第三章
人は何故、人を傷つけるのだろう。
その人に危害を加えたわけでもない。何か目に余ることをしたわけでもない。ただ、“選ばれた”だけ。それだけで、あらゆる悪意の矛先になる。そうして人は人を味方につけ、あたかもこちらが悪者であるかのように振る舞う。何故、私なの。ある日、勇気を振り絞ってそう訊いてみた。彼は、下劣で、歪で、醜く、気持ちの悪い、吐き気のするような笑顔で言った。
『理由なんてないけど……強いて言うなら、お前がそこに“いる”からかな』
まともに会話をしたことすらない人。それどころか、視線を合わせたことすら限られる人に、嫌われていた。私は目立った行為など何もしていない。ただ、教室の一角にいただけ。それなのに、気がつけば避けられるようになっていた。避けられるだけなら幸せだった。やがて、汚い言葉を浴びせられるようになった。わざわざ呼び止められて、指を指しながら笑われた。机が落書きだらけになっていた。ロッカーはゴミだらけになっていた。上履きに画鋲なんて生易しいものじゃない。気に入っていたスニーカーが、なくなっていたこともあった。
そのうち、私は理解した。彼らは、私のことが本心から嫌いなわけじゃないのかもしれない。ただ、優位に立ちたかったのではないか。彼らには、私という“犠牲者”が必要だったのではないか、と。
その時から、私は彼らを恨むと共に、世界の理不尽さをも恨んだ。どうして私だったのだろうか。彼らに言わせれば、私がそこにいたからいけないんだろうけど。どうしても……どうしても、そんなの納得出来なかった。
嫌いだからといって、別にその人に死んでほしいわけじゃない。
ただ、いなくなってほしかった。
私にこんな思いをさせた人たち全員、私の前からいなくなってほしかった。
でも、私はそう思うばかりで、自らの刃を彼らに向けることはなかった。代わりに、いつも浴室の鏡を睨みつけていた。あなたが、いけないんだ。あなたが、弱いから。
その思惟の先には、私がいた。
気がつけば、彼らを恨むことはなくなり、自分を悔いるようになっていた。
彼らに虐められる私が悪いんだ。引っ込み思案な私がいけないんだ。誰かに助けを請うことが出来ない、私がいけないんだ。これは自業自得なんだ。
もしかしたら、それは洗脳だったのかもしれない。彼らのように他人を傷つける人にはなりたくなかった。だから、自分を傷つけた。彼らが憎い。その醜い怒りは殺意になることなく、いつしか“死にたい”という感情になっていた。他人を消すことは難しい。けれど、自分を消すのは簡単だ。何をすれば自分が死ぬのか、自分のことだからよくわかる。
やがて私は私をも他人のように見るようになり、自分を嫌い、自分とは違う“自分”を創り上げた。笑みしか浮かべない顔。他人と距離を置き、余計な波風を立てないための敬語。彼らに強要されたなんて、単なる口上でしかなかった。
ある日彼らに、いつも笑っていて気持ち悪いと言われた。傷つかなかった。だってこれは、私じゃないから。私じゃない、“私”だから。
そうして私は、いつしか彼らの虐めが気にならなくなった。
けれど、これで話は終わりじゃなかった。世間はいつだって、曖昧なエンディングを許してはくれない。
ある朝教室へ入ると、いきなり殴られた。暴力というものを知らなかった私は、軽く頬を殴られただけで泣き喚いた。授業の時に目を腫らしていたら先生に不審がられたけど、言えるわけがなかった。言ったら、きっとエスカレートする。だから私は、やっぱり笑っていた。
でも、言わなくても、日に日にそれは酷くなっていった。最初はただ殴るだけだったのが、終いには箒で叩かれるまでになっていた。
やがて私の脚は、暴力に屈した。
骨折していた。
入院を余儀なくされた私は、学校を辞めようかとも思った。お母さんは面倒くさそうに、「これ以上私に迷惑かけるなら辞めなさい」と言った。いつもと変わらない冷たい言葉だったけど、今回ばかりはそのとおりにしてもいいかなと思った。
けれど、人づてで彼らが退学になったことを聞かされた私は、愚かにも思い描いてしまったのだ。虐められることのない、学校生活を。輝かしい、未来を。
退院して初めての学校。今までより遥かに軽かった足取りは、教室の戸を開けた瞬間以前のそれに戻った。あからさまな敵意と、憐れむ視線。結局、それからも何かが変わるということはなかった。教室では、相変わらず空気のように漂っているだけ。唯一の救いは、暴力がなくなったということ。それが救いと呼べること自体おかしな話なのだけれど、私が屈する可能性は消えた。
そして今も、私はそんな日常の中にいる――
新城の話は俄かにも信じがたい話だった。そんな話が許されるのだろうか。そもそも、あり得るのだろうか。そんな馬鹿げたことを、しばらくの間考え続けていた。あの文化祭の日、嫌な顔一つせず協力してくれた新城が嘘をつくなんてことはないはずだ。それに、こんな残酷な嘘をつける人間なんていないはず。そして何より、俺は既にいくつかのピースを持っていた。それが今、完全に一つの“答え”となった。
「念のため一回だけ確認させてくれ。それは全て本当なんだな?」
俺の問いに、新城は力なく頷く。それを認めるなり、俺は新城を思いきり抱き寄せた。
「はわわわわ、天野くん!?」
「……気がついてやれなくて、すまん」
腕の中にある俺よりずっと弱々しい身体は、どれほどの傷を抱えているのだろうか。行動を共にすることも少なからずあったのに、何故気がつかなかったのだろうか。俺は自分への怒りで満ちていた。
「……いいんですよ、天野くん。こうして話を聞いて頂けるだけでも、本当に救われたんです。ありがとうございました」
そんな強がりを見せる新城を、さらに強い力で抱き締める。
「天野くん……」
新城が、優しい声で呼ぶ。
その瞬間、後ろから何かが落ちる音がした。
「う、浮気現場……?」
バッグを取り落とした優希が、悲しそうな瞳で茫然と立ち竦んでいた。




