参04・目的地
イオルが修行を始めて五日が経過した。
「…………」
彼はしばらく悩んだ後、扉をノックする。
「シウ、朝餉食べるか?」
昨日から、シウが隣の部屋で寝泊まりしていた。
イオル以外の部屋にはガス水道電気が通っていない。朝餉を用意したまではよかったが、躊躇する理由があった。
「食べる!」
かちゃりとドアノブをひねる音がして、彼女がひょっこり顔を出す。
「……大丈夫か?」
「おはよ。だいじょぶだよ。今日この後走ったら終わりだから」
目の下にうっすらクマができているシウに思わず尋ねれば、彼女は目を擦りながら頷く。
ハクに課された修行のせいで、この五日間、シウほとんど寝ていなかった。
流石に仮眠は許されていたが、一日三時間ほど。
食べると眠くなると言って、一日二食を自ら減らしていた。
「わたしの分まで、ありがと」と、いつもよりさらにゆったりした口調でそう言いながら、シウがイオルの後ろをついて部屋に入る。
彼女に切羽詰まった様子は見られず、イオルは影を操る人間のスタミナを改めて感じる。
やはり、普通じゃない。
「……別にいい、このくらい。これから一緒に旅するんだし」
「……そっか!」
彼女は微笑むと椅子に座った。
「ハクは?」
「ご飯食べに里の外に行ってるよ」
「そうか。ずっと気になってたけど、あいつの食事ってどうなってるんだ?」
イオルは淹れたばかりのコーヒーが注がれたカップを渡す。
「たまにケモノの肉を食べれば平気。お腹空いたら自分で狩りに行くから、師匠の食費についてはあまり気にしなくていいよ」
「へぇ」
シウはめざましにブラックコーヒーを飲んだ。
「食べれる分だけ食えよ。残ったら俺が食べる」
「うわぁ〜。イオルったら、いいお嫁さんになれるよ」
イオルが運んで来た皿を見て眠気が飛んだのか、彼女は緑の瞳を輝かせる。
「ひとり暮らし長いから、少しなら家事もできる」
「充分だよ。これはいい旅仲間を見つけたなぁ〜」
いただきますと手を合わせて、彼女はサンドウィッチをかじった。
「うん。おいし!」
ベーコンレタスにトマトやたまごも挟み、パンは軽く焼いてあった。
シウはもぐもぐ口を動かして、静かに頬張る。
イオルはそれを無言で見つめ、コーヒーを飲んでひと息。
「正直、料理とかわたしが全部やるのかなって思ってたから嬉しいな」
「それはないだろ。俺のほうが世話になってる側なのに」
「え〜。まだそんなこと言ってるの?」
イオルの解答がお気に召さなかったらしく、シウがまるで苦いものでも口にしたように顔を歪めた。
「そう構えられるとわたしも気まずいから、あんまり気にしないでよ。日は浅いけど、もう仲間でしょ。遠慮はいらない。旅をするからには、命に関わる」
彼女は困ったように眉を下げる。
「……善処はする。でも、俺は元からこういう性格だ」
「はは、そう言われると納得できちゃうかもな」
シウは肩をすくめると、また食事を再開した。
無能が、この里で何とか上手く生きてきたのだ。どうやら人の顔色をうかがい、悪口でよく言われた「寄生虫」にならないように気を使う癖がついてしまったらしい。
ただ、シウが言うことにも一理ある。
少し間を開けて、イオルは彼女に問う。
「こういう修行って、これが初めてか?」
「いや? 何回かやってるよ。大抵、わたしの危機感が薄れてきてる時とか、持久力、耐久力を上げたい時に調整って感じでやってると思う」
「一応、ちゃんと意図があってやってるんだな」
「流石に師匠もしばきたいだけで、やらないよ。……たぶん」
若干疑惑が残ったが、ハクはちゃんと厳しく指導してくれるタイプだということだろう。
イオルはそう思うことにする。
「シウはあとどれくらいで出発できると思ってる?」
「早くて三日。遅くとも一週間もあれば里を出られると思ってるよ。出発の準備も含めて、それくらいで行ける」
確信している応えだった。
「まさか、修行始めて五日で基礎はほとんどマスターしちゃうなんてね? 土台がすごくよかったんだろうなぁ〜。普通、半年はかかるんだよ?」
「……そうなのか?」
「うん」
それは話を盛っているのではないかと思ったが、嘘をついているようには見えない。
「都に行くと、影を使えない人の方も結構多い。一度、影を操るなんて非科学的だ! って固定観念を持っちゃうと、光影術の習得は難易度が跳ね上がるから。その点、イオルは思考が柔軟で驚いた。桃幻郷で育ったからかな」
この里は特別だ。影法師しかいないような地域は、本当に限られる。
都は人口も多いし、技術も発展している。
一応、義務教育の一環として光影術の授業もあるが、プロの影法師を目指すものは極一部だ。
アマチュアでよいのなら簡単だが、生活費を稼げるプロとしてやっていくには厚い壁があることは周知の事実。ある程度の才能がなければ昇級が難しく給与も上がらない。そして命懸けの現場もある。
影法師だと名乗れるほど光影術を極めている者は、イオルが想像するよりかなり少ない。
「霊薬を渡したのがイオルでよかったよ。本当に。――ごちそうさまでした」
シウはサンドウィッチを全て平らげて、手を合わせた。
「さて! 師匠が戻ってくるまでまだ時間があるし、そろそろ旅の話をしようよ」
「!」
食器を片付けると、彼女は影の中から地図と一冊の本を取り出す。
机の上に広げられたその地図は柔らかくなっていて、使い込んでいるのがよくわかる。
「桃幻郷は、赤く塗られている地域のこの辺り」
弓形に広がった大きな島国。
その西にある中備藩と書かれた範囲の中に、縮尺が小さくてもはっきりわかるレッドゾーンをシウが指差す。
彼女は付箋だらけのガイドブックを開くと、より詳細がわかる地図のページを開いた。
「ここから真っ直ぐ北上して、藩都コウリョウに行こうかなって師匠とは話してたんだ」
ヤシマが統一され「ヤシマ合藩国」と名を改めた時から、「一藩一都令」によって藩にはひとつだけ「藩都」と呼ばれる都が設けられていた。
桃幻郷が属している中備藩の藩都はコウリョウ。
現在の位置を北上していくルートが、シウの希望だった。
「一番近い町はヤッケだけど、藩都には何か急ぎの用があるのか?」
安全策を取るなら桃幻郷から一番近い町に行くのがいいが、藩都コウリョウに行くには少し遠回りだ。
イオルの疑問に、シウは首を横に振る。
「ううん。急ぎの用事はないよ。ただ、小さな町は当たり外れがあるから。人生初めて行く人里は、ちゃんと栄えてるほうがいい」
彼女はしれっとそう言って。
「イオルが本当にわたしと一緒に旅をするなら、影法師のライセンスが必要になるだろうし、先に藩都に行った方が動きやすいかな〜って感じ」
「ライセンス?」
イオルは新しく出てきた単語に首を傾ぐ。
里の大人たちは外に出られない自分に気を遣ってか、影法師についてあまり詳しく話をすることがなかった。彼自身、なんとなく避けていた話題だったので、ぐっと興味を引かれる。
「そう。影法師っていうのは正確に言うと、ケモノを倒したり採取したりして報酬をもらう職業のことなんだよ。影を操れるだけの人のことは影使いって呼び分けがされてる。まあ、影を上手く操れる人のことも影法師なんて言うから、ごっちゃになってるんだけど」
「そうなのか……」
「影法師は専門家ってイメージかな」
シウは影からぬっと何かを取り出す。
「ライセンスは【光影会】の機関で発行してもらえる。これが登録者カード」
机に置かれたのは、顔写真付きのカード。
(宇佐美シウ、東空206年12月5日生まれ。個人番号0635105。登録日、東空211年10月1日……)
シウの名前と生年月日、個人番号、登録日が記録されていた。
カードの色は黒。右下には、白と黄色の短くて太い線が二本並んで縦に伸びている。
「今が222年だから、11年目になるのか」
「うん。何歳でも登録できるし、身分証明に使えるから便利だよ。――で、こっちが影法師全員に支給される黒笠ね」
「それは――」
次に出てきたのは、イオルも見覚えがある黒い笠だった。
「これを被るのが影法師の正装なんだ。頭を守るのにも使えて実用的でしょ?」
「なるほどな。それを被ってた旅人たちは、みんな光影会に所属してたってことか」
「そういうことだね」
シウが笠を被るのを見ながら、イオルは記憶を遡る。
「確か俺の記憶だと、その笠についてる銀のリングの数も人によって違った。何か決まりがあるのか?」
彼女の笠の縁には、銀のリングが2つ揺れていた。
笠の左上に装飾のように付いているそれを見上げて、シウは頷く。
「そうだよ。影法師にはランクがあるんだ。下から順番に、黒・白・黄・赤・青って色で位が分かれてる」
彼女はライセンスに入ったラインを指差した。
「カードのラインはそれを示してる」
「ということは、シウは黄?」
「うん。わたしは黄位。笠のリングは黒が0個で、一位上がるごとに数が増えるの」
「じゃあ、四つついてるのは、最上位の青ってことか」
そのとおり。とシウは答えて笠を影にしまった。
「まあ、光影会を背負って仕事するときは被るけど、自分の実力がわかっちゃうから、プライベートでは被らないかな。強い人は別だけどね」
いつか道場の倉庫で見た、ハンゾウのものらしき黒笠に四つリングが付いていたのを思い出しながら、イオルはライセンスをシウに返す。
「――ってことで、イオルがこの里を出て初めて行くのは、鉱物が御守体の都だよ。守りが固くて、ここ数年で藩地を大きく広げてる活気ある土地だから、楽しみにしてて」
彼女はニッと口の端を上げる。
(そうか、ここが……)
イオルはシウの笑みに呆然とし、地図を見直す。
外に出られるということだけで手一杯だったが、言われてみれば人生で初めて桃幻郷以外の場所に行くのだ。
未だに実感が湧かないが、シウの話を聞いて、そこが記憶に残る特別な場所になるかもしれないと気が付く。
『そこまで無事に辿り着ければの話だがな』
地図を見つめていると、頭に響くのは狼の声。
まだ突然念話をされることに慣れないので、イオルはほんの僅か肩を揺らす。
「ししょー。せっかく楽しい話をしてたのに、すぐ釘を刺すのはよくないと思う」
『あ? 文句あるなら、こんな事言われねぇ程度に強くなれ』
食事から戻ってきたハクが、開けっ放しにしていた窓から入ってきた。
『お前はさっさと走りに行ってこい』
「はぁーい」
シウはマイペースに返事をする。
『小僧も修行、始めるぞ』
イオルは静かに頷いた。
ここを旅立つ日が近づいている実感が、少しずつ形を成し始めていた。
すみません。「弐06・失ったもの」が抜けていました。修正しております。