言われるが、面倒ごとのほうが多くて困る。
イオルは不思議そうに自分の身体の状態を確認し、前に視線を戻した。
深い緑の瞳がふたつ。じっと、こちらを見守っている。
そこに容姿を探るような動きはない。ただ真っ直ぐに自分を見ていた。
「大丈夫ですかね? その、申し訳ないんですが、薬が効いてからでよいので、後で道を教えてもらっても……?」
「…………」
どうやら彼女は、本当にただ道が聞きたかっただけらしい。
ペンと小さなメモ帳を取り出して、眉を垂らして苦笑していた。
◆
「倒れてたのに道まで案内させて、すみません……」
「いや。行き先は同じだし、もらった薬のおかげで動けるから、これくらいは」
イオルは道に迷っていた少女と狼犬を引き連れ、道場を目指していた。
副作用でもあるのではないかと不安になるくらい、薬が効いている。まさかここまで回復するとは。
今日の予定はキャンセルだと思っていたが、不幸中の幸いだろう。
恩を仇で返すほど、彼も落ちぶれてはいない。行き先も同じらしいので、少しくらいなら客人をもてなす事もできるだろう。
(それに……)
そして何より、彼は念話で話す狼犬をもっと観察したかった。
イオルは少女の腰の高さまで届きそうな大きさの狼犬を見つめる。
『言いたいことがあるなら言え。オレは心の中が読めるわけじゃない』
気になっているのが相手にばれてしまったらしく、頭に声が響いた。慣れない感覚だ。面白い。
「悪い。念話は初めてで」
素直に謝ると、少女が反応する。
「師匠が初対面で自分から話しかけるなんて珍しかったね。びっくりした」
『お前の気が効かねぇからだろ』
「――それはゴメン」
そんなやり取りをするひとりと一匹。
少女の方が主人なのだろうが、狼犬を師匠と呼んでいる。関係性がよく分からない。
気になることは沢山あるが、イオルは彼女の名前すらまだ聞いていないことに気がついた。
「……さっきはありがとう。俺は風間イオル」
人に色々聞く前にと、彼は自ら名乗る。
目的地が同じだなんて、きっとこれも何かの縁なのだろう。
「宇佐美シウです。苗字は嫌いなので、よかったら名前で呼んでください」
『オレのことは好きに呼べ。コイツにはチビの時から、ハクって呼ばれてる』
シウとハクが、ふたり揃ってイオルに目を向けた。テンポと息がぴったりなのは、一緒に過ごしている時間が長いからなのかもしれない。
少女と狼犬。この里に訪れる客たちのなかでは、なかなか見ない異色の組み合わせだ。
「風間さんは、これから行く道場のお弟子さんなんですか?」
ひとつ壁がなくなったからか、次はシウが口を開く。
珍しくまともな扱いだ。
寧ろ丁寧過ぎて、落ち着かない。
「イオルでいいよ。さんもいらないし、敬語もいらない」
いつも【月の子】やら【太陽に背かれた子】なんて呼ばれているせいで、シウの反応は逆に違和感だった。
「四年前に辞めたから元、弟子」
慣れていないのを悟られないように、イオルは簡潔に応える。
まだ道場には頻繁に顔を出しており、師範にもなんだかんだ世話になっているのだが、「辞めた」というのは彼の中でのケジメだった。
「四年前? えっと、イオルはいくつ?」
「今年で十七」
『シウと同じだな』
ハクの補足は、少し意外だった。年が近そうだとは思っていたが、まさか同い年とは。
所作に無駄がなく大人びてはいるが、なんとなく年下だと見ていた。
「そうなんだ! かなり鍛えてるみたいだから、なんとなく年上かと」
どうやらシウも似たような考えだったみたいだ。
彼女は目をまんまるに開いてイオルを見つめる。頭ひとつ分は身長に差があるので、こちらを見上げる形になった。
シウの濁りのない眼差しが慣れなくて、イオルはそっと前を向く。
「やっぱり桃幻郷はすごいね、ハク」
『何がだ……』
いまいち言葉足らずなシウに、ハクはだるそうに尋ねた。
「だって、影法師じゃなくてもこんなに強い人がいるんだよ? やっぱり、鬼の出ない里は格が違うね」
興奮した面持ちで、シウは緑の目を輝かせる。
彼女の言葉に、イオルは思わずそちらを見直す。
「――強い?」
何を見たらそんなことが言えるのか。
初対面でこんな言葉を言われたのは、初めてで。
想像の斜め上を軽く超えてきたシウの発言に、イオルは困惑した。
「いやぁ、ハクは聴こえてなかったかもしれないけど、寝技に持ち込むのがすごかった! 影を相手にあれだけの傷で押さえたのは、強いとしか言いようがないよ。生身に攻撃されたら普通に死んじゃう、あんなの」
そんな彼は他所に、シウはうんうんと首を縦に振る。
「助けにいくのが間に合わなかったら、どうしようかと思ったけど。何とかなったね」
彼女はハクの背中を撫でた。
『お前が道場行きながら、ついでに立地を確認しようなんて言って、ぐるぐる里を回るから目的地が分からなくなったんだろうが。何を美談にしてやがる。ただの迷子が』
「えっ、迷子じゃないよ! 戻ろうと思えば、元の道に戻れたからね!?」
だが、連れに急に牙を剥かれてしまい、シウは慌てて反論する。
『お前は耳に頼りすぎだって、いつも言ってるだろ。ちゃんと地図を読んでから行動しろと何度言えば分かる……』
狼犬なのに、まるで人間のようにやれやれとハクは溜息を吐いた。
「いや、だって……。ここ、圏外でネット使えないし……」
図星だったのか、シウはうぐっと言葉を呑む。
「――……見てたのか……?」
イオルは彼女たちが自分の元までやってきた状況が分からず、訝しげに口を開いた。
『目で見えたわけじゃない。こいつは馬鹿みたいに耳がいいんだ。遠くの場所でも、聴こえたことが映像みたいに視えるらしい』
「ちなみに、イオルの先生らしき人が道場で『イオルのやつ連絡もよこさずに。昼飯は抜きにするか』って言ってるのも視える」
ハッとして、イオルはポケットからモバイルを取り出す。
この里独自の回線に繋がれた黒くて四角い端末には、師範の浅田ハンゾウからの通知が溜まっていた。
「心配してるみたいだから、もうすぐ着きますって連絡しといたら?」
――本当に視えているのかもしれない。
(面白い……)
一度にこんなにたくさん自分が初めて目にするものは、久しぶりだ。
半信半疑ではあるが、イオルは呆然とシウを見つめる。ひとりと一匹の卓越した能力について、思い当たる節があった。
「【サガ】か。シウの耳と、ハクの念話も」
『生まれ持った個々人の特性を、人間はそう呼ぶな』
ハクはさもどうでも良さそうに欠伸をしながら、イオルに応えた。
【サガ】
それは、今ハクから説明があった通り、生まれ持った特性のことを指す。文献には様々な事例が載っているが、その定義は曖昧だ。
光と影の理の外にある力とするものもあれば、良くも悪くもその人が持つ中で特出した個性であるとするものもある。
後者によれば、イオルの体質もサガに含まれる。
「大したことではないよ。強い人は、みんな何かしら隠し持ってる」
シウもあっけらかんとしていて、能力を自慢する様子は微塵もなかった。
「――イオルだって、そうでしょ?」
それまで温和だった彼女の瞳が、真剣にこちらを向いている。
ぞくり、と。圧を感じた。肌は粟立つ。
蔑まれてばかりいたイオル。
邂逅した相手に、真っ当に見定められているのも久方ぶりの出来事であった。