ある牢屋番の話
牢屋といえども廊下にはさんさんと光が降り注ぎ、とてもすがすがしい朝を迎えられる。
……と、シオンは思う。
たとえその先が地獄の旅路だとしても、美しいものは美しい。
だが。オンは暗鬱たるため息をついた。
恨めしいくらいの青空。
廊下が明るいせいで、よけいにその先が暗く見える。
「くそ……」
なにもなくても不機嫌そうに見える顔。それの眉間にシワが寄れば、もう『怖い人』にしか見えない。
当然誰も――シオンが見た目に反してナイーブだと知っている同僚さえも――近づこうとはせず、ただ皆目を伏せて早足でその場を通り過ぎていった。むろん、シオンをよく知らない人は謂うまでもない。
「よかったー。職務放棄するかと思ったよ」
重い扉を開けるとそこはいくつかの牢屋が連なる空間。明かり取り用の小さな窓だけが高い天井にある。そんな薄暗い牢屋に、場違いな明るい声が響いた。
こんな辺境の地の牢屋など、少し前までは無人で、名ばかりの牢屋番としてシオンは勤めていた。
国境線近くにある小さな村。知らぬ人はいない、というくらい小さな村だった。そんな村だったから多くの人が都の方に出稼ぎにいくような村で――実際、彼の妹も都会にでた――それでもシオンは、村に近い小さな砦に勤めることに決めたのだ。
理由はない。
年老いた両親が心配じゃなかったといえば嘘になるが、楽だったからといってしまえばそれまでだ。つまるところ、やはり、理由は無い。
そして、近くにそんな小さな村が二三あるだけのこの地には、捕まるような悪いことをする奴は全くいないといってもよかった。
――かくして、生まれ故郷で仕事をしなくても(というかない)お金がそれなりにもらえる仕事を得られたシオンは、自分のことを運がいい奴だと思っていた。
すでに、過去形である。
結論からいえば、それは間違った認識だった。
世間とはそういうものかもしれないが、この際楽をとった報いだとは言わないでほしい。シオンだって、ただ仕事ができただけなら、特に文句は言わなかった。元々給料泥棒しているのが申し訳ない気も少しはあった。都会から『とばされて』来ている同僚の目も気になっていたところだ。ただ問題だったのは、その『囚人』がちょっとかなりとてもうざかったということなだけで。
「ねーねーシオン! おなかすいたー。ご飯は? ご飯は?」
まるで罪を犯しそうにない呑気な顔。
争いが絶えないこの大陸では、珍しいくらい純粋そうに見えた。
「ガキかお前は!」
持ってきていた盆を中に差し入れてやると、待っていましたとばかりに牢の中の青年は布巾を剥ぎ取る。
「わーいブルスケッタだー!」
そのままパンにかじりついた青年に、シオンはため息をつきつつ、何度目かになる質問を投げかけた。
「で、おまえ名前は?」
名前不明年齢不詳職業不詳身元の分かるものなし。罪状は無銭飲食である。
あきれるくらいマイペースな青年は、その朗らかな性格とは裏腹に頑として身元をあかそうとはしなかった。
「だから、プー助。いや、プー太郎だってば」
「だからそんな投げやりな名前を子供につける親がどこにいんだよ!」
「この世界に一人いるみたいだよ」
全くもって、らちがあかない。こんな不毛な会話を、もう一週間くらい繰り返していた。
いつもの応酬が終わる頃、青年は朝食を食べ終える。本日も収穫はない。あの手この手で青年を揺さぶろうにも、青年はあまりにも手ごわかった。
「はあ……。今日もまたおまえと二人か」
尋問を諦めて呟く。それに少々ムカッと来たのか、青年は真顔になった。
「やだなあ、そんな嬉しそうにいうなよー。期待しちゃうゾ」
「きもっ。本気で鳥肌たったわ!」
ぶるりと身震いをしてシオンは自身を抱きしめる。そんなシオンを見て、青年は食器を下げようとシオンが伸ばした手を素早く、かつ力強く握った。
「いっ……!」
思わず呻き声をあげたシオンに構わず、青年は見た目からは思いも寄らない力でシオンを引き寄せる。食事を入れるための小さな入り口ではなかったなら、そのまま牢屋の中に引き込まれていたくらいの力だった。
「んー……」
青年はシオンの手を軽く握ったり引っ張ったりしていたが、ややあってパッとその手を離す。それからもう用はないとばかりにどこからともなく手紙を取り出してその封を切った。
「……なんなんだおまえ。って、おまえ! それ手紙! 何でもっていやがる!?」
罪人は外との接触を断たれるのが普通である。それから身体検査もあるために、シオンが認めていないものは持ち込めない。
はずだ。
少なくともシオンは未開封の手紙の存在は知らない。身体検査は全裸に剥いて行うために、隠し持っていたことも有り得ない。赤くなった手首をさすりながら、シオンは思わず青年を指さしていた。が、対する青年はにっこりと悪戯っぽく笑っただけだった。それからシオンには目もくれずにその手紙を読み始める。
「おい! おまえ! プー太郎!!」
途端に青年が吹き出した。そのままケタケタと笑い出す。
「……ホントなんなんだおまえ、気持ち悪い……」
「だ、だってプー太郎! プー太郎!! プー太郎はないよ! だってプー太郎だよ!?」
「おまえの名前なんだろう!?」
今日もシオンの苦労は尽きそうにない。ようやく青年の笑いの波が去った頃には、シオンはすっかりとへそを曲げていた。
「くそっ。ムカつく」
「ごめんごめん。君がかわいくてつい」
もはや牢屋番と囚人の会話ではない。
「おまえ……」
「あ、俺の手紙のこと聞きたいんだっけ? え、なに? 俺の私生活気になるの? 気になっちゃう感じ? もー照れるな!」
シオンの言葉をさらりと遮る。そんな青年に、シオンは真顔で言葉を返した。
「あぁ、すげー気になる。教えてくれるのか……?」
「っえ」
一瞬、青年の表情が固まった。
「……え、なにその間」
「いや、いつもより素直だなぁって。なんかあったの?」
青年が一転して心配そうな表情を浮かべた。どうやら本気で驚いたらしい。
「何もねぇけど、一週間おまえと暮らしてると、色々悟る」
苦々しい顔でそう述べたシオンに、青年は微笑んだ。
相手のペースに巻き込まれないよう、けれども乗りながら話す。一週間で悟った青年との付き合い方である。しかし青年は無邪気な笑顔のままその斜め上の返事を返してきた。
「愛が深まったんだねー!」
「っ!何でだよ! 気色わりぃ」
がたん、とシオンは精一杯青年から距離をとった。
「えー。俺のことが気になるから色々聞いてきてるのかと思ってたのに」
にやにやと笑いながら青年は手紙をつまんだ。まだまだ、シオンでは勝つには難しいらしい。
やはり、手ごわい。
「……心配しなくてもおまえの存在にすげー疑問持ってるから大丈夫だ。で? なんで手紙なんか持ってんだ」
気を取り直して聞き直す。今度は青年も笑わなかった。愛しそうに手紙を握る。
「これ? 愛する妹からのだよ」
「って、聞いちゃいねぇ。てか、……妹? おまえ妹いんのか」
あっさりと家族の存在をバラしてくれたことを意外に思いつつ聞けば、青年はうっとりと目を細めた。
「いるよ。ロベリアって言って、……もー超かわいいの。あ、いくら君でも妹に手を出したら殺すから」
「なんで話飛ぶんだよ。出さねえよ」
いきなりまじめになった青年は、ビシリと指をシオンに突きつける。
この青年の妹、それを想像するとかなり大変そうなイメージがある。お相手などこちらから願い下げだ。しかしなぜか青年はとても同情に満ちた顔をした。
「……一緒にいてくれる女の子とか、いる?」
「うるせーよ。つーかなんでそんなに同情するような目で見てくんだよ。ぶっ殺すぞ」
「まあ力の差から考えて無理だと思うけどね」
それはどういう意味だ。
たしかに、さっき腕を捕まれたときは抵抗できなかったが、それは不意打ちで……。一応牢屋番しているのだから弱くはない。
色々心の中でいいわけを述べると、なぜか悲しくなってきた。とても、情けない気がする。
「だーくそっ! 死ねばいいのに……」
結局、出てきたのは負け惜しみのような言葉であった。がっくりとうなだれて、シオンは深々とため息をつく。しかしふと熱い視線を感じて顔を上げてみると、青年が真面目な顔でシオンを熱っぽく見つめていた。
「な、なんだよ」
気味が、むしろ気色が悪いその視線にやや及び腰になってシオンが問うと、青年はふっと頬をゆるませる。
「なんなら、俺が相手になってあげようか? 自分でいうのもなんだけど、そこら辺の女の子達より綺麗な自信、あるよ?」
確かに、この青年のようにふんわりとした薄茶の髪に碧玉の瞳、陶磁器のような滑らかな肌を持つヒトもそうそういまい。女性の格好をして声をもう少し中性的にすれば女性にも見えるだろう。シオンは思わずまじまじと青年を見つめ――そしてふと我に返って顔を真っ赤にした。わめくように、叫ぶ。
「な、な、な……っ! おおお俺にそっちの趣味はねぇ!! お前なんかに慰めてもらわなきゃいけないほど、俺は落ちぶれちゃいねぇぞ!」
返事はない。
訝しんでみると、青年は無言のまま肩をふるわせていた。どうやら笑っているらしい。
「て、てめ! なに笑ってやがる」
一気に恥ずかしさが押し寄せてくる。
赤くなった顔を誤魔化すように叫ぶと、堪えきれなくなったのかついに青年は声を上げて笑い出した。そのまま肩をゆすり、地面に拳を打ちつけて笑っている。
「てめっ……」
「ひっ……し! 必死! シオン、必……死!!」
そのまま笑いのツボにはまった青年は、苦しげに身をよじった。
「くっ……! 生まれて初めて純粋な殺意を覚えた」
「あ、新しい自分に出会えて……良かったね、っシオン。初めての、相手が俺で、っく、すごく…………嬉しいです。ふふっ」
「黙れ死ね」
シオンは、その日改めて青年の度を超したウザさと、扱いの大変さをその身に刻み込んだという。
「お前、疲れてるのか?」
とある夜勤明けの日。
一人座り込んでコップを手にしているシオンに、早めの出勤をしてきた先輩が声をかけた。
「……そんなにわかります?」
シオンは額を押さえて大きなためいきをついた。
「おう。つーか、なんか疲れてるってより、やつれてる?」
「…………そんなにわかっちゃいます?」
「おう」
シオンはすがるような目をした。
「そんなに……」
「いやしつけぇよ」
黙り込んだシオンは、不意にがっくりと落ち込んだ後、突然拳を机に叩き込んだ。
「先輩ぃぃぃ! 俺、俺もう無理です! もう限界です!!」
「おおぅ!? どうしたシオン! 悩み事なら聞くぞ!? だから早まるな!」
取り出したナイフを持って叫ぶシオンと、それを止めようとする先輩。現場は一時騒然となった。
「で、どうした。時におまえ大丈夫か?」
ゼーハーと息をついているシオンに先輩は半ばあきれ顔で問いかける。シオンはぐったりとうなだれたまま重い息を吐いた。
「生きてます大丈夫です。……ご迷惑をおかけしました」
「で、なんだ言ってみろ。どうした? 女か? 金か?」
辺境の地である。娯楽もなにもないここで、思わずそういったものに走る者も少なくない。そう都からきた先輩は考えていた。がしかしシオンは力なく首を振る。
「違います。分類的には男です」
一瞬、奇妙な間があった。続いて先輩が飛び上がり、シオンと絶妙な距離を取る。
「男!? 男っておまえ……男色家だったのか? それはさすがに俺もどうしようもないぞ?」
「えぇ!? ちがっ……」
思わぬ誤解にシオンが声をあげるも、早とちりした先輩は止まらない。
「お前……そんなに仕事大変だったか? 若いんだからそんな早まるなよ。今度俺がいい女紹介してやるから、な? とにかく思い直せって」
「ちょ、違いますよ先輩! 誤解です! なんでそうなるんですか! 仕事のことです」
ピタリと、先輩の動きが止まった。
「なんだよ、仕事かぁ……。驚かせやがってこのやろう。てか……ん? お前、んな大変な部署だったか?」
一変して笑顔になり、いかにも『安心した』というようにため息をついた先輩に、逆にシオンが大きなため息をつく。
「早とちりしたのは先輩ですよ……。はぁ。仕事はいいんです。仕事は。でも最近来たあいつが、あいつが……」
そのまま声もなくうなだれたシオンの肩を、先輩が慰めるようにポンと叩いた。
「よくわからないけど、大変なんだな。よくわからないけど」
「なんで二回言った?」
そんなシオンのツッコミをかわし、先輩は手にしていたコップの中身を煽った。
「……そーいやおまえ、牢屋番だったか? おまえ夜勤明けだろ? 今日は休めよ。俺が代わってやるからよ」
ふと思い出したように先輩が問う。
牢屋番は『砦一楽な仕事』と有名である。先輩の目は一瞬で輝いていた。
地下牢なら涼しいし、サボって寝ていてもバレない。囚人は基本的にいないし、これ以上ない好条件である。
そんな先輩の思惑を感じ取ったシオンは、しかしそれでもなにもいわずに感謝の旨を伝えてその場を辞した。
マイペースでお気楽ご気楽、人の神経を逆撫でする『あいつ』のことは、聞くより見て接して知るべきである。
――果たして
次の日にげっそりとやつれた先輩が、半ばたたきつけるようにシオンに鍵を返してきたということは、推して知るべしである。
今まで、あまり病気という病気をしたことがないシオンには、頭痛、というものは縁遠いものだった。
だからだろうか、ひどく、切ない。
階段の半ばで思わず立ち止まったシオンは、現実逃避したい頭でそう考えていた。そして、口にだした。
「なんでお前ら……増殖してんだ?」
「え、第一声がそれ?」
「おいすー。あんたが牢番さん? オレ、ヒース。よろしくな~」
報告は、なかったはずだ。
囚人が増えるなんて、シオンは聞いていない。
シオンは青年の隣の牢で、邪気のない、けれどもどこか殺伐とした雰囲気を醸し出しているヒースに目をやった。ふわふわの猫耳に長い尻尾。猫の獣人だと一目でわかるいでだちをして食えない笑みを浮かべたその男は、何故か同情するような目でシオンを見ていた。
「今まで一人でこいつの世話してたんだろ? 大変だよな」
「…………お気遣い傷み入ります」
シオンが万感の思いを込めて言うと、ヒースが笑う。それがおもしろくない青年は、頬杖をつきつつ乾いた笑みを浮かべた。
「はは、殺すよ」
殺気が膨れ上がる。けれどもそれは不意に消滅した。代わりに、威圧感。
「今のおまえには無理だ」
思わず身震いするような冷たい気配をまとったヒースがふっと笑った。
「いやだなぁ、あんまりつれないこと言うなよ、ヒース。俺と君の仲だろう?」
髪をまとめながら青年がウインクすると、ヒースは嫌そうに眉根を寄せた。
「こんなしょっぱすぎる関係は嫌だ。人間と関係持つならもっと甘いのがいい。なあ?」
同意を求められたシオンは小さく頷く。青年は残念そうにため息をついた。
「シオンもつれない」
その言葉にシオンの中で何かが切れた。いっそ小気味いいほど、ブチっと。
「おまえ! おまえがここにきてかけた迷惑を考えてみろ!! 知ってるか!? 今ここがなんて呼ばれてるか!」
「魔の牢獄。それも囚人的な意味で」
その答えは、意外なことにヒースから発せられた。
驚いてシオンが見ると、ヒースはいたずらっぽく目を瞬かせる。
「知ってるさ。オレ、情報屋だし」
「情報屋……?」
「そ。ぶっちゃけオレ、捕まってんじゃなくて、自らここにきたんだよな。こいつに情報届けるために」
今すぐ出ていけ。
思わず言いかけたシオンは、何とかその言葉を飲み込んだ。
「で?」
ヒースは青年に視線をやった。
「お前いつまで捕まってんだ? なんなら別料金で助けてやるぞ?」
そして、いきなりの問題発言である。シオンの眉が、思わずピクリと動いた。
「いやー、は、は、は。なんかかわいいかわいい妹のロベリアが面倒ごとに巻き込まれてるみたいでね。機を見て助けてあげようかなって。まあ、お宿?」
「お嬢か……。たしか最後にあった時、いい情報を……。なんでもない」
青年が眉を跳ね上げる。
「へー……? 俺にも言えないこと?」
「いや、結果から言えば『ごめんね。今手元に炎しかないや。バリカンがよかった?』ってさ。超笑顔で。意味分かるだろ?」
どんな状況だ……。
「へー。まあ、首はねられなかっただけまだましじゃない?」
青年が考え込むように顎に手をやった。ヒースは思い出したかのようにくすりと笑った。
どんな『妹』だ。
シオンは以前想像した『妹』の認識を改めざるを得ないらしい。もちろん、悪い意味で。
「あー。あの時はヤバかった。つかお前、ロベリアのためによく牢屋に入ったな。オレは仕事だけど……。飯、不味いんだろ?」
ヒースが首を傾げると、青年は何故か苦笑いした。
「ロベリアの手作りに比べたら、ね……。全然マシだわ」
「お嬢に伝えとくわ」
しかし青年は諦めたような笑みを浮かべた。
「いや、本人認めてるから大丈夫だよ」
「……いいのかお嬢」
思わず、といったようにヒースがつぶやき、シオンも同意した。
全くもって『どんな妹』だ。
「……まあだから、百万が一俺が脱獄できなくなったら頼む。それより君はどうするの?」
会話は進む。
「オレはどっか護送されるらしいから、そん時にバックレる」
そして聞き捨てならない言葉に、黙って二人の会話を聞いていたシオンはついに声を荒げた。
「……おいお前ら! 脱獄の相談なら俺がいないところでやれっての!」
一瞬の、静寂。
「あー。それもそうだな」
「あらら。うっかり~」
あっけらかんと二人は言葉を紡いだ。
そして二人は同時にシオンに目をむける。
「なぁ。まさかこの会話を誰かにバラしたりしないよなぁ……?」
最初に静寂を破ったのは青年だった。
口調が変わっている。正直言って、怖い。
「俺には、脱獄を止める義務がある」
勇気を振り絞って言うと、今度はヒースの無言の威嚇。後に、一転して猫なで声を出した。ねこだけに。
「まぁ、そりゃそうだな。ぶっちゃけオレらにとって脱獄ルートは一杯あるが……一番楽なやつを邪魔されるのはいただけねぇなぁ」
腐っても犯罪者。威圧感が半端ない。いや、犯罪者だから元々腐ってるのかもしれないが。
なんてくだらないことを考えつつ、シオンは無意識に剣の柄を握っていた。
「……てまあ、牢屋番脅してもしょーがねーか。どっちにしろ邪魔しようったって簡単に出来ねぇしな。脅して悪かった。詫びにこいつの名前を教えてやるよ。どうせ名乗ってないんだろ?」
「あ、ヒース、君は客を売るのか!」
青年のツッコミもなんのその。
ヒースは内心冷や汗を拭うシオンを見透かしたように笑った。
「……それは、是非知りたいが……。今のをチャラにする気はねぇぞ」
「構わねぇよ」
ヒースはうっそりと笑うと青年が止める前に口を開いた。
「キトン、だ。そいつの名前。それも偽名だが、その名前で調べれば余罪がわんさか出てくるぞ。そいつを死刑にできるようなやつも、な」
「死刑……?」
シオンは思わず呟いた。
え、この食い逃げ野郎がなんだって……?
「わー!ばかばかヒース! シオン真面目だから本気にしちゃうだろ!? 本当に調べちゃうじゃん!」
「なんの問題がある?」
しれっとヒースが首を傾げた。青年がわざとらしく苦しげな表情を浮かべる。
「逃げづらく……なる。逃げれるけど」
シオンの思考をかき乱すように、青年、もといキトンが言い切った。
やはり脱獄する気か。
シオンは内心でつっこんだ。
一応ここは連合国の国境砦である。まるで左遷先のように扱われているが、それなりに大きくて重要な地である。故に、警備は厳しい。
ハズだ。特に、臨戦態勢がとられている今は特に。
「あれ? 筈だよな!?」
「ほーら、シオンが混乱してるよ」
思考が口にでていたらしく、キトンが茶々をいれる。
シオンはため息をつくと切り替えるように頭を振った。
こいつらの近くでは集中できない。
シオンはもう一度ため息をつくとふと二人を見比べた。
「スルーしてたけど、お前ら知り合いか?」
「客だからな」
間髪入れずにヒースが答える。キトンは飲んでいた水を吹き出した。
「冷たっ! もっと深い関係でしょ~」
よっぽどショックだったのか、少し傷ついた顔である。
意外とこのキトンという男、扱いやすいのかもしれない。シオンには一生かかっても無理であろうが。
「腐れ縁だな。腐りきって爛れてるからそろそろ腐り落ちる」
「泣いていい?」
「泣けばいい」
冷たい返事にキトンは目をこすって泣き真似をする。
「ふーんだ。ヒースのバカ」
「ば、バカ野郎! その手で触んな!!」
ポロポロとこぼれ落ちる涙をヒースの尻尾に擦り付けようとするキトン。それを牢屋の奥に行くことで回避する渋面のヒース。二人の間を隔てる鉄格子が揺れた。
「お前は……」
その様子を眺めながらシオンが呆れたように言うと、キトンがしれっと笑って見せた。
「ヒースは猫だから濡らされるの嫌いなんだよ」
「なるほど、それで……」
ちなみにキトンの隣の牢、ヒースの入っているそこは、獣人が暴れても抑え込めるような頑丈な作りになっている。
「なんかあったら水をかけなよ。言うこと聞くからさ!」
「……そうするか」
「ほう、てことはオレの情報いらないんだな? キトン」
冷たい声でヒースが言い、キトンが慌ててヒースを省みた。
「それは反則でしょ!」
「聞こえねーな」
「わー! ごめんてヒース」
キトンが手を合わせて拝む真似をした。ヒースがツンとそっぽを向く。
そんな馬鹿みたいなやりとりをしつつも、彼らが何かを気にしていたことをシオンは気づいていた。相変わらずキトンは純粋そうな馬鹿に見えるが、おそらく違う。
ただうざい傍迷惑な食い逃げ野郎は、本当は大罪人だったらしいことは、調べるまでもなく分かった。
数日後、二人が護送されている途中に忽然と消え去ったという報告をきいたとき、シオンは人知れず安堵した。
この世には知らなくていいことがたくさんあるのだ。誰が隣国の王族を殺したのかとか、真っ黒な宗教の話とか。そして、進んでいくこの戦争の行方だって。彼らは自分とは住んでいる世界が違う。うっかり交わってしまった線が、しかしまた再び交わることは無いだろう。
「シオン、本当に仕事辞めるのか?」
先輩が心配そうにシオンの顔を覗き込んだ。
「ええ。お世話になりました。妹を呼んで、家族で東大国に引っ越すことにしたんです」
「……いいのか?」
「いいんですよ」
シオンはすっと目を細めた。
「いいんですよ。色々あって、決めました」
「そうか……」
先輩が小さく頷いた。
「じゃあ、元気でやれよ」
「ありがとうございます。では」
バタンと扉が閉まる。
彼らに会って唯一よかったのは、今後の選択肢が増えたということだろう。
激化するだろう戦争の行方を想い、シオンはそっと目を閉じた。