09
橋から落下し、地面に叩き付けられた命世。
十二年と数ヵ月の短い人生の終わり、かと思ったが、何とか助かった。
右肩とお尻が痛いが、命に別状は無い様だ。
が、死ななくて良かったね、では済まない。
ここから脱出し、村に、兄さんの居る自分の家に帰らなければならないのだ。
霧が晴れた地面を走り、白い壁に背中を付ける。
幸い、トラの姿は近くに無い。
しかし奴らに見付かったら襲われるだろうから、長く表に留まるのは危険だ。
取り敢えず近くの摺りガラスの窓に手を伸ばしてみる。
鍵が掛かっておらず、難無く開いた。
ラッキー。
白い壁の建物の中に侵入し、周囲を見渡す。
最下層はトラの飼育施設らしく、空の檻と石の廊下しかない。
壁も薄汚れていて、獣と生肉の臭いが酷い。
夜になったらこの檻にトラが帰って来るんだろう。
臭過ぎて吐きそうだが、胃の中の物は大切にしなければ。
吐いたら体力が奪われるし、何より空腹になる。
安全が確認出来るまで体調は万全にしておくべきだ。
口を固く閉じ、臭いを感じない様にゆっくりと鼻呼吸しながら周囲を再確認する。
今自分が居る所は人が通る廊下の様だ。
まぁ、猛獣が暮らす檻の中にガラスの窓は作らないだろうから、廊下に出るのは当然だな。
人の気配は全く無かったが、堂々と歩くのも危ない気がしたので、中腰で廊下を歩く。
先ずは階段を探さなければ。
中央には白青赤黒の四つの建物が有る事は橋の上で見た。
もう一個、黄色の建物が有ったが、それは外に通じていない様なので無視。
地面に落ちてから上を見上げてみた所、四方の建物の全てに外に繋がる橋が有った。
ひとつの建物に三本ずつ。
細いのと、手摺り付きの中くらいのと、やたらと太いの。
自分が突き落とされた手摺り無しの橋は、一番細い奴だった。
ここから外に出るには、その橋のどれかを渡るしか道は無い様だ。
建物同士も外に伸びる橋と同じ様な橋でお互いに繋がってるから、白い建物から出られなかったら他の建物に移動すれば良いだろう。
どっちにしろ、上に行かなければ橋は渡れないのだ。
建物の中は円筒形で、内側に建物とほぼ同じサイズの柱が有り、その周りに廊下。
そして外周に檻と狭い飼育員詰所が有ると言う造りになっていた。
詰所は無人で、水や食料は無かった。
それらが有れば精神的に余裕が出来たのだが、残念。
暫く進むすると開けっ放しの窓が見えて来た。
と言うか、命世が建物に侵入した時に使った窓だった。
壁のシミに見覚えが有るので間違いは無い。
長い時間を掛けて廊下を一周したらしい。
上に行く階段が見付からない。
獣が住んでいる痕跡が有る檻と飼育員詰所が有る以上、トラを飼育している人間が居る筈だ。
そして、飼育している人間が出入りしている階段が有る筈だ。
それが無いと言う事は有り得ない。
無いのなら、トラ達は自主的に檻で暮らし、トラ達が飼育員詰所や石造りの廊下を掃除している事になる。
そんなバカな話が有るものか。
少し焦りながらもう一度廊下を歩くと、ある場所で柱に扉が有る事に気付いた。
木で出来た扉だったが、とても小さく、石壁と同じ色だったので見落していた。
静かに開けてみたら、中に登りの階段が有った。
柱や壁と同じ石で出来ている。
建物の中心は柱ではなく、螺旋状の階段が設置してあるスペースなのか。
変な作りだ。
子供である命世なら、頭を少し下げる程度で通れるくらいの扉を潜る。
階段も狭い。
ああ、なるほど。
トラが逃げて廊下を走り回っても、ここを通れない様にしてあるんだな。
慎重に階段を登り、二階へ。
二階からは、階段から出る部分の扉が無かった。
慎重に中を窺ってみると、大きな机がいくつか有るだけの空間が広がっていた。
その机には無数の血痕が有るので、トラのエサを作る場所、かな?
一階と同じ規模の空間に机が有るだけなので、とても広く感じる。
人の気配は無いが、探索はしないでおこう。
食料が有ったとしても、トラ用の生肉程度だろう。
そのままでは食べられない物を懐に入れる余裕は、今は無い。
さっさと上に。
ここからは数人が横に並んでも上れるくらいに階段が広くなる。
三階と四階には、立派な机や空の本棚等が適当に置かれていた。
薄暗いので、どうやらここは物置らしい。
何て言うか、建物の下の方には人が来ない事が当然、って雰囲気を感じる。
トラの世話をする人が通るだろうから完全に無人って事はないだろうが、無人に近い状態なのは確かだ。
その証拠に、階段を掃除した形跡が殆ど無い。
人が歩く真ん中付近以外は埃が積っている。
ここからは意識を人の気配だけに集中し、さっさと上を目指した方が良いかも知れない。
そうしよう。
足を動かす速度を上げ、しかし物音を立てない様に階段を進む。
暫く上がって行くと、人の気配に集中しているせいで今居る階数を忘れてしまった。
どうでも良い事だから完全に気にするのを止める。
直後、明るい階に出た。
ここからが仕事場になっているらしく、大勢の人の気配が廊下を動いている。
そう言えば、橋は何階に有るんだろう?
外への橋と他の建物への橋は高さが違っていた気がする。
建物がでか過ぎるから、下から見ただけでは良く分からなかった。
もうちょっと上に行ったら、橋がどこらへんに有るのかを確認しなきゃいけないな。
その為には廊下に出なければならないが…。
と、階段を降りて来る足音。
慌てて明るい廊下への出口から見えない所まで階段を降り、息を潜める。
倉庫へは行きません様に、と祈りながら足音に耳を澄ます。
足音は階段から外れて廊下の方に行った。
ほぅ、と安堵の息を漏らす命世。
中央は怖い所だ。
郵便屋は、大人しくしていればすぐに村に帰れると言ってた。
だが、いきなり殺され掛けた。
ここの人間は誰も信用出来ないと思った方が良いだろう。
早くこの建物から出て村へと帰らなければ。
右手を拳の形にしながら慎重に階段を登る。
どんな事をしても、絶対にここから逃げてやる。
兄さんの許に帰るんだ。
誰かに見付かったら大暴れしてやろう。
本物の兵士に勝てる見込みは無いだろうが、大人しく殺されるのはまっぴらゴメンだからね。




