参01・才能
風間イオルの朝は早い。
詳しく言うと、夜の仕事がなかった翌朝はやることが決まっていた。
里のはずれにある牧場で餌やりの手伝いをして朝餉を分けてもらい、他にも連絡があればそちらに顔を出す。一段落つけば鍛錬をしたり、勉強したり。
毎日毎日、同じような生活を続けて十数年。
「おはよ〜」
「――おはよう、シウ」
そんな日々を送っていたので、まともに取り合ってくれる同じ年の知人ができただけでも、彼にとっては新鮮なことだった。
庭で木刀を振っていると、白い狼を引き連れてシウがやってくる。イオルは手を止めて汗を拭うと彼らに視線を移した。
「自主練なんて、気合入ってるね!」
『準備運動は必要なさそうだな』
自分に会うために笑顔で赴いてくれる若者は、シウが初めてかも知れない。交友関係はそのレベルで。新しい仲間の訪れは、いつもと違う日常が幕開けた合図だった。
昨日の宴でイオルの事情は瞬く間に里の大人たちに広まり、彼らにも早く出立できるように修行に専念しろと言われている。
「これから師匠にしごかれるかもだけど、大丈夫そう?」
割と本気で心配そうに尋ねてくるシウ。
未知に湧き立つ自信の心情を自覚しつつ、イオルは笑った。
「早く強くなりたいから」
今日から本格的に影使いとしての修行が始められるのだ。気持ちの昂まりを抑えるために、無心で木刀を振っていた。
柄にもなく昨夜はなかなか寝付けなかったことは言わないでおく。
「そっか。無理はしても、身体は壊さないようにね!」
「ああ」
歯に衣着せぬアドバイスにイオルは頷いた。
自分の体調管理も訓練の一環だ。シウとハクの手を煩わせることはしない。
『じゃあ、始めるとするか』
準備が出来ているのを確認して、ハクが口を開く。
『とりあえず、お前』
まず最初に青い目が捉えたのはシウだ。
彼女の穏やかな顔付きが変わり、ピリッとした空気が漂う。イオルにも緊張が伝わって来た。
『今日から五日は寝るなよ。仕方ねぇから飯は一日2食で許してやる』
シウだけではなくイオルにも念話されるその内容は、年頃の娘に与えるにはそこそこ厳しいもので。
イオルは思わず足元の狼を瞠目する。
ただ。
「……た、助かった……」
告げられた本人は、彼の隣でなぜか安堵していて。
『あ?』
「い、いえっ! かしこまりました!」
シウの呟きを拾ったハク。彼の低い声に凄まれて、彼女は直ちに背筋を伸ばす。
『里の外周して来い。これから毎朝三周な』
シウにメニューを告げながら、その狼は自分の影から小さな鈴を三つ取り出した。
影の手に摘まれたそれらはチリン、カロン、リリンと順番に違う音色を響かせる。
『オレはここでこの三種類の鈴を鳴らす。戻って来たらどの鈴が何回鳴ったか報告。いいな?』
「ハイ」
返事をすると、シウは最後にイオルを見る。
「お互い頑張ろうね」
肩をすくめて苦笑した彼女の顔は、いつもこんな感じなんだ。と語っていた。
「じゃ! またあとで!」
軽く手を振って、シウはそそくさとその場から走り去る。
集まったばかりだというのに、彼女と顔を合わせたのは一瞬だった。
『さて。邪魔者はいなくなったな。これで集中できるぞ』
彼女に試練を与えたハクとくれば、この言い様。
「……結構、その。厳しいんだな」
思ったことをそのまま口にすると、ハクは首を傾げる。
『ただの準備運動だ。これくらい楽にこなせねぇと、女のひとり旅なんてできねぇよ』
当たり前のことを聞くなと咎めるような声色だった。
イオルは怪訝な表情に変わる。
「ずっと気になってたんだけど、そんなに外の治安って悪いのか?」
こんな自分を用心棒として側に置いてもいいと思えるような環境が、そんなにあるものなのか。
イオルは外からやってくる客人の話は聞いていても、外のことは知らない。
いざ自分が旅立つとなれば、綺麗なことばかり夢見る訳にもいかなかった。
『あいつはオレといるのを見られると特にな。都の治安は藩の景気次第だが、城壁の外は無法地帯だ。他人の心配をするのも結構だが、お前も喰われる側にならないよう努力することだな』
ハクは歩きながらそう語る。ごもっともな意見だ。
狼は樹木の横に置かれたベンチの上にひょいと飛び乗り、座った。
『光影術の習得は習うより慣れろ、だ。始めるぞ』
イオルは木刀を己の影に落とすと、ハクに向き直る。
「――よろしくお願いします」
昨日教わった収納の使い方は、完全にモノにしていた。
『お前もこの里で生きてきて、影法師を相手していたら知ってる術もあるだろ。今一番必要とされてる能力が何かわかるか』
「影の鎧」
イオルは即答する。
ずっと前から、この能力に手を焼かされてきた。
もちろん、影の腕にタコ殴りにされたこともあるので、変幻自在に自分の影を実体化させる能力も身に付けたい。
しかし、今優先して覚えたいのはそれじゃない。
レッドゾーンという危険が確約された場所を通り抜けるために必要なのは、最低限身を守る手段。
『そうだ。影の鎧はその名の通り、防具の役割を果たす。影法師必須スキルだ』
ハクは自分の影を、その身体にまとう。
黒い鎧を着た狼の姿はあまりにも異質だ。
『今オレが作ったのは自分自身の影を使って作った鎧だ。濃淡で強度が変わる。ただ、これだと自由に使える影の量が減るから、人間は服の影を利用して鎧を作る』
「よく使われる。露出しているところでも、影を伸ばして防御されたから、攻撃の直前で影を飛ばすためにライトで対応してた」
『……まぁ、そうなるだろうな』
ハクはどこか不満そうに答えて身体を横に寝かせる。
口で言うのは簡単だが、実際にそれを実行して成功させるためには、完璧なタイミングとスピードをもって行わなければならない。それも無能が能力者を相手にするのだから、その行為は毎回命懸けだ。
それを当たり前のようにやって来たと答えるイオルに、ハクは呆れていた。
どう考えても普通の人間がやることではない。
『この技を覚えるのと同時に必要になる技術が、影の実体化。全部まとめてオモテ技と呼ばれる。逆に、昨日覚えたみたいな影が硬さを持たないやつはウラ技だ』
イオルが今まで目にして来た力は、ほぼオモテ技に分類されるものだ。収納以外のウラ技はあまりない。
「なるほど……」
全体でどんな技があるのか知らないイオルは、若干の疑問を浮かべたまま相槌を返した。
『実体化した影に影はできない。自分に接していない影を操ることは基本できない。接触面は影とみなす。これが光影術の法則だから、その辺の仕組みはあまり深く考えるな』
「わかった」
『じゃあ、とりあえずその場に座れ』
言われた通り、イオルはその場に胡座をかく。
昨日ハンゾウに報告してから、彼はもうフードもマスクもつけていない。肌に直接日差しが照りつくのを感じながら、目を細めて狼を見上げた。
『すべてはイメージの問題だ。こちら側の腕を動かしたいと思った時に、説明はできないが動かせるのと同じように。影もそんな風に操る』
イオルは目を閉じる。
影の中に落とされて、ひとつわかったことがある。
あの時、なぜ自分がこちらの世界に戻って来られたのか――。
それは自分という存在を認識することができたからだ。
収納を使う時にも重要だった感覚は、そのモノ自体への認識の仕方。闇に埋もれてしまう概念をいかに掬い出すかが、光影術の真意だ。
ハクの言う通り、すべては自分のイメージで操作される。
(それなら、もうわかる――)
ゆっくり、目を開いた。
『な!?』
異変に気がついたハクが驚嘆する。
先程までベンチの上でだらけていたのに、毛を逆立て戦闘体勢に入ったその狼は、青い瞳を見開いていた。
――あり得ない。
狼の目の前にあるのは、影の鎧をめぐらせ、かつ自分の影から数本の影の腕を伸ばして揺らすイオルの姿。
「ちゃんと出来てるか……?」
不安そうに尋ねてくる彼に、ハクの開いた口は塞がらない。
『――耐えてみろ』
目の前のものが信じられずに、狼は自分の影を鞭のようにしならせて座っているイオルの横腹目掛けて薙ぐ。
「――ッ、いきなりだな……」
そしてイオルはそれを、受け止めてみせた。
『信じられねぇ……』
防御した左腕は鋼鉄のように硬い。
出来ているも何も、完璧だった。
『お前、一体どうやって理解した……?』
光影術は、修行を経て身につけるものだ。
誰もが可能性を持っているからこそ、きちんと学ばねば一流にはなれない。そういう代物。
影の恩恵を受けてから、こうも簡単にできるものではない。
「理解? みんながやってるのを真似しただけだけど……?」
ハクの驚いた様子に気がついたイオルは、戸惑いつつ応える。
この里のみんな、あの道場に通っているものなら当たり前にできていたことだ。
影の鎧は硬い。それは、鋼のように。
しかも稼働性に優れており、鎧というより服なのだ。鎖帷子の上位互換、服の下に身につける薄くて重さを持たない柔軟な鎧。
ずっとそれを相手にしていた。
今なら、それが自分にもできる。ただそれだけのことに、どうしてハクは驚いているのか。
イオルはじっと次の言葉を待つ。
『真似って、お前な……。今まで力がなかったのに、どうして影を操るのを真似るなんてことができる? 見よう見まねでできるようなことではないぞ?』
「そうなのか? でも、ずっと見てたからな……」
重いものを運ぶ時、彼らは影の腕を使っていた。
攻撃から身を守る時、影を盾のように使っていた。
高い場所で作業をする時、彼らは壁に根を張るように影を使って身体を固定していた。
自分を痛ぶる時、彼らは鞭のようにそれをしならせて使っていた。
全部、全部。
イオルはそれを何も出来ずに見ていた。
自分もあれが使えたら。そう心の底で思いながら。
『――そうか。未知の力を理解しようとした努力が、実ったってことだろう』
月の目が真っ直ぐ向けられて、ハクは沈黙を破る。
(今までの、努力……)
狼の言葉はイオルに刺さった。
何をしても、自分の努力が報われることはないと思っていた。
それが、今、ようやく実を結んでくれたらしい。
『光影術ってのは、何も見ないで絵を描くのに似ている』
「……」
話が変わって、イオルは我に帰った。
『ちゃんと向き合ったことがないものは、意外と絵にするのは難しい。影の実体化もそれと同じだ』
ハクはとんとベンチから降りて、イオルの目の前に腰を落とす。
『いい目をしている。これなら予定よりもっと早く里を出れそうだ』
青い目が弧を描き、くいっと口角が上がって牙が覗く。
何故か、その笑みにイオルは鳥肌がたった。
「ハ、ハク?」
『――お前なら、もっとできる。殺す気でやるから死ぬ気で逃げてみろ』
ゆらりゆらりと、ハクの足元の影が躍る。
次の瞬間。
イオル目掛けて鋭く尖らせた影の刃が地面を突き刺した。
「ッ、マジかよ!!」
完全にヤる気だ。
瞬時にかわせたが、これは不味い。
「――あっ、手入れしてる芝が!!」
せっかくいい感じに育てていたのに、このままベンチの周りで戦闘すれば芝生が禿げてしまう。
イオルはすぐさま狼から距離を取り、地面が抉れても良いところまで誘導する。
そのあまりにも円滑で迅速な対応に、ハクの眉間に深いシワが寄った。
『……』
類は友を呼ぶというのは、どうやら本当のことらしい。
狼はまるで人間のようにため息を吐き、頭に浮かんだ娘に向けてリリンと一回小さな鈴を鳴らすのだった。