祝杯の甘さに酔いしれて
大人になったことを実感できる時って、案外少ないものだ。
まず、私はタバコの臭いや煙が苦手だから、全く吸ったことがない。吸う気もさらさらない。
車の免許は持っていて実際に何度か乗っているけれど、昔よく遊園地で運転していたゴーカートに乗っているのと同じ感覚で乗り回しているから、これもあまり大人を私に感じさせてはくれない。
そんな私が、「あ、私、大人の時間を満喫してる」って珍しく思えるのが、今この時。
「学祭無事成功、おめでとう!」
かちん、と乾杯の音があちこちであがる。
例に漏れず、私も周囲の部員と共に、軽く入ったソフトドリンクの杯を掲げてぶつけ合った。
なんで乾杯にソフトドリンクかというと、飲み屋が混雑しているので店員がピッチャーで飲み物を持ってくることになり、その際持って来た飲み物の選択肢がビールorソフトドリンクだったということで。
何その究極の選択。
ちなみに私は、ビールが苦手だ。あとワインも苦手。
アルコールの味が苦手なので、アルコール度数の高い物もアウト。
それなのにこうして飲み会に来て楽しめるのかと問う人もいるかもしれないが、全く酒が飲めないという訳ではないのでそこは心配いらない。
こういう若者向けのチェーン店の飲み屋で出る酒は大抵、かなりアルコールも薄くなっているし、甘くて飲み心地の良い物が多いからだ。
普段、私は地元の最寄り駅から自宅まで車を運転する関係で、大学の友人や部員らと酒を飲むことが少ない。
元より酒に弱い体質なので、あまり積極的に飲みたがるタイプでもないので、さして困ったことはない。
けれどそれでも、たまには飲みたくなる時もある。今日は「そういう時」だった。
この一ヶ月の間、ずっと続いた幼稚園実習によって、私は随分と部活の仲間と縁遠い生活に身を置くことになった。あと数ヶ月で引退だというのに、全くもって寂しいことだ。
学祭のだし物に参加することも叶わず、学祭準備という、皆と仲良くする機会も失ってしまった身としては、この飲み会は、外すことのできない「イベント」だった。
そして、もうしばらく酒をたしなんでいなかったため、不意に甘い酒が飲みたくなったのだ。
そんな色々なタイミングが重なり、普段ならさして重要視しないイベントに乗り気になったという訳なのである。
くじによってランダムに分けられた席順で、私の周囲は、とても穏やかなメンバーが集まった。
これには私もとてもありがたさを感じている。
私は、静かにまったりと、色んな話をしながらお酒を飲むのが好きなのだ。
そういう訳なので、お酒を飲む際、やんややんやと暴れわめきちらす輩が、私はどうしても苦手だった。
一度自分も酔いつぶれてそのような真似をしでかしたことがあるが、あれは本当に後から思い出すだに恥ずかしく忌まわしい過去である。
静かなメンバーが集まったことだけでも十分嬉しいが、それより何より、もっと嬉しいことがある。
4月から半年以上片思いをしている相手が、私の目の前の席に着いているのだ。
無自覚な片思い期間も含めると、2~3年近く想っている相手である。これが嬉しくないはずがない。
背が高く、すらりとしているため、道を歩いているとすぐに目に入る。
とても優しくて気が利き、困っている人を見かけるとすぐに手を貸してくれる同級生の男子だ。
でもちょっといじわるで、周囲の子をからかって少年みたいにいたずらに笑うこともある。
優しい面といたずらっぽい面とのギャップが人気なのか、男子をはじめ後輩の女の子たちから絶大な人気を誇っている。
尾澤圭介。
部活の中では入部直後の飲み会で先輩が決めたサークルネームで呼び合う風習があり、それにのっとり彼は「タスパ」と呼ばれている。
初めは髪型が猫の毛のようにふわふわだから「みー」と先輩に命名されそうになったらしいが、彼が断固反論し、「たらこスパゲティ」が好きなことを主張したところ、それをちょっと略された「タスパ」に落ち着いたという。
逆から読むと「パスタ」になるこのサークルネームを、密かに彼は気に入っているらしい。
どちらも、彼と共に読み聞かせの活動をしている女友達から聞いた情報だ。
(ちなみに彼女は彼氏持ちであり、彼氏一筋の子だから特に心配するような仲ではないようだ。)
好きな彼と同じ活動を共にしたいと思わなくもない。
けれど私は自ら望んで、同じ部内の童話づくりのグループの方に属したのだ。
彼を好きになったのはこのグループに身を置いてからなので、実質、彼と共に活動できるのは学祭などの全体行事の時のみだった。
私達の部活は、部内で二つのグループに分かれていた。
童話づくりグループと、読み聞かせグループ。
入部した後すぐに、どちらに属するか本人の意思で決めるのである。
「最初の注文取るよー」
リーダータイプの女の子の声を合図に、方々の席で酒やソフトドリンクを望む声が上がる。
私には、ここに来るまでに、「絶対これを今日は飲むぞ!」と決めていた飲み物があった。
それがこの店にあるかどうかは知らないので、確認しなくちゃいけない。
口を開こうとしたその時、
「カルーアってある?」
タスパもとい、尾澤のちょっと低めの声が、ざわめきの中でもしっかり私の耳に届いた。
ああ、彼の声、やっぱり好きだなぁ。
とか思ってる場合じゃない。
そう。私もそれを飲もうと思っていたのだ。
「あ、私も今日はそれ飲みたかったの」
すかさず彼の言葉にそう続ける。
けれど、すぐ側でメニュー表を見ている後輩たちが、少し真面目くさった声で言う。
「いや、ないみたいっす」
彼と一杯目に飲みたい物が同じだなんて、と嬉しくなったのも束の間、メニューにないとあっては注文もし直さなくてはいけない。
小さくがっかりしつつ、「ちょっとメニュー貸して」と、後輩の手からそれを奪うようにひったくってカルーアミルクの文字を探す。
焼酎、カルピスなどの文字はすぐ見つかったが、お目当ての文字は現れない。
「ありゃ、ほんとだ。ないみたい」
「……うそうそ、ありますよ」
心持ちしょんぼりする私たちに、さっきまで真面目そうな顔をしていた後輩が、にやにやと笑いながら返した。
謀られた! と思いつつも、報復よりまず今はカルーアミルクの文字をメニュー表から見つけることの方が先決だ。
「え、どこ?」
「そこですって」
後輩が遠くの席から、指でアバウトに円を描く。
正直、それだけじゃ目の悪い私には分かりにくい。
「あ、ここ」
困った私を助けたのは、尾澤の細く長い指だった。
至近距離まで顔を近づけ(耳に息がかかってるのですが!)、私と共にメニュー表を覗き込んでいる。
「うあ、あ、本当だね!」
正直なところ、彼の示す場所を読み込む余裕がない。
けど、あるらしいということは彼らの反応から分かるので、それで良しとすることにした。
「じゃ、タスパもカルーアってことで良いんだよね?」
念のための確認でそのことを聞き、彼が頷くのを確認してから、幹事代理の女の子に「カルーア二つでお願い!」と声を上げた。
しばらくして、続々と飲み物が会場の入り口に届き始めた。
タスパを始めとした良心的な人々は、それを会場内にまで持ち運び、飲み物が届いたことを知らせて回り、頼んだだろう相手にその飲み物を回している。
タスパの流れるように自然に、呼吸をするように当然に人を気遣えるところが好きな私は、彼のように皆に飲み物を回そうと立ち上がった。
好きな人の尊敬する行動を真似したいと思うのって、自分で言うのもアレだけど、きっとそんなに悪いことではないはず。
何度か往復を繰り返している内に、届けられた飲み物の中にカルーアがいくつかあることに気づいた。
その内の一つを私が受け取る。
そのまま、誰も飲み手がいなければ自分の席に持っていこうかと思ったのだ。
「やっと飲める~」
嬉しさに笑みがこぼれる。
すると、続いてやって来た彼も、カルーアの一つを手に取った。
「じゃ、俺もこれ、このまま持っていこうかな」
俺“も”。その一言に、自分を見ていてくれたのだと感じて嬉しくなる。
ほんの少し、にこにこしながら彼に頷いてみせると、彼も私も共に「カルーアの人はー?」と声を上げて尋ねた。
誰もいないだろうと、先に見越した上での問いかけだった。
けれど次の瞬間、すぐに、彼の手にあるそれは他者の手に渡ってしまった。
私の手の中のそれは、今もすっぽり収まったままだというのに。
ほんの少し、考えてみた。
私ひとりが先に飲むのは、なんだか違う気がする。
目の前で見ていたから、彼も私と同様、とてもカルーアが飲みたかったことは分かっていた。
それに、彼は誰より早く立ち上がり、皆に飲み物を回していた。
頑張っていた彼こそ、私よりも先に飲むべきなのだ。
「はい」
席に座ると彼を見つめて、ことり、とグラスを置いた。
タスパは、不思議そうに私を見つめている。
「これ、タスパが飲んで」
「え、なんで」
きょとんとした顔が、なんだか可愛い。
可愛いだなんて成人した男の人には失礼かな。
「ずっと頑張ってたから、先飲んで。
私は後で来たのを飲むから」
つ、と軽くグラスを彼の下に押す。
これで話は終わり、と思っていた私に、
「え、プリンゴも頑張ってたじゃない?」
タスパはそう返した。
ちなみにプリンゴというのは、私のサークルネームだ。
お察しの通り、プリンとリンゴが好きだから、こう命名されたのだ。
「プリンゴも飲もうよ」
ええと、どうやって?
「え、でも…」
同じグラスに口を付けるのはちょっと気恥ずかしい。
それに、後から同じ代物が届くのだから、今少し待っているだけで良いのだから、気にしなくて良いのに。
心の中でそんな風に思いながらも、彼の言葉に嬉しさを感じる自分も確かにいるのだ。
「はんぶんこしよ、はんぶんこ」
ふっと優しく笑みをこぼして、彼は「ね、グラス出して」と私を誘う。
いいのかなぁ?
彼のことが好きな後輩に知られでもしたら、ちょっぴり恨まれちゃうかもしれない。
ふと、そんな不安が頭をよぎる。
考え出したらきりがなくて、なんだか頭が重くなってしまいそう。
感じる重さのままに、首を傾げると、そんな私に彼はまた言う。
「一緒に飲もうよ」
とびっきりの笑顔と共に。
そんな風に言われたら、断る理由なんてない。
「うんっ!」
差し出したグラスに、彼とおそろいのカルーアが注がれていく。
ちょうど、半分。
ぴたり、と同じ量の、二人分のカルーアが出来上がった。
それぞれグラスを手にとって、互いに顔を見合わせると、
「乾杯!」
小さくグラスを合わせ、共にゆっくり飲み干す。
喉に残る甘ささえ、彼と同じものを共有しているのだと思うと、それだけで訳もなくドキドキしてしまうのだった。