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隣のあの子は好きなあの子

作者: 垂氷

 唐突だが私には前世の記憶がある。


 恐らく今と同じ世に生きていた……と思う。少なくとも、物心ついた当初の文化レベルは記憶しているものとソコまで変わらない。


 前世の私は、男だった。


 ひ孫が大学を出る時分までピンシャンしつつ、その頃にはやり始めた拡張現実型のゲームなんぞに手を出したりもしていた。冬場の風呂で、好きな入浴剤を入れて、良い薫りに老々介護してくれる妻に、「極楽極楽」なんぞと笑って、彼女がちょいと席を離れた時に瞼を閉じたら、産声を上げていた。

 恐らく湯船で眠ったまま溺れでもしたのだろう。妻には最後まで面倒をかけたと反省ばかりだ。


 産まれたのはまぁ、構わない。

 構うのは今世では、女だ、という事だ。


 しかし……前世の事を憶えている為か、年頃になってからは女性の方に目が行ってしまう、という弊害がある。とうの昔に世にこういうタイプの人間も居ると知られており、個人的な好悪はあれど広く受け入れられてきている。

 さりとて、未だ公然と口にするには世間の目が怖いのが人の心情というもので、私も多くの隠れて悩む者と同じように口を噤み、周囲に足並みをそろえて擬態している。


 産まれた瞬間は恐らく意識がはっきりしていたと思うのだが、その後は薄らぼんやりしていて、前世の記憶といっても、詳細までは思い出せ無いのだが。何というか夢の記憶のような感じだ。

 その割にべたりと魂にでも貼りついているのか、新しい記憶に薄れる事も無く忘れる事が出来ない。困ったものだ。


 小さい頃は違和感、育ってからは自分がおかしいのでは無いかと散々悩んだが、現在は受け入れた。



 さてガラリと話は変わるが、私の親と住んでいる家の隣の家には、いわゆる幼馴染と称される者が住んでいる。


 歳は私と同じ。産まれた月は二月アチラが早いか。

 

 高い身長。それに見合ったスラリと伸びた手足に、淡い色合いの髪と肌、外国人の母を持つ美麗なその子はただしかし残念な事に鋭いその目が周囲を威嚇しているように見えてしまう。


 私たちは幼少期、それこそオギャアと鳴いた時分から、母親同士が親しい事もあり同じベビーベッドに寝かされて、母たちの茶話を遠い意識の中で聞いた覚えがある程度には一緒に居たので、よくよくその繊細な性格を知っていたのではばかりは無かった。


 ただ唯一のはばかりは、その子が男だったという事だ。


 ある程度育つと、周囲からは浮くその容姿と鋭い目つきに絡まれては陰で泣いていた。それを慰めつつ、前世でやんちゃをしていた頃の記憶を元に拳の握り方と、殴り方を教え込んだが、残念ながら反撃をする気概はついぞ持ってくれない優しい子だった。


 周囲に合わせつつも疎外感を感じる私と、周囲が勝手に浮かせるその子は気がつけば一緒に居て、第二次性徴を迎えてもやはり隣に居た。


 それだけ一緒に居れば心も許す物で、何かの折についポロリと自分が前世らしき記憶を持ち、違う性だった為に今では同じ性の子を好きだと零してしまった。

 その時のその子の呆然とした顔に、しまったと思ったのは遅く、


「悪い。忘れて!」


 叫ぶようにその子の部屋を飛び出そうとして、手を掴まれた。


「ち、違うんだっ!!」

 

 慌てた声で叫ぶその子を振り返ると、泣いていた。どこか安堵したような顔で。


「僕も同じなんだ。前世は女で、子供も居た。おばあちゃんになって死んだ記憶があるんだ」


 ポロポロポロポロ玉のような涙を零しながら、小学校低学年くらいからよりハッキリと思い出して来て自分の性を意識し過ぎてしまい周囲に馴染めなくて怖かったこと、誰かを好きなろうと考えると、自分はどうしても男を目で追ってしまう事を告げて来た。


「お、男なのにこんなに弱くて、ごめんね。気持ち悪いよね、ごめんね」


 泣きながら溜め込んだ気持ちを吐露する彼の頭を軽く叩いて、俯いた顔を掬い上げて、恐らく私は困ったような顔で笑った。


「違うよ。私たちは似たような体験をしている同士でしょ。君が気持ち悪いなら私も気持ち悪い事になる。私は優しい君の性質はとても尊いものだと思うよ。謝らないで」

「で、でも……」


 暫く彼の心情をただ頷きながら聞き、慰め、改めてこれからよろしくと言うと、彼はふにゃりと笑って


「うん、よろしく。ありがとう」


そう言った。

 とくりと一つ小さく鼓動が跳ねた気がした。


 同じ悩みを抱える者同士、それまでよりも一緒にいる時間が増えた。


 増えて、そうしていつの間にか、その子が好きになっていた。


 前世が女性だからか、何気ない仕草が嫋やかで目を引かれる。

 鋭い目つきが、私を見た時にふにゃりと柔らかくなるのを見ると動悸がする。


(しまったな……)


 人生二度目ともなればソコまで鈍感という事も無い。

 恋心を自覚して、一人部屋で悩みに悩む。


 相手に前世やら何やらを言わなければ良かったと。


 相手は私が女子が好きでおり、また自分が恋愛対象外であるからして私と気安い関係でいてくれるのである。

 まさかこの私が男子に惚れるとは、親の為にも異性を好きなろうと努めていた割には実感に遠く、いやはや全く思いもしなかった。


(迷惑は掛けられん)


 ならばと高校を別にしようとしたら、泣いて縋って「置いてかないで」と言われれば、逃げる足が止まり、彼を泣き止ます為にその身体を抱きしめる。


 傍に居るのは辛いと分かっていても、好いた相手を泣かせるのは我慢ならない。


(この子に相手が出来るまでだ)


 そう自分に言い聞かせて、下手な事は口にしないと誓った。


 こちとら前世では幼年学校で妻になった女に一目惚れしてから、付き纏い、成人する頃には既に周囲に了承を得た状態で直ぐに籍を入れ、学生ながら子育てしつつ働き、就職して死ぬ間際まで、一途に想いを注いだのだ。

 自分の執念深さは良く知っている。


 が、しかし相手の好みは男だ。自分が対象になる事はまず無い。ならば、と離れようとしたが、それで悲しませるなら本末転倒。好きな相手は幸せにするのが、私の性分だ。


 私は彼の保護者だ。庇護者だ。


 自分に言い聞かせて、それまでと同じように装うと同時に、将来の自分の結婚やら何やらは諦めた。



 そうして一緒の高校に進むことを決めた。


 さて、それから何か変わったかと言うと、何も変わらない。

 ただ思春期の直中に居る為に、仲の良い幼馴染というだけで周囲からはあまりに一緒にいるのだから付き合っているのだ、と勘違いされつつも一年、二年と時が過ぎる。


 準備はボチボチと進学した当初から始めていたものの、ソロソロ本格的に進学か就職か、進学なら大学はどこを、と将来を悩み始め、口にし始めた頃から彼の様子がおかしくなった。


 やけに憂う表情を見せる事が多く、そのせいで登下校時にやたらと絡まれけがをする事も増えて来た。


「どうしたの?」


 夕陽が差し込む教室で問いかける。家に帰るよりも効率的だと、放課後は教室に残って宿題課題やら、将来を選ぶための自己分析やらを下校時刻までやっていた。その日は、他の友人たちも用があると珍しく二人きりだったから、思い切ってみた。


 緊張して待っていると、彼は私を見て瞳を揺らめかせ


「何でもない」


と弱々しい声で言った。


「何でもないって事は無いでしょう。どうしたの? 最近落ち込んでばかりいるでしょ」

「何でもないんだ」

「何でも無いならなんでそんな顔をしてるのさ」


 責める口調にならないように、気弱な彼が話しやすいように気を付けて口にする。

 この頃にはようやく女の自分の容姿というのを、少しは上手に使えるようになって、彼の大きな身体を下から見上げつつ小首を傾げる、なんぞと小細工をしてみる。


 彼の瞳が私を捕らえ、その瞳孔が僅かに収縮するのを見つめながら、逃がさないと視線だけは強く睨みつける様にして居た。


 彼は急にポロリと涙を零すと、御免と叫んで鞄もそのまま椅子をひっくり返して立ち上がり走り去った。


 普段なら容易くは逃がさないが、久しぶりに見た彼の涙に硬直してしまったが為に油断した。


「やはり可愛いな……」


 呆然としつつ零したのは、状況に見合わないそんな言葉だった。脳裏にはつい今しがたの困ったように下がった眉尻の彼の顔が浮かんでおり、どうにか写真に残せないものかと思ってしまう。


 暫く走り去った彼の背中を消えた後を追いかけるように廊下を眺めていたが、ふと窓辺により校庭を見下ろせば校門まで真っすぐ走っていく背中が見える。

 小さい頃は淡い色だった髪は最近僅かにだが色を濃くし、それに比例して艶が良くよく分かるようになったおかげで、まるで夕陽色が翻っているように見えた。


「これで私が男だったら」


(逃がさないのに)


 呟く声は胸に秘め、自分と彼の勉強道具を鞄に納めてしまい帰途につく。僅かな懸念を抱きつつ下足箱を覗けば、なんと上履きのまま帰ったらしい。

 しょうがないね、と苦笑しつつ用務員さんにお願いしてビニール袋を一枚貰い、彼の靴を入れて持って帰る。


 帰り際に彼の家により、忘れものだと彼の兄に渡し、「悪かったと伝えてください」と言付けをお願いして、自宅に戻った。


 私の下に妹二人と弟一人がいるが、塾と習い事で居なかった。両親は共働きでいない。


 私は塾も習い事もいっていない。その時間があれば、彼との時間を少しでも持ちたいと思っていた。

 母は受験を見据えて塾をよくよく進めて来る。先日の模試で上位を取った事を示し自学で行きたいと頭を下げて頼み、暫く様子を見てくれる事を了承させたが、次の模試の申し込みをされたのでそれで成績が落ちたらまた何か言われるだろうから、気が抜けない。

 小さい頃は良かったがこの年になると昔、学んでいた事と違う事が多く、昔の知識がある故にひっかけのように間違える事も多々あるので気が抜けない。


 制服から着替え勉強の支度を整えてから、携帯型の通信機器で彼へ謝罪の言葉を送る。


 あれから時間が経つ事にジワジワと胸のうちがざわついていた。

 今までも諍いはあったし、気まずくなる事もあったが、どうやら今回は雰囲気が違う事になりそうだと、そんな予感がして。


 嫌な予感というものは当たる事が多いようで、やはり彼が明らかに私を避け始めた。

 それが一月、二月と続けば、周囲がざわついた。


 目が鋭いとはいえ、これだけ長く地元の学校に通って居れば彼の性格を知る者はかなりいる。更に周囲からの評判をいえば目元を除けば、かなりの美形だ。まぁ、私は彼の目元も好ましいが。

 放課後一緒に勉強していた仲間内からは心配されたが、喧嘩というわけでも無いので曖昧に笑ってごまかすのが精々だ。

 

 そうしている内に周囲の子の中には彼に声をかける女の子も出始めた。

 これまでだったら遮ってやったが、何分彼が私を避けるのだ。庇いようが無い。


 私の方は仲の良い、友達と昨日のスポーツの話しなどしつつも横目で彼を追っていた。まぁ、視線を合わせるようなへましなかったが。

 どうやら落ち込んでいると見えたようで、中でも男どもがやたらと大丈夫かと聞いて来る。


 そう聞かれれば「大丈夫」という言葉しか返せない。違うと言っても、さてどうしてこうなったのか、具体的な話は全く分からないのだから。


 帰り道もバラバラになっていき、これまでは彼と供に居た場所を、気付けば違う男子と肩を並べて歩いていて、ふと虚しくなった。


「あーのさ、一人になりたいから、ここまでで良いわ」

「え、いや、あのさ、……家まで送るよ」

「いや、一人になりたいんだって。つか、家別方向でしょ、何でコッチ来てんの? どっか行くの? さっさと行ったら?」

「――――分かった、じゃあな」


 胸の奥から湧いて来る僅かなイラつきに口調が乱暴になっていたのもあってか、男子は不機嫌そうに言い捨てて踵を返していった。

 それを見送ってため息を零す。一緒に帰ろうと誘われて、ろくに考えもせずに頷いたのは自分だ。


「ぁーーーしまったなぁ」

(明日謝ろう)


 八つ当たりした自覚は多分にある。

 冷静な自分はそう思っているのだが、何分この年頃。感情の制御が難しい。

 何と言えば良いのか、いつも隣に在る筈の存在が無いために、普段なら無意識に供給されて補給している彼の成分が足りない、という感覚だ。


(ぁあああああああ無理。もう無理!!!!)


 叫び出したい衝動のままに駆けだして、彼の家へ突撃したものの、先に帰った筈の彼は居なかった。


 イライラと自宅に戻り、私服に着替えて勉強道具を広げたが集中なんぞ出来ず、更にイライラと駅前へと向かう。

 本屋にでも行けば気がまぎれるかと思ったのだが……、そこで泣いた目元の同級生の隣に並んでホテル街の方から歩いて来る彼の姿を目撃した。


 隣に歩くのが女なら、もやつきはするものの安心出来たが、……同級生は男子だった。


 彼よりも小柄で、がさつな私などよりも大人しい、男の子。私も共通の友達ではあるが、いつの間に彼らがその関係になっていたのか、全く知らなかった。


 暫く無言で二人を眺め、雑踏にその姿が紛れた後適当に彼らとは違う方向へと足を向けた。歩き始めた足が速くなり、いつの間にか走り出していた。走るのは苦手だと言うのに足を止められ無かった。


 金臭い息を零しつつ痺れた足を止めた時には周囲はすっかりと夜に染まり、街灯が時折闇を散らしている。


(良かったでは無いか)


 そう何度も自分に言い聞かせるように心中で呟くが、虚ろの感情が一つも動かない。


 痺れた足で千鳥足のフラフラと歩を進めていたら何にもない場所で自分の足に足を引っ掛け転がる。立ち上がろうとして足首を痛めたのに気づいた。厚手の布地の下で膝もすりむいている気配がある。


 ため息を吐き周囲を見れば住宅街の合間に設けられた緑地とでも呼べば良いのか迷うような街区公園が目に入った。

 足を引きずりながら入り、ポツリと墓石のように立っている水場で裾を上げて膝を洗う。たくし上げる時に気付いたが、膝のあたりに穴があいてしまっていた。

 膝も思ったよりも気前よくずる剥けており、膝を晒した僅かの時間で靴下まで血が伝っていた。

 夜になったとはいえこれからどんどん暑くなっていく気候。ソコまで気にせずに、びしゃびしゃと盛大に水音を鳴らして傷口を洗った。ついでに足首も冷やす。

 目尻に滲むのは痛みの涙だ。それ以外には無いと自分に言い聞かせて、水をしばし当て続けた。


 その後、僅かに出血が落ち着いてから公園のベンチに座る。靴下は脱いで、足は適当にハンカチで拭いたがそれでも湿っている。傷口を乾かす為とこれ以上服を汚さない為に裾は太ももまでたくし上げて置いた。

 乾かす意味も含めて足を投げ出して、踵を靴の上に置いて伸ばす。乾いていくにしたがって足首がジンジンと熱を持っていく気がした。


 帰らなくてはと思うが立ち上がる気がおきてこない。


 遊具も何も無い、砂場が一つと緑が植えられただけの場所だ。以前ブランコでもあったのか基礎と柵だけが残った場所がある。後は簡易便所が一つと自動販売機が一台。先ほど膝を洗った段違いの水場が一つ。ゴミ箱も無い。ベンチが自分が座っているのも含めて二つ。暗がりに置かれているそれが黄色に塗られているのが自販機の明かりで辛うじてわかる。


 ブンと自動販売機が唸る音がする。

 近くの街灯がチカチカと点滅し、座った場所から見える道の角にあるコインランドリーの灯りに引き寄せられた虫が窓にぶつかる音がする。


 自分の座る所はそんな光たちからはぐれて、僅かにおこぼれに与って薄暗い中に居る。


「良かったじゃ無いか」


 もう何度目だろう心中で繰り返す言葉を口にしてみる。


 が耳に入った自分の声に湧きあがった吐き気を催す激情に唇を噛みしめる。


 何が良かったものか。どこが良かったものか。


 彼の腕を肌を自分以外が与えられたのだ。あの可愛らしい男子が、与えられたのだ。


 具体的に想像して、はたと止まる。


(まて、彼が抱いたのか?)


 例え高身長で細身とはいえ気弱を直そうと空手や居合、柔道と大会には出ないものの既に茶帯と黒帯の彼。おかげで昔よりはガタイが良くなった。とはいえ女が好きになれない彼が、だ。前世が()()()()女が好きになれないと零した彼が、だ。


(抱かれるでなく?)


 先ほどの様子からはあの可愛らしい男子が抱かれたのだと思ってしまったが、逆だったのか。泣いていたのはてっきり尻が痛いからと思ったが、抱けた感動にか。にしては……彼の歩き方に違和感は無かった。

 

(いや、今回が初めてでないなら……慣れる程抱かれているとして、それなら何度も抱いてるならあの男子が泣いていた理由が分からん)


 はてと俯く。

 彼らが付き合っていない、というのはホテル街から来た事も考えて……、どうなのだろうか。


(抱こうとしたが上手く抱けなくて泣いていた、と? たしかにあの体格差なら抱くのは互いの協力と馴れが必要……か?)


 はてなはてなと自分を納得させる理由を探し、下世話な事まで考えていると、砂利を踏む音が随分近くにする。視線を上げるとやけにふとましい腹の背の小さい男の影があった。

 微妙に虚ろな目と、思わず眉間を寄せる臭い、引きずる靴は踵が擦り切れている。


 少し坂を下るとある高架下にたむろしている住居不定未就労者たちの一人だろう。中には就労している者も見受けられるが、そのような者たちはまずもっと身綺麗だ。


「幾らだ?」


 不躾に掛けられた声に私は無視をして、靴に爪先を突っ込み立ち上がる。裾は自然と落ちた。

 僅かに引きずりつつ背を向け歩き出して


「おい」


詰め寄って来る気配にさっさと横に避ける。

 その動きに一つ奥歯を噛む。


「売ってない」

「こんな時間にこんな場所に居て何言ってやがる」

「どんな時間にどこに居ようと私の勝手です。変な言いがかりつけないでください」


 普段ならそのまま駆け出して逃げるのだが、いかんせん立っただけで喉奥で呻きたくなるほど痛い。筋を痛めていなければ良いのだが。

 あまり運動が得意でないこの身体。幾つかお稽古事としてお試しに行ったが、どれも合わなかった。何より走るのが苦手だ。登山や遠足など都内五駅ほどを歩く持久力ならあるのだが、何故か走るのは苦手だ。

 直ぐに身体の中が熱くなって続かなくなる。授業の持久走などで頑張ろうとするのだが、結局熱にやられて昏倒するのだ。

 おかげで鍛えるという行為からは縁遠い。隔日の筋トレと毎日のストレッチは寝る前に必ずやってはいるが、機敏からも縁遠い。


 詰め寄られたら逃げられない。


 現状の自身のスペックに歯噛みしながら、ジリジリと足を下げる。以前の世なら一時傭兵としてすら働いていたのに。


 救援を呼ぼうかと携帯型の通信機器に手を伸ばそうとして、机の上に置いたままだった事に気付く。

 時間を測る為に勉強する時は机の上の定位置に置くのだ。いつもそうしている。時折一週間ほど机の定位置から動かない事もある程度にはそうしている。


 いつもの習慣が仇になった。今持っているのは入金式カードの入った小銭入れだけだ。本を数冊買うならコレだけで事足りる。


(しまったな)


 助けてと叫んだ所で、果たして誰が聞きつけてくれるのか。

 住宅街なればこそこの時間になると人通りが少ない上に、近くを鉄道が走る為に防音性も高く叫んだ程度では室内の者には届かないだろう。

 元より危険な事は避ける方が賢いと私自身が想うたちだ。

 防犯用品なども携行はしておらず、さてと背筋を危機感が伝い落ちる。


「足出して誘ってたんだ良いだろ」

「誘ってません。良くないです」


 ひやひやと足元が冷える気がするのは未だ乾ききっていなかったのか、それとも単に心理的な感覚か。未だ塞ぎきらない膝の傷が動いたせいで更に開いたか零れた血を吸いきれず伝い落ちる温い感触がやけに敏感に感じて、鳥肌が立つ。


「幾ら出せば良い? 一万か? 二万か?」

「だからお断りします。いくら出されても無理です」


 ゆっくりと後退るのに合わせてか、律儀に距離を守ってくれながらついて来る男が街灯に照らされて見えて更に顔を顰める。


(こんな事に金を使う余裕があるなら、銭湯に行って歯医者行け)


 声に出さずに零す。表情よりも何よりも相手の口から覗く幾本も抜けた歯ならびと薄暗くても分かる黒く淀んだ肌色にふけの浮いた髪と粉を拭いたような肌が見えれば、生理的嫌悪感を覚える。


 薄暗がりでも汚れていると思ったが、光の下では更にだ。というより股間のその染みは何で出来た染みだろうか。考えたくもない。


 咄嗟に爪先を突っ込んだだけだった為に、踵を潰して履いた靴が硬くて非常に痛い。普段踵を潰して履くなどしていなかった為に、上手くおられてくれない。


 結果爪先で歩くようになり、更に足首が痛くなる。


「本当にお断りしまっ!?」


 ジリジリと下がっていた足が何かに引っかかる。上手く身体を保てず後ろ向きに尻もちをついて倒れ込んだ。


「痛ッた……」


 元々痛めていた足が更に熱を持った気がする。こけた原因を見れば、植えられた低い木と砂地を分ける低い柵の足元の基礎のボルトだった。僅かの段差が今は致命となったらしい。

 咄嗟に着いた手が痛い。


「は、誘ってんのか?」

「はぁ?」


 さげすむような声で言われて、思わずすごむように返して裾がめくれあがり太ももまで見えているのに気づく。

 一応スカーチョなので下着までは見えないとは分かっているが、舌打ちが零れる。

 すぐさま足を隠しつつ、立ち上がろうとして距離を詰められた。立ち上がる為に掴んだ低い柵を握る手が小刻みに震えているのが情けない。


 悪臭に思わず鼻と口元を空いている手で抑える。その手が先ほどこけた時に地面に着いた為にじゃりっとしていた。


「ああ、金など払わなくてもさせてくれるって事か」

「ちがっ」


 叫び返そうとして悪臭を吸い込み鼻の奥がツンとして吐き気が込み上げる。涙まで滲む。

 

 せめてもの抵抗に睨もうとして、思わぬ近さに息を呑む。

 不意に質量を持ったと錯覚するほどの恐怖が込み上げた。逃げようが無い。自分の弱さを知っている。男の地力を知っている。前世で妻相手によくよく女はか弱いと思ったものだった。

 それがこんな場所で、こんなにハッキリと自覚するとは思わなかった。初めて月経を体験してその辛さに世の中の女性へほとほと感心して以来の衝撃かも知れない。


 伸びて来る爪の先が黒いのがやけにはっきり見える、薄黒い手が酷く怖い。


 何か叫んで助けを呼ばなければと思うのに、息をするのも怖い。


「ゃ……」


 非常に弱い声が喉を鳴らす。喉の奥になにか絡まったように声が出ない。

 自分が震えているのが、口に当てた手で分かる。見上げる男の虚ろな目がニタリと笑ったのが見えた。


 触れられたく無くて、もがくように僅かに下がる。上半身が街灯の光から外れて陰に入った。


 暗闇から見上げる男は余計に不気味で醜悪に見えた。


 触れられたくない。


 誰かにココまで強く思うのは初めてだった。


「さ、さわらないで」


 出た声はまるで弱々しかった。男の瞳が逆光の中でギロリと光った気がした。


(駄目だ、これでは駄目だ)


 分かっている。もっときっぱりしないといけないと、分かっているのに動けない。こんなにも自分は弱かっただろうか。かつて海外に居た時分、職業軍人として戦地に出た時に追い込まれ最後まで生き足掻こうとしていた時の、片足に銃撃を受けても仲間を背負って建物の影に這って逃げた時の気の強さはどこへ行ってしまったのか。頭上から降り注ぐ銃弾の中を物資を担いで仲間の元に駆け抜けた時の度胸はどこへ行ってしまったのか。隣の仲間が狙撃されて肝を冷やしながら、相手がどこに居るとも分からない恐怖の中で、匍匐前進でがれきの中をかいくぐり情報を持って帰った時の自分はどこに行ってしまったのか。


 こんな相手、蹴りの一つで吹っ飛ばせたのに。


 その筈なのに。


 口元に触れる己の手はあまりにも小さく、薄く、か弱い。


 かつて帰国して抱きしめた妻の様に、細く頼りない。


(ああ、そうか……今の俺は)


 なんと頼りない。


 かつて鍛え上げた力強い身体も、積み重ねた実績も、潜り抜けた経験も、全てはかつての、もう手の届かない己のモノであって、今の自分のモノではない。


 そんな事とうに知っていたのに、分かっていたのに、理解していなかった。


 男の自分は今この瞬間も、立て、殴れ、せめて逃げろと言っているのに、女の自分は同じく叫んでも恐怖に身体が動かない。


 震えが止まらない。


(ああ、私は女なのか。それもか弱い部類の脆弱な生き物なのか)


 頭のどこか冷静な場所で自分を切り捨てるようにそう思う。


 もう触れられる、と言う時に


「――――ッ!」


 無意識にか細く叫び呼ぶ。


 それと同時に背後から大声で呼ばれた。


 目の前の男が素早く顔を上げて、何かを認めると舌打ちをして踵を返した。

 背後から幾つかの足音が近づいて来る。


 名前を呼ばれて前に回り込まれて顔を覗き込んで来たのは、幼馴染の彼だった。


「大丈夫?」


 優しく聞いて来る眉尻の落ちた鋭い目。ジワリと涙が浮かぶ。


「大丈夫」


 何とか返したものの震えが止まらない。そんな私を彼は抱きしめてくれた。今だけは、と自分に言い聞かせてその肩に顔を埋めて涙を彼の服へと含ませた。


(情けない、情けない情けない……!!)


 自分への落胆が胸に迫く。同時に包まれる温かさにどうしようも無く寄りかかってしまう自分への叱咤が頭を駆け巡る。

 大丈夫と笑って立ち上がらなくてはと分かっているのに。それでも安堵に力が抜けるのが止められなかった。

 

 彼が連絡をすると母が近かったらしく直ぐに駆けつけて来て、受け渡される。それが寂しくて、思わず縋ろうとした手を握りしめ顔を俯ける。その後に彼の父や私の弟も来てくれた。


 話を聞くに基本的に夜には居る筈の私が、帰宅しても居ない事を心配した両親が探してくれた結果らしい。普段、遅くなる時はメモなりなんなりで連絡を欠かさなかった習慣が幸いした。


 問いかけて来る母と、宥める様に声をかけてくる彼の父親。どうやら他にも探してくれたようで、直ぐ傍で弟が幾つか連絡をしてくれていた。


 泣き続ける私をどう思ったのか母の隣から彼が抱き上げる。つっかけただけの靴が落ちる。同時に足に伝っていた血も幾滴か落ちる。


 重い沈黙が束の間落ちた。


 そんな事に自分の事で一杯だった私は気づかず、彼には自分は重いだろうとか、流石にこの抱き上げられ方はとか、と冷静になったつもりで全く冷静になれず洟をすすりながらしゃくり上げつつのたどたどしさで「大丈夫だから」を繰り返して暴れる私に危険を感じたのか降ろして貰ったら、靴を拾う余裕もなく足首の痛みに蹲った。足首の怪我を今さら思い出した。

  

 ギュッと彼の薄手の上着を握ったまま、冷や汗を流す。


 声をかけられても痛みに声も出ない私の様子にすぐさままた彼が私を抱き上げてベンチに移動して、足を確認する。弟が落ちた靴と抱き上げられた時にポケットから落ちたのか、脱いだ靴下を拾い上げて近寄って来るのが彼の肩越しに見えた。


「全然大丈夫じゃないじゃん!!」


 彼の叫び声と掴まれた足首の痛みにギュッと目を閉じる。同時に座った事で服にジワリと染みた血により慌てて裾をまくられ、血が膝からのものと知れて空気が弛緩した。

 僅かに漂っていた緊張にその時ようやく気付いて、視線で尋ねれば首を横に振られた。


 足首がぐんず色に腫れあがっているのに悲鳴を上げた母がすぐさま父に電話をして車を回してくれて、そのまま病院へと行くことになった。その間私は彼の上着を手放す事が出来ず、強制的に彼も随伴となった。

 弟や彼の父親などは心配しつつも帰宅した。


 足首は靭帯が伸びていて、暫くはギプスで固定となった。恐らく最後にこけた時が決めてだったと思う。

 

 保険証を持って再度合流した弟と彼とに挟まれて後部座席に乗り込んで、父の運転で彼を家に送ってから帰宅する。とはいっても隣だが。握る手の先が彼の上着から彼の手に代わり、握り返してくれた。

 そんな事にまた洟をすすり、それを今日の事と誤解させてごまかした。 


「今日はすまなかった」


 降りる彼の背中に謝ると、振り返った彼がコツリと俯く私の頭を軽く叩く。視線を上げると、僅かに苦しそうな顔をしていたのが一瞬見えた気がした。一つ瞬く間に柔らかい笑みに変わっており、首を横に振り「違う」という。暫くその柔らかい視線を見て、困ったような顔に変わるのを見ていて気づく。


「助かった。ありがとう」

「うん」


 一つ頷いた彼が両親と弟に声をかけて家に入っていく背中を見送った。


「仲直りした?」

「分かんない」


 潜めた弟の声に私も抑えた声でポツリと返した。元より喧嘩すらしていないのだが。



 翌日改めて病院に行き、更に直前にあった事もありカウンセリングも受けて、暫くは学校でカウンセリングを受ける事になった。

 少し時間を置いてから襲われかけた事のストレスが表面に出て来る事もあるらしい。


 松葉杖をつきながら学校へ行くと探すのに協力してくれたり、連絡が行った友人たちが心配の声をかけてくれる。

 それにどう反応していいか戸惑いながら返答していれば、彼が怪我した私をいつまでも立たせておくんじゃないと、彼にあるまじき強い声で言って席までわざわざ案内してくれた。

 座ってから本当に彼かと見上げれば、いつの間にか彼に髭が生えてきている事に気付いた。剃った為か僅かに顎の皮膚が乾燥している。

 前世の知識を活かし後でケアの仕方を教えてやろうと考えながら、何だと問いかけて見下ろして来る彼に何でも無いと首を振った。


 親からはタクシーで帰れと言われたが、ソコまでの距離では無いとそのまま帰ろうとしたら彼に捕まった。

 一人で帰れるというのに鞄を奪われて、隣に並んでくる。

 普段の柔らかい雰囲気が消えてやけに固い雰囲気に何か怒らせたかと窺いみるが、まれに見る不機嫌顔に困惑しかない。そんな彼のようすにか友人たちはそそくさとお見舞いの言葉と気を付けてねという言葉を残して帰っていく。

 取り残された帰り道で久しぶりに彼と肩を並べていた。


 短いやり取りを幾つかして、最終的に諦めて直接な問いを口にする。


「今日は用事は良いの?」

「こんな時に嫌味か?」

「いや、彼……付き合っている相手に悪いかなぁって」

「はぁっ!?」


 なれない松葉杖に早々に脇の下が痛いと思いながら、ひょこひょこと跳ねて、そんな動作に集中するふりで僅かに震えてしまう声を誤魔化せていればいいなと思っていれば、すっとんきょうな声が返された。

 何だと視線を向ければ、呆然と見られていた。


 一応「彼」の部分は小声で言ったのだが、聞こえていなかっただろうか。


「今さらかまととぶるつもりも無いよ。もう寝たんでしょ。大丈夫知ってる。これから一緒に居るのももう別の人の役目だね」


 私は何とか笑って、なるべく明るく言い、また視線を地面に戻して慎重に松葉杖を前に着いて、身体をひょこりと跳ねさせる。


(明日は脇に着くところにタオルを巻くか。こんなに痛いものだったか?)


 前世では何度か使った事があるが、木のままでもソコまで気になった事はない。何なら両松葉で身体を浮かせて歩けた。何故今回はこんなに痛いのかと考えて、身体を支える腕力の違いに気付く。

 身体を支える力が足りないから、圧力がかかる箇所が擦れて痛むのだろう。


(情けない)


 昨晩から度々感じる今世の身体の不甲斐なさを改めて感じてため息が零れる。


 それに反応したのか、彼がポツリと独り言のようにいう。


「付き合ってる人なんていないから」

「そ……なんだ」

「うん」


 ホッとした気持ちもありつつ、すんなり受け入れる事も出来なくて、では昨日のアレは何だったのか、とグルグルと胸に抱きつつも、問いかける度胸も無く、私は口を噤む。


 彼もまた無言で私を家まで送ってくれた。


「ありがとう」


 そう言って玄関で別れの挨拶をする。


「へや」


 彼が唐突に上げた声に止まる。

 靴を脱ごうと下げていた視線をあげれば、未だ玄関のドアを開けたまま境目で立ち止まっている。


「部屋行って良い?」

「……どうぞ」


 急にどうしたのだろうと疑問符をつきそうな口調で返答した。今さら尋ねて来るような間柄でも無いと思うのだが、と視線できけば何故かため息を零された。


 ならば部屋に行く前にお茶の用意でも、と思ったが勝手知ったる何とやら。俺がやるから、と松葉杖の地面に着く部分を用意してあった布で拭いてくれた上に、階段を支えられて上がり先に部屋に届けられた。鞄も言わなくても定位置に置いてくれる。


 下からのお菓子にポテチ貰って良いかという声に、「どーぞー」と叫び返して、やけに速く鳴る胸元を抑えながら部屋で立ち尽くした。


 もしかして昨日の事を教えてくれるのかとか、彼の雰囲気が僅かに緊張していたのが分かり過ぎるから何か気に障った事でもしたのかとか、今さらながら頭の中で巡らせて落ち着かない。


「何してるの?」

「え、いや」

「足、辛いでしょ。座りなよ」

「あ、はい」


 自室なのに身の置き場所がない。


 どうしようと視線を彷徨わせる私をさっさと机の椅子を引きだして座らせ、自分は慣れた仕草で、机に一度お盆を置いてから、机の背面と壁の間にしまわれた折り畳みのローテーブルを出す。

 一言断ってからクローゼットの中にしまわれたクッションを一つ取り出し、奥と机に私用にグラスとポテチを置いて、自分はグラスだけ持ってクッションの上に座る。


(ん、自分が食べる為に持って来たんじゃないの?)


 時分の肘の近くに放置されたポテチを見下ろしつつ、動くことも出来ない。

 この間まではこの部屋に彼が居るのに違和感など無かったのに、何故か今は少し息苦しい。

 それと同時に、ここ最近寂しかった部屋に足りなかったものが戻って来たような落ち着きも感じる。


 無言のまま暫くして、急に動き出した彼にビクリと肩が勝手に跳ねる。

 彼はグイッと手に握っていたグラスを一息で飲み干して、私を睨んだ。そしてグラスをテーブルに置くコトリという音に被せて言う。


「好きだ」

「……は?」


 急な事に色々と流れていた思考が止まり、出たのは情けない声だけ。


「好きだ、好きです。好きになりました。男が好きって言ってたのにすみません。気持ち悪くてごめんなさい。でも好きになりました。なってしまいました。」


 固まった私の目の前で、滑らかかつ丁寧な動作でクッションから降りて三つ指ついて頭を下げる姿に更に思考は白く染まる。


 視線の先で言葉と共に段々と頭が下がっていき、ついには床に額を擦りつける体勢になって


「前世とかなんとかどうでも良くて、あなたが好きになりました。男とか女とか関係なく、あなたが好きです。どうか、俺と付き合って下さい。」


叫ぶように言われて、再起動を必死にしようとしていた思考も弾け飛んだ。


 二人の間に漂う沈黙が静かすぎる。


 何も返せないでいる私を、モゾリと下げられた頭が動き鋭い目つきの中で怯えるような縋るようなまなざしが覗いて、貫いていく。その眦に僅かに浮かぶものが目に入った時には


(泣くなっ)


考える前にそう頭の中で叫んでいた。


 がたりと鳴った音が自分が立ち上がった音だとは気づかずに、踏み出そうとして走った足の痛みに


「――ッ」


体勢を崩した私を、あの姿勢からどう動いたのか倒れ込む前に彼の腕が受け止めた。

 がっしりとした胸に頬が強かに打ちつけられて、その衝撃で息を止めていた事に気付いた。


 荒い呼吸をする私を抱きしめて、彼は耳元でしきりにゴメンと繰り返す。


(―――――ああ、そうか)


 そうして私は気づく。


 私たちはお互いに前世という物に縛られ過ぎていた事に。

 

 今世の私が私として生きるのを感じる度に物、胸の中の蟠り。ざわりとした雑音の所為で、己の感性をそのまま受け入れるのが難しい。その齟齬を供給しているが故に、お互いが感じているだろう不快感をあまりに具体的に想像出来てしまう。

 それでも、今世の自分と前世の自分との齟齬ゆえの不快感を覚えたとしてもしても、捨てきれない感情と欲求が、きっと……


 この彼の背に回して縋りつく手なのだろう。


 涙を零して、呼吸を殺して、情けない程にしゃくり上げながら私は彼に縋りついて


「好きだ」


言葉を返した。


 ビクリと彼の身体が強張って、それから逃げようとするのを縋りついて、話し合って泣き合いながら想いを確認し合って、互いに深い沼に溺れる者同士のように抱き合ってしがみついて、そうして……そうして……。


 馬鹿みたいに笑った。


 泣きはらした目で見つめ合って、額を付けて笑いあって、そっと確信する。


 明日から、いやこれからも彼の隣に肩を並べて家への道を歩くのだろう、と。

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