上野駅零時零分発
もうすぐ日付が変わる。午後十一時五十七分。上野駅の構内で電車を待っている。イヤホンが吐き出す英会話を聞き流しながら、単語帳をめくる。学校が終わると塾に直行し、講義が終われば自習室で過ごす。帰宅はいつも一時前だ。灯りの消えた家に、寝るためだけに帰る。ただひらすらに繰り返す平日のルーティン。
ふっ、と、蝋燭の火を吹き消すように構内の灯りが消える。突然に降る真の闇。スマホの光さえ消えている。何事かと顔を上げ、イヤホンを外す。古い蛍光灯が瞬き、重苦しさに抗うようにゆっくりと光が戻った。ほっと溜息を吐き、イヤホンを耳に戻そうとして違和感に気付く。音が、ない。人の気配がない。慌てて周囲を見渡す。光は戻ったものの、普段より少し暗い気がする。そしてさっきまで決して少なくない数の人がいた駅のホームは、私一人を除いて誰もいなくなっていた。
「え?」
思わず戸惑いが口に出る。灯りが消えたあのわずかな時間に、皆一斉にどこかへ行ってしまったのだろうか? 何のために? いや、そもそもあの短時間でそんなことは不可能だ。でも、実際に誰もいない――
そこまで考えて、気付く。本当に灯りが消える前にはホームに人がいたのだろうか? イヤホンをして、ずっと単語帳を見ていた。周囲の様子を気にしてなどいない。毎日同じ時間、同じ場所にいて、昨日と今日の違いを把握しているだろうか? 人がいたのは昨日だったのではないか。今日は最初から、独りだったのではないか。
軽く頭を振り、イヤホンを耳に戻す。なんだが少しぼんやりとしている。誰がいようと、誰もいまいと、どうでもいいような気がしてきた。どうせやるべきことは変わらない。単語帳に目を落とす。
勉強以外何もしていない。友人はなく、流行にも疎い。正確に言えば、自分自身のことで手一杯で、他のことに気が回らないのだ。勉強にしがみついている。勉強さえしていれば、とりあえず周囲から非難されることはない。変人扱いはされているとしても。
同級生を眩しく見ている。なんて体力だろう。勉強も、スポーツもそれなりにこなし、流行を追い、遊びを楽しみ、恋までしている。あまりに自分とかけ離れていて、うらやましいとさえ思えない。不安にはならないのだろうか。何の役に立つのか分からない、とはよく聞く言葉だが、未来の脅威に備える武器を揃えているのだ。素手で戦場に立つ恐怖を想えば、今の徒労感など問題にならないはずではないのか。
『二番ホームに電車が参ります。白線の内側までお下がりください』
ホームアナウンスが流れ、電車が目の前に滑り込んでくる。やけに静かだ。ブレーキ音はおろか、レールを通過するガタンゴトンという音さえしない。前からそうだっただろうか? いつもイヤホンをしていたから、気が付いていなかっただけなのだろうか? 考えがまとまらない。頭の中心がしびれているような、浮遊感のようなものを感じる。
ぷしゅー、という音を立てて、電車の扉が開く。ああ、そういえば、いつの間にか転落防止柵がなくなっている。いや、最初からなかったのだったか。いつか付くという話を聞いただけだったのかもしれない。まあ、どうでもいいことだ。現に今ないのだから、そういうことなのだろう。顔を上げて電車を見る。電車の中は無人だった。珍しい。座る場所を探す必要がないのは喜ばしいことだ。ただ、自宅の風景と印象が重なり、少し気持ちが悪い。
両親は、子供に興味のない人間らしい。食事を与え、衣服を与え、寝場所を与え、教育を与え、さあ、義務はすべて果たしたぞ、あとはお互いご勝手に、と考えているようだ。あまりに自然にそう振舞うものだから、疑問を差し挟む余地もなかった。今は、そういうものじゃないだろう、とも思うが、まあそんなもんだよね、とも思う。自分の時間を邪魔されたくないという気持ちは理解できるが、たぶん、私たちは『家族』に失敗している。
どうして急に両親のことなどが頭に浮かんできたのだろうか。普段に比べて明らかに集中力がなく、考えがあちこちに飛ぶ。今日覚えた単語は一つもないな。思わず苦笑いが出る。いったい私は何をやっているのだろう。他の、普通の人々が当たり前にできることから目を背け、勉強にしがみついているくせに、何の成果もない。未来を描くこともできずに、怯えてばかりで、言い訳ばかりで、なんてバカバカしい。こんな毎日を、これからも続けていくのだろうか。そのことに何の意味があるだろう。だけど意味があろうがなかろうが、私にはそれしかできない。だとしたら――
私に、何の意味がある?
『上野駅零時零分発……行き、間もなく発車いたします。閉まるドアにご注意ください』
どこかくぐもったホームアナウンスが聞こえる。マイクの調子が悪いのか、不明瞭な声はよく聞き取れない。電車の扉がぽっかりと口を開けている。電車に乗らなければ。この電車はいったいどこへ向かうのだったか、どうにも思い出せない。思い出せないが、たぶん、このままここにいるよりはマシだろう。私は電車に向かって足を踏み出し――
「おい、なにやってる!」
強い力で後方に引っ張られ、私は思わず振り返る。サラリーマン風の若い男が、私の右手首あたりを痛いくらいに強く握っていた。駅のホームアナウンスが聞こえる。
『二番ホームに電車が参ります。黄色の点字ブロックの内側までお下がりください』
男は真剣な、少し怒ったような顔でこちらを見ている。けたたましい音を立てて電車がホームに滑り込んできた。これはいったいどういうことだろう。ホームにはたくさんの人が並んでいて、電車はたった今到着したらしい。理解が追いつかず、私はぼんやりと男を見返していた。
電車から人の群れが吐き出され、ホームの人波が電車に流入する。男は「命を粗末にするな!」と抑えた調子で私に怒鳴ると、手を離し、電車の中に消えた。
『上野駅零時二分発北春日部行き、間もなく発車いたします。閉まるドアにご注意ください』
ぷしゅー、と音を立てて扉が閉まり、電車は動き出す。遠ざかっていく電車を見つめながら、私は呆然とホームに立ち尽くしていた。