5戦目
空が薄っすらと白んで来た時刻、長屋の一室で目を覚ました和樹は身体に掛けていた着物を剥ぎ取ると、夜着として着込んでいた白地の広袖の上へ羽織る。
刻み煙草を詰めた煙管を銜えると草履を突っ掛けて土間へ降りた。
竈に残っていた火種に藁を放り込んで小さい火を起こすと小枝や細かい木っ端を入れて火を大きくしていく。
就寝前に下拵えをしていた水で浸した玄米や粟等の穀物に牛蒡、大根を釜の中へぶち込むと味噌を入れて竈に掛けた。
後は雑炊が出来るのを待つだけ、とばかりに和樹は竈から燃えている小枝を取り出して煙管へ火を点けつつ戸を開けて外に出ると紫煙を吐き出した。
食事を済ませ、口髭と顎髭を剃刀で整えた後、和樹は清洲城へ登った。
尾張を治める少女からの呼び出しを受けたからである。
現在ーー彼は佩いた二振りの太刀を近習を預けた和樹は評定の間で一人待たされている。
しかしながら胡座を掻きつつ一時間近くも待たされるのは彼の性に合わない。
煙管を燻らせ、ニコチンを摂取したい衝動に襲われ出した時、板張りの廊下を歩く数人の足音が 彼の耳朶を打った。
両手で握り拳を作り、それを床へ突くと頭を垂れる。
頭を垂れた瞬間、評定の間の戸が開き、二人の人物が最初に入室して来た。
足音の軽さからして両名とも女性ーーそう考えていると件の二人が床へ腰を落とした音が鳴る。
ついで小姓と思われる少女の声が主君の入室を高々と告げた。
その瞬間、和樹は更に深々と頭を下げる。
ドカドカと荒い足音を立てながら入室した主君は上座へドカリと乱暴に腰掛けると和樹の名を呼ぶ。
「小次郎、大儀。面を上げぃ」
「はっ」
平伏から直った和樹が頭を上げると眼前には主君である久遠の他に家老を務める壬月と麦穂がいた。
「清洲での暮らしには慣れたか?不自由はないか?」
「は、不自由なく暮らせております」
「デアルカ。…此度、登城を命じたのは貴様に頼みたき儀があった故だ」
一介の足軽組頭に“命令”ではなく“頼みたい”という言葉を選んだ久遠に彼は疑問符を浮かべる。
「は、手前如きで宜しいのであれば如何様にでもお使い潰し下さいませ」
「うむ。……我の良人となる者に仕えてくれぬか?」
「………………………………は?」
「…耳悪か?今一度言った方がーー」
「あぁ…いえ、耳悪ではございませぬ。御無礼を致しました」
「む?そうか」
「…殿に良人君が居られた事に驚き申したが…それよりもお聞きしたき儀がいくつかございます」
「許す、申せ」
頭を垂れた後、顔を上げると和樹は上座へ腰を落としている主君に向き直る。
「まず、何故に手前を?」
「我の良人となる男だが手勢を率いた経験がないようなのでな。貴様にその手助けを頼みたいのだ」
「…殿の良人君は、どのような役職に?」
「…まずは足軽大将…が妥当ではなかろうかと考えておる」
「その配下となる組頭は手前だけで?」
「貴様以外に木下なる者も組頭に加えるが」
「ふむ……」
顎に手を遣って考え込む。
確かに兵を率いて、戦闘を指揮するのは和樹の生業であったこと。
だが彼は率いる兵が“弱兵”とまで渾名される尾張兵である事に幾ばくかの不安を持ってしまう。
(まぁ…指揮官は最弱の兵を運用しても勝てる作戦を立案せんといかんのだが………むしろ我々の軍の将兵が異常だっただけかも知れんが…)
随分と長く考え込む事に不安を抱いた久遠が声を掛ける。
「ーー小次郎、如何した?」
「ーーっ…御前での度々の御無礼……平に御容赦を」
「良い、そう畏まるな。……戦を相当経験したのだろう貴様にしか頼めんのだ」
「…確かに戦を経験した事はございますが……相当という程では…」
和樹が放った一言で久遠の双眸が細められた。
「ーー壬月」
「はっ」
久遠が控えていた家老の柴田権六“壬月”勝家へ目配せすると彼女は立ち上がり和樹の下へ歩み寄った。
「ーー検めるぞ」
彼女が和樹の着物の胸元の襟へ両手を掛けーー胸元を露にする。
その瞬間、壬月の顔が驚愕に染まった。
「これは……!」
「ーー壬月様?」
「ーー如何した?」
胸元の着物を剥いだまま固まった彼女の様子に不審を抱いた久遠と麦穂が立ち上がり、歩み寄って来た。
「ーー殿…これを……」
「なんだーー」
「ーーっ……これは……」
露になった胸元に三人の視線が突き刺さる。
「ーー…先程、貴様は“相当”という事を否定したな?」
「…はっ」
「では何故……これほどの刀槍や矢玉の古傷がある?」
「……………」
久遠の問い掛けに和樹が押し黙った。
大小を含め150を超える戦闘に身を投じた彼だ。戦傷は避けては通れない。
(せめて戦傷の痕も消して欲しかった……)
さて、どう答えようと考えていると麦穂が胸元に指を這わせる。
「ーー失礼します。…一見しただけでは分かりませんが……所々盛り上がっている傷痕もございますね」
(あぁ……それは手榴弾か砲弾の細かい破片だな)
鍛えられた胸筋に這う細い指先の感触を感じつつ彼は冷静にそんな事を考えていた。
「…刀槍で斬り付けられ…刺された痕…それに加えて矢玉の痕……どれほどの戦に参陣致せばそうなるのか…」
「…手前が弱かった頃の名残にございます。もう宜しいでしょうか?」
負った怪我の数々は何処で受けたのかは、はっきりとは覚えていない。
銃創、銃剣での刺突や斬り付けを受けての傷、毒矢を喰らった時の矢傷、五胡の大人と斬り結んで受けた傷ーー覚えているのはその程度だ。
襟を正した彼は自身の眼前に呆然とした表情を浮かべたまま立つ主君を仰いだ。
「ーー良人君に仕えよという先刻の件については承りました。一所懸命、お仕え致します」
「デアルカ。……それと小次郎。向後は我への嘘、偽りは許さぬ。心得よ」
「心得ました」
「うむ。…ならば良い。励め」
(さてさて……先ずは人を集めて…兵糧や武具の調達に………やる事が多すぎるな)
長屋へ戻る道すがら、和樹は煙管を燻らせつつこれからの予定を組み立てる。
(殿の良人君とやらの禄高がどれほどになるかで集める兵力は変わる。……半農半兵では駄目だ。ただでさえ弱兵の尾張兵を練兵せねばならんのだ。鉄砲も集めてーーとなると玉薬に鉛玉も調達だな。…長屋の床下や便所の土を掻き集めて硝酸カリウムを精製……鉛玉は鉛の製品を溶かして持ってる玉鋳型に流し込んでーー)
随分と物騒な事を考えていると背後から声が掛かる。
「ーーあ、あの!桂木様ですか!?」
「ーーあん?」
煙管を銜えたまま振り向くと見覚えのない可愛らしい少女が駆け寄って来る。
「応。手前が桂木だが……そちらは?」
「申し遅れました!私、木下藤吉郎秀吉と言います!!これから宜しくお願いします!!」
「御丁寧に。手前は桂木小次郎勝元」
「ぞ、存じ上げております!田楽狭間で義元公の他に四つの御首級を上げた方だと!」
「戦で槍働きしか出来ぬ宿六にござる。面倒をお掛けするとは思うが、どうかよしなに」
互いに礼をして挨拶を交わす二人だがーー
(…まさか太閤秀吉が同僚になるとは……いやまぁ孫伯符とかを嫁にした俺なんだが…)
(ふぇぇ……背高い~顔が怖いよ~!!)
ーー考えている事は全く違うのだった。