01
丈の短い着物を着た女の子が元気良く村の中を走っている。
疲れを知らないのかと錯覚するほど、ただひたすら走っている。
その行く手を遮るかの様に道のド真ん中で草を食む数匹の羊。
普段はもっと草が多い所で放し飼いにされている筈なのに、どうしてこんな所に居るのか。
「よっ」
ブカブカなズボンを穿いた脚をおもいっきり広げ、羊の群れを飛び越える女の子。
服装や行動はまるっきり男の子だが、着物の色は女性向きのオレンジ色。
そして長い黒髪をポニーテールにしているので、誰も彼女を男の子だとは思わない。
「おっとと」
砂煙を上げて急ブレーキを掛ける女の子。
勢いが良過ぎて目的地を通り過ぎる所だった。
「おはようございますー。命世でーす」
名乗りながら村外れに有る木造平屋に入る女の子。
村では一般的な造りである、玄関の土間と居住区の板間しか無い家。
その板間の中心で糸目の男が座っている。
「おはよう、命世さん。今日も元気ですね」
「私はね。先生、いつものお願いします」
先程まで男の子の様だった命世が少女らしいはにかみ笑顔になる。
別に媚びている訳ではない。
無意識に緊張してしまうだけだ。
「ちょっと、お待ちを」
「うん」
先生と呼ばれた糸目の男は、読んでいた本を床に伏せてから立ち上がった。
そして小さな引き出しが沢山有る巨大なタンスを探り出す。
先生がそうしている間、間を繕う様に狭い家の中を見渡す命世。
彼は村でただ一人の医者兼薬師。
小さな怪我や風邪くらいなら年寄りの知恵で治せるのだが、それだけじゃ治せない病気を患ってしまうのが人間って存在だ。
それを治せる彼は、余所者ながらも村のみんなの信頼を得ていた。
命世が緊張してしまうのも、余所者を警戒する気持ちを無理矢理飲み込んでいるからかも知れない。
「お兄さんの具合はどうですか?」
定位置に座り、乾燥している薬草を擂り鉢で調合しながら訊く先生。
巨大なタンスの中には、彼が集めた様々な薬草が詰まっている。
そのせいで家中に草の匂いが充満している。
ひとつひとつの薬草の薫りは好きな命世だが、全てが混ざり合ったこの匂いは異臭にしか感じない。
微妙に気分が悪くなる。
「良くならないし、悪くもならないって感じ。…先生、その薬、効いてるのかな?」
医者に向かって失礼な事を聞く少女。
子供ながらの純粋さと残酷さが面白い、と糸目を更に細めて微笑む先生。
悪く言えば考え無しなのだが、成長中の子供はそれでも良い。
「悪くなっていないのなら効いていると思いますよ。そうですね。気になるのでしたら、改めてお兄さんの診察をしましょうか?」
「お願いしたいけど、年金、足りるかな」
腕を組んで難しい顔をする命世。
頭の中で財布の中身を計算をしている。
「君のお兄さんなら格安で診察しますよ。そうですね。薬草取りの時に必要な、命世さん手造りお弁当が代金と言う事でどうでしょう?」
「そんな物で良いの?それなら任せて!いつ薬草を取りに行くの?」
冗談半分の言葉を真に受けて輝く様な笑顔になる少女。
医者は、彼女の予想以上の喜び様に驚いた。
貧しい村では一食分の食費を稼ぐのにも苦労する。
それなのに一瞬の迷いも無く受け入れると言う事は、それ程までに兄が心配だと言う事なんだろう。
もしかすると、自分の分の食料を譲ってくれるつもりなのかも知れない。
「まぁ、それは後日相談しましょう。さ、薬が出来ました」
擂り鉢の中の粉末を紙の小袋に移す医者。
その小袋を土間で待っている命世に渡し、代金を受け取る。
「ありがとう、先生!じゃ!」
可愛らしく手を振った少女は、来た時と同じ勢いで走り去って行った。
そしてよろず屋で切れ掛かっている調味料を買い、食材を売ってくれる村人の家を数件回ってから家に帰る。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
医者の家と同じく土間と板間しかない自宅の中で、兄が窓板を外していた。
太陽の光が家の中に差し込み、質素な板間を照らしている。
「おはよう、兄さん」
食材が入っている麻袋を小脇に抱えている命世は、動物のなめし皮で造られた靴を蹴り飛ばす様に脱いで板間に上がる。
「おはよう。今日も良い天気ですね」
背の高い兄が妹に笑顔を向ける。
今日は自分で布団を畳んでいるので、調子は良いみたいだ。
良かった。
「はい、お薬」
「ありがとう」
医者から貰った紙の小袋を兄に渡す。
ついでに兄の顔を見ると、兄にしては顔色は良い。
調子が悪い日は不吉な顔色で気だるそうに壁に凭れ掛かり、見ている方も具合が悪くなりそうな雰囲気を醸し出すのだが。
安心した妹は兄に微笑みを返す。
「じゃ、朝ご飯作るね」
「お願いします。私は仕事を片付けます」
妹は土間に有る竈に行き、兄は文机を前にして書類の束とのにらめっこを始めた。
優秀さが認められて中央政府に就職した兄は、仕事に支障が出る程の病気を患ってしまい、故郷であるこの村に帰って来た。
だから現在は無職なのだが、彼には病気療養の為の年金が支給されている。
どう言う理由かは知らないが、天帝と言う人の恩賞を貰っているとかで収入が有るのだ。
しかしタダ飯食いは出来ないと、病気の身でありながら中央の仕事をしている。
妹としては、何もしなくても食いっぱぐれないのだから、大人しく寝ていて貰いたい。
が、もしも自分が病気だったらと考えると、一日中寝ているのは我慢出来ないだろう。
暇と言う時間が大っ嫌いなので、体調が許す範囲の掃除とかをしてしまいそう。
だから仕事を止めてとは言えなかった。
「出来たよ~。兄さん、机出して~」
「はい」
文机を壁際に寄せた兄は、小さなちゃぶ台を板間の中心に置いた。
それ挟んで座る兄妹。
今日の朝ご飯のメインは、大根を摺り下した物に小麦粉とゴマを混ぜて餅状にし、焦げ目が付くまで焼いた物。
オカズは里芋の煮物と川魚の汁。
田舎の村の食事にしては豪勢だが、病気の兄にはキチンと栄養を摂って貰わねば。
「じゃ、いただきまーす」
「いただきます」
兄と妹の二人切りの食事が始まる。
うん、我ながら丁度良い味付け。
美味しい。
「今日は良い天気だから、香草を取りに森まで行って来るね」
食事を取りながら本日の予定を兄に伝える妹。
普段はそんな事を言わないのだが、遠出をする時は言う事にしている。
これは村全体でのルールみたいな物だ。
もしもいつまでも帰って来なかった場合、危険な肉食獣が付近に居るかも知れないとして村人全員で警戒する為に。
子供には理解出来ないが、人間の味を覚えた猛獣は村全体に脅威を与えるらしい。
「分かりました。蛇や蜂に気を付けてくださいね」
「うん」
頷くと、妹の顔に長い前髪が掛かる。
それを邪魔臭そうにしながら芋を食べている。
「命世。前髪が伸びて来ましたね」
妹の頭を見詰める兄。
後ろはポニーテールで良いのだが、前髪が目の中に入りそうだ。
そうなったら痛いだろうし、視力も落ちてしまう。
「言われてみれば、ちょっと邪魔かな?でも、兄さんよりはマシだよ」
兄の髪は前後左右全部が伸び切っている。
しかし、長過ぎるので逆に邪魔になっていない。
「私は外に出ないので良いんですよ。しかし、命世は違うでしょう?例えば、香草を拾おうと前屈みになった時は邪魔になりませんか?」
「そうだけど。自分で切ると変な形になって、みんなに笑われるんだよね」
「なら私が切りましょうか?」
この兄は妹に対して敬語を使う。
まぁ、誰に対してもそうなのだが。
そんな柔らかでゆったりした雰囲気も好きだ。
せっかちな妹はイラっとする時も有るけど、そう感じるがさつな自分の方が悪いのだ。
落ち着いた女性に成長したいと言う想いも有るので、兄さんのそんな所を見習いたい。
だから兄さんには変わらないでいて欲しい。
「ん~。実は、ウチのハサミ、刃こぼれしてるの。だから髪が切り難くて変になるの。痛いし。魚を切る分には良いけどね」
「それなら新しい物を買わなければなりませんね。鍛冶屋さんにお願いしましょう」
「そう言うと思ったから黙ってたんだよ。兄さんの病気が治って、薬を買わなくても良くなったら買おうね。金物は薬一週間分より高いのよ?」
意外とサイフの紐が硬い妹。
それなら諦めようかと微笑んだ兄だったが、汁を飲んだら考えが変わった。
汁に入っている川魚の身がボロボロだったからだ。
切れないハサミを使い、力任せで料理をしたんだろう。
少女の細腕では辛いだろうに、文句ひとつ言わないいじらしさが愛おしい。
「しかし切れるハサミは必要でしょう?髪を切る以外にも使い道が有る訳ですし。その為の貯金をしましょうか」
「うーん、まぁ、そうね。でも、無理して仕事したらダメ!だよ?」
「はいはい」
病気を心配しての事だろうが、妹は兄を子供扱いする時が有る。
歳が五つ以上も離れているので、それは明らかにおかしい。
だが諭す程の事でもないし、むしろ可愛いので、兄は苦笑を返す事しか出来なかった。




