壱01・お天道様は平等である
――お天道様は平等だ。
今は昔。この小さくて大きな島国が統一される前、戦乱の時代だった頃にとある武将がそう言ったらしい。
年々磨かれて光沢を放つこの言葉を、イオルは少し前まで、ただの綺麗事だと思っていた。
平等なんて存在しない。
そんなものがあるならば、自分は今頃こんな辺鄙な里から抜け出して、自由に外の世界を旅していることだろう。
そんな風に、恨み続けていた言葉ですらあった。
しかし、今は違う。
それは間違いだと、ある時彼は悟った。
お天道様は確かに平等だったのだ。
――公平ではないだけで。
今日も今日とて、晴れ渡る青い空の天辺から、お天道様の御光とやらは燦々と降り注ぐ。
「――あつい」
……とはいえ、それとこれとは話が別だ。
有り難い天からの恵みを、イオルは一言で吐き捨てた。
露出を極限まで抑えた服装。手にはグローブ、顔にはマスク。頭を覆うは大きなフード。
冬であれば、それも過ごしやすい格好になるだろうが、季節は夏。時刻は昼前。
基本的に一年中その格好を乱すことのないイオルは、側から見ても暑苦苦しい。
そして当の本人は、その想像を上回る熱を味わっていた。
(暑い。暑過ぎる……)
分かってはいたが、昼餉を奢ってもらえるからといって、やはりこの時間に外出は大間違いだった。
「なんでこんな暑い時に限って呼び出しが……」
建物の隙間に出来た日陰へ逃げ込んだ彼は、太陽に照らされた地面を見て思わず溜息を吐く。
時に「万年露出五パーセント」と呼ばれるイオルだが、こう見えて少しでも涼しくなるように冬と夏では服の仕様が違う。ただ、光を通さない布を選ぶと、その工夫による暑さの軽減は気持ちばかりのものであるが。
ツウっと額から汗が流れ、彼は手の甲でそれを拭う。
ふと、袖の隙間から覗く自分の肌が、赤みを帯びているのが目に入った。
(……いつもより早い。今日はヤバいな)
じくじくと、皮膚を這うような小さな痛みは手だけではなく全身に及ぶ。
早く室内へ行こう。日差しが強い外に、長居は無用だ。
イオルが家屋の隙間から道に出た時だった。
「あ?」
真横から、高圧的な声を投げつけられる。
非常に嫌な予感がした。
「おいおいおい。この里に、こんな全身装備の奴がいるのかよ?」
話しかけてくる奴を確認しなければと振り向けば、こちらに照準を合わせた背の高い男と視線が交わる。
自分に突っかかってくる時点で、里の者ではないことは明白。
年はイオルより上のようだが、まだ若い。二十代前半といったところか。そこそこ鍛えているのは、装飾の多い高そうな洋装の上からでも分かる。
外から来た武人だ。
「いくら装備を固めたいからって、その格好は流石に場違いだろうが。【桃幻郷】の景観が台無しだ」
初対面の相手に向かってこの言い様。
お世辞にも、性格がよろしいとは言えない奴とエンカウントしてしまう。
(流れ者か……)
マスクの下で、イオルは顔を歪めた。
男の後ろには連れらしき女がふたり。諌めることもせず、こちらを傍観している。
人は見た目によらないとは言うが、経験則からしてこの手の客は運でこの里にたどり着いたタイプだ。
バケモノたちをねじ伏せて、里にたどり着いた渡り者たちとはまとう雰囲気が全く違う。無論、悪い意味で。
運も実力の内とは言うが、真の強者であればまず、イオルに喧嘩を売ることはしない。
「……すみません」
イオルは軽く頭を下げる。
理不尽な奴を相手にしても仕方ない。
こちらは何もしていないが、一言断りを入れて、彼は男の進行とは逆方向に足を踏み出した。
しかし、
「はぁ? フードくらい取れよ、ガキがッ」
誠に残念ながら、男は見逃してはくれなかった。
「――――ッ!」
怒号と共に、イオルの顔面めがけて、黒い腕が殴りかかってくる。
彼はギリギリのところで射程を顔面中央から外したが、頬に摩擦の熱が走った。
(――最悪だ)
そう思った時には、フードを掴まれていた。
攻撃の勢いは収まる様子がない。このまま抵抗しようとすれば、首が締まる。
イオルは力を逃すためと、相手を満足させてやるために、わざと地面に倒れ込んだ。
「お前、その髪と目――」
その反動で露わになったのは、短い白い髪と切長の釣り目に収まる灰色の瞳。
「もしかして【太陽に背かれた子】か?」
自分には使えない力を行使する男を、イオルはどこか冷めた目で見つめる。
その月のような双眸に映るのは――揺らめく黒。
彼のフードを掴んだのは、男の足元から伸びる人の影だった。
◆
ここは、光と影が司る世界だ。
この世に生を受けたその瞬間から、人は皆、肉体を持つのと同時に影の体を持っている。
影の体が持つ力を、【影力】
その力を使うための術を、【光影術】
影力を光影術で行使することを、総じて【影法】という。
修業することによって、人は影の体の使い方を学ぶ。上達すると、それに実体を持たせ、意のままに操ることができるようになる。
影の体は変幻自在だ。形だけでなく、濃淡を変えて強度も出せる。
時には、己を守る盾や鎧に。
時には、敵を貫く剣に。
身にまとえば膂力を増幅させ。
空間として使えば、モノを収納することもできる。
その力は、海を渡った言葉の違う外の国では、「魔法(magic)」という言葉で表現される。
大地が違えば、理が違う。文化が違えば、視認されるものは異なり、それに対応して能力の進化は分岐する。
影法に合致する単語は、海外にはない。
とはいえ、ニュアンスは同じだ。
人智を超えた、不思議なもの。
人力を遥かに凌ぐ、絶対的な力だ。
そして、光影術を極めた者のことを、この国の人間は【影法師】と呼んだ――。
◆
人通りが少ない脇道。
イオルは燃えるように熱い地面に黒いグローブをつけた手をつき、体を起こす。
「へぇ〜。実物は初めて見たぜ!」
短気な男の声のトーンが変わった。
それは、珍しい物を見つけてはしゃぐ子どものような声。
新しい遊び道具を見つけた時の、それだ。
「この里にいて、本当に影が使えねぇの? お前」
男の態度には、絶対的な弱者を前にした余裕が見てとれる。
イオルは影が離れたことを確認すると、体勢を整えて、すぐにフードを被り直した。
「うわぁ。マジで影、白くね?」
立ち上がりはせずに、しゃがんで出方を見るイオルの足元にできた影。
薄いというより、白い。
周囲の影と比べると、その異質さはすぐに分かる。
影法師なら、相手の影の状態を確認するのは基本中の基本。
それをしなかったこいつは、やはり弱い。
(理解したなら、さっさと消えてくれ)
イオルは晴天の元、そう願った。
約束の時間も迫っているし、何より暑い。
こちとら今すぐ、水風呂に飛び込みたい気分なのだ。理解のない客の相手をする気はない。
「けどよぉ。本当は影を薄めてるだけじゃねぇの?」
しかし、今日は厄日なのだろうか。
そこそこ整っている男の顔に、薄っぺらい笑みが貼り付けられる。
(――来るッ)
イオルは反応したが、咄嗟にガードした左腕は意味をなさない。
頭では何をすべきか分かっていても、彼の動作は何ひとつとして、相手の攻撃に勝てる要素を持っていないのだ。
鞭のようにしなる影が、無常にもイオルの横腹を殴打した。
「カハッ」
彼の体は宙に浮かんで、簡単に吹き飛ぶ。
受け止めてくれたのは、こちらの事情など知ったことではない固い壁。被害者はこっちのほうだと言わんばかりに、ぶつかってきたイオルのことを跳ね返す。
過去に道場で学んだことを活かす間などない。
こちらが何も準備できずに敵とぶつかってしまった時点で、よっぽどのことがない限り負けは確定している。
生身に受けたあまりの衝撃に、彼は声も出せずに地面へ倒れ込んだ。
「あれ? わりぃ、わりぃ。本当に【太陽に背かれた子】だとは思わなくてな。生きてるか?」
謝罪の言葉を口にしてるが、悪びれる様子のない声音が降ってくる。
早く体勢を整えなくては、逃げられない。
イオルは額に汗を浮かべながら、体に力を込める。
歯を食いしばり、音は上げない。
ついでに言えば、助けも呼べない。
里の端。厄介な客が来たときに案内する宿があるこの道を、誰も好んで立ち寄ることはしない。
一方的な攻撃が終わるまで、彼には耐えるしか選択肢がなかった。
「いやぁ。影使えない奴なんかがこの里にいると思わなかったからさぁ。力の加減ミスったみたいだわ」
注がれるのは、嘲笑。
見せつけられるのは、絶対的な力。
汚い笑みを浮かべた男を囲うようにして、黒い影がゆらゆらと足元から宙に伸びていた。
決して、体を打った衝撃で見た幻などではない。この身に受けた痛みをもって、嫌というほどそれを理解していた。
「……ッ」
どうやらこの脆い体では、今の攻撃で肋骨がもっていかれたらしい。上半身を起こすのでも精一杯だ。本当に嫌になる。
だが、敵はすぐそこまで来ている。
早く、立たなくては――。
「でもさぁ。影が白いなんて、お前、本当は人間じゃないんじゃねぇの?」
イオルは、動きを止めた。
顔だけそちらに向けて、男を睨みあげる。
目の前に立ちはだかったそいつは、まるで地に落ちた腐った果実でも見るような目で自分を見下していた。
「あぁ? なんだその目?」
男は、イオルを蹴飛ばす。
体は痛いと悲鳴をあげたが、心はそれを無視した。
「んあッ!? てめぇッ!」
イオルは飛んできた男の足を瞬時に掴むと、抱え込むようにして相手をこちら側に引きずり込む。
まさか反撃してくるとは思っていなかったのだろう。
男は簡単に倒れ込んで、腰を打った。
影が使える癖に、こんな奴に倒されるなんて、いい気味である。
「グアァッ!?!」
イオルは一気に相手の膝へと力を込めて、関節技を決めにかかった。
影法師相手に遠慮はいらない。
月の瞳は、ナイフのようにぎらりと光る。
「クソがぁああ! 調子乗んなよ、お前!!」
「っ!」
――ただ、イオルができるのはそこまでだった。
影の腕が無数に、彼を取り囲んだ。
無能は無能。
力を持つものと比べて劣るのは、当然の理だった。
「アギトくん。もう可哀想だよ」
「アタシも、早く宿で休みたい。放っとこ」
それまで何も口出ししてこなかった女たちが、流石に不味いと思ったのだろう。
男がイオルを影をもって殴り始めてしばらく経った後、やっとそいつの腕を掴む。
「チッ。お前のせいで、この里に鬼でも出たらどうする気だよ。早く消えろ!」
男は最後の最後まで、イオルを痛めつけてから去っていった。
影の力にねじ伏せられた彼の体は、ボロボロ。動けそうにないどころか、今日の予定は無理そうだ。
「…………く、そ」
イオルは言葉を地面に吐いた。
倒れた身体に、容赦なく太陽の光が照りつける。太陽に背かれた体は、既に軽い炎症を起こしていた。
彼は、狭い視界に入った日陰に手を伸ばす。
お天道様は平等だ。
背かれたことは一度もない。
ただ、その恩恵を甘受できるのは、選ばれた人間だけだった。
そしてこの自分こそ、大半が選ばれるはずのその枠に入れなかった落ちこぼれである。
こんな平等なんてクソ喰らえだ。
(足掻いても、無駄、か……)
イオルは目を閉じて、伸ばした手に込めた力を抜いた。手だけ伸ばしても、影に入れやしない。
落ちた先は、影ができているだけの地面
――の、はずだった。
「ちょっと待った!」
その手を、誰かに握られた。
同時に聞こえたのは、高過ぎない柔らかみのある少女の声。
気配に気がつかなかったから、イオルは驚いて顔を上げる。
痛みに眉をひそめながら、彼はその目に彼女を捉えた。
「倒れてるところ申し訳ないんですけど、助けるので道をお聞きしても……?」
飛び込んできたのは、緑の瞳。
気の良さそうな優しい面持ちの少女が、申し訳なさそうにこちらを窺っていた。