デッドエンド・フリーズ(仮)
静止した雨粒が、灰色の空中に無数に浮かんでいる。 硝煙の匂いも、遠くで崩れ落ちるビルの轟音も、すべてが凍りついた無音の世界。 時間が死に絶えたこの「現在」で、俺の呼吸音だけがひどく生々しく響いていた。
『——ダイブシークエンス、スタンバイ。対象座標、第4次防衛戦線跡地。史実における部隊全滅まで、猶予は180秒』
脳内に直接響く、観測AIヴェルメアの冷徹な合成音声。 俺は黙って右腕に重厚感のある鉄甲[ガントレット]を装着し、左手の掌を開いた。 そこにあるのは、一枚の古びた認識票。赤黒い錆と、誰かの乾いた血がこびりついている。 これを握りしめた瞬間から、俺は「俺」ではなくなる。時間が停止する前の絶望的な過去、その最前線で惨たらしくも勇敢に戦って死んだ、一人の兵士。それが今回の俺の「器」だ。
「……変数回収、開始する」
認識票を強く握り込む。ギザギザとした金属の縁が皮膚に食い込む痛みを引き金に、世界が反転した。
*
——鼓膜が、破裂したかと思った。
「退け! 後衛は俺が抑える! 早く行けぇっ!!」
怒号が耳を打つ。いや、叫んでいるのは俺自身の口だった。 強烈な土煙が肺を満たし、むせ返る。鼻腔を殴りつけるような、強烈な鉄錆と臓物の匂い。 足が泥に深く沈み込む。俺の意志とは無関係に、歯の根がカチカチと鳴り、心臓が破裂しそうなほどに打ち鳴鐘られている。圧倒的な暴力の前に、彼の肉体は恐怖で悲鳴を上げていた。 だが、それでも彼は一歩も退かなかった。震える手でアサルトライフルを構え、後退する仲間たちのために弾幕を張り続けている。 これが、この認識票の持ち主の「生きた証」。俺は今、彼の勇気と絶望の狭間に間借りしている。
『ダイブ成功。現在時刻、史実における戦死イベントの3分前です』
ヴェルメアの声が、爆音の奥で冷静に告げた。 猶予は3分。視界の端で、ノイズ混じりのタイマーが明滅する。 目的は一つ。前方約三十メートル先にある塹壕跡地に落ちている「アルス技術の欠片」を回収すること。
俺は仲間の背中を見送ると、史実のレールをなぞるように、わざと敵の射線へと身を乗り出した。 「こっちだ、クソ野郎ども!!」 引き金を引く。直後、俺がたった今立っていた空間を大口径の機銃掃射が薙ぎ払った。空気が切り裂かれる熱を頬に感じながら、俺はわざとバランスを崩して泥の海へ転がり込む。 口の中にジャリジャリと泥と砂が入り込む。血の味がした。 俺は傷ついた兵士の軌跡を狂いなくトレースし、計算し尽くされたルートで塹壕へと這い進む。
ドンッ! という鈍い衝撃とともに、左肩に焼け焦げるような痛みが走った。 「がっ……!」 痛みに視界が白濁するが、肉体が破壊されることはない。この時代における俺の負傷は、すべて触媒である「認識票」が肩代わりしてくれる。だが、ダメージを受けるごとに触媒の耐久値は削れ、限界を迎えれば灰となる。 焦燥感が胸を焼く。
『残り、60秒』
周囲では、着弾のたびに大地が抉れ、火柱が上がる。怒号と悲鳴が飛び交う地獄の底で、俺はひたすら泥を蹴り立てて走った。 あと十メートル。すり鉢状になった塹壕の縁が見えた。 最後の一歩を踏み出そうとした瞬間、史実通りに右太腿を銃弾が貫く。激痛に耐えきれず、俺は頭から泥水の中へ滑り落ちた。
『残り、20秒。目標地点へ到達』
腐臭と泥の底。俺は這いずりながら泥を掻き分けた。爪の間に土が入り込み、指先が裂けるのも構わずに掘り返す。 あった。 泥にまみれた、銀色のひしゃげた懐中時計。 俺はそれを鷲掴みにした。蓋はひしゃげ、ひび割れたガラスの奥で、秒針の代わりに「青白い八面体の結晶(アルス技術の欠片)」が微かに明滅している。 だが、その光はノイズにまみれ、今にも消えそうだった。彼が撃たれ、塹壕に倒れ込んだ際の衝撃で、内部の量子的構造が完全に破断している。
『警告。対象変数の深刻な破損を確認。現在の状態では、システムが次元の異物としてパージします。現在座標への転送は不可能です』 「……ここで直せってことかよ!」
舌打ちをして、俺は右腕の鉄甲[ガントレット]を懐中時計に押し当てた。 『修復シークエンス起動。完了まで、推定10秒』
その瞬間——。 背後の空気が、極限まで圧縮されるような凄まじい音がした。 上空から、この兵士の命を奪った巨大な重砲弾が降ってくる。
『史実における致死イベントまで、残り10秒』
泥水の中で、鉄甲[ガントレット]から青い幾何学的な光紋が放たれた。光が懐中時計の亀裂を這い回り、失われたアルスの回路を強制的に繋ぎ直していく。 リペア率、30%、50%……。 光に触れた瞬間、鉄甲[ガントレット]越しに「彼」の記憶が流れ込んできた。 ひしゃげた時計の蓋の裏に貼られていたのは、泥で汚れた妻と幼い娘の写真だった。
——生きたい。生きて、帰りたい。 ——でも、俺が逃げたら、あいつらが死ぬ。
凍りつくような冷たい泥の中で、リペアの光だけが、命の熱のように温かかった。 恐怖で泣き叫びたい本音を殺し、ただ愛する者たちが生きる未来を守るために、彼はここに一人残ったのだ。
上空の空気が震え、死の影が俺を完全に覆い尽くす。 リペア率、80%、90%……。 「お前の生きた証は——」 俺は泥まみれの時計を、祈るように両手で包み込んだ。 「俺が直して、未来へ繋ぐ」
『リペア率、100%。変数、固定完了』
『強制帰還[キックアウト]を実行します』
俺の網膜を、世界を焼き尽くすほどの閃光が覆い尽くした。
*
完全な、無音。 肺が痙攣し、俺はコンクリートの地面に激しく咳き込んだ。 口から泥と血の混じった唾液が吐き出され、静止した空間の床を汚す。 全身が鉛のように重い。心臓が早鐘のように打ち鳴り、耳鳴りが止まらない。
ゆっくりと顔を上げると、空中には相変わらず雨粒がピタリと静止していた。 時間が死んだ「現在」への生還。
俺は荒い息を吐きながら、固く握りしめた左手を開いた。 異常な高熱を帯びていた認識票が、サラ……と音を立てて崩れていく。 史実の負荷と、致命傷の着弾を肩代わりした代償。赤黒かった金属片は完全に限界を迎え、細かい灰となって指の隙間からこぼれ落ちていった。 これで俺は二度と、あの名誉ある兵士の最期にアクセスすることはできない。
だが。 灰が風もないのに散っていく中、俺の右手には、見事に修復された銀の懐中時計が握られていた。 泥は消え去り、澄んだ青い光を放つ結晶が、力強く脈打っている。
『——変数の回収ならびに修復を確認。触媒のロストを記録しました』
ヴェルメアの声には、相変わらず何の感情もこもっていない。 俺は懐中時計の蓋をそっと開けた。 そこにあるはずの写真の姿は、今の次元ではもう視認できない。だが、彼の確かな意志の残響が、掌に温かく残っていた。
このちっぽけな回収物[アーティファクト]で、滅亡してフリーズしたこの世界は、ほんの「0.01秒」だけ未来へ進むことができる。
「……次だ、ヴェルメア」
俺は痛む肩を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。 静止した世界を動かすための、そして過去に散った命たちを修理するための果てしのない旅は、まだ終わらない。




