最終電車の女
これは、私が20代前半だったときの記憶を小説風にアレンジしたものです。
初投稿なので、色々と至らない部分もあるかと思いますが、最後まで見て頂けると幸いです。
深夜0時30分。
仕事が夜遅くまで続いた俺は、走って駅まで向かっていた。
15分後に到着する最終電車に乗れなければ家に帰ることができない。
「――間に合うか」
真夏の夜の蒸し暑さで全身から玉のように噴き出る汗。
ワイシャツがぴたりと肌にくっつくのを我慢して、俺は必死に足を動かしていた。
駅に到着し、改札を抜ける。
ふと腕時計を確認すると、時間は0時40分だった。
あと5分――順当に行けば確実に間に合う。
俺は安堵し、歩幅を緩めた。
風が無く、密閉されたような空間は、汗水流して走り続けた俺にはあまりに酷な環境だった。俺の足音だけがこつこつと響く狭い通路を抜けて、俺はホームにたどり着いた。
少しの間待っていると、まもなく電車が到着するというアナウンスがホーム全体に響いた。
俺はアナウンスに従い、黄色い線の内側で待っていると、左から電車がやってきた。
電車が到着すると同時に巻き起こる一瞬の突風は、体力を奪われた俺へ少しばかり癒しを届けているように感じた。
電車の中は、俺以外には人が何人かいるだけだった。
仕事と猛ダッシュで疲労困憊の俺はできるだけ一人になりたくて、近くに誰もいない席を選び、どかっと腰を下ろした。
電車は空調がききすぎているのか、やけに冷えている。全身の汗の膜が瞬く間に冷やされ、逆に寒く感じるほどだった。
窓を見ると、街灯や夜の店の光が高速で流れている。
それを見ながら俺はぼんやりと、この生活が早く終わることを願っていた。
しばらく電車に乗っていると、やがて俺一人になった。
「俺一人なら、横になっても咎める人はいないはずだ」
電車の座席をいくつも使って貸し切り状態を満喫していると、電車のアナウンスが聞こえた。
しかし、何かおかしい。
電車のアナウンスはところどころに砂嵐のようなザーという音が鳴りはじめ、古いラジオを彷彿とさせる。
しだいに、砂嵐の音しか聞こえなくなり、電車のアナウンスは正常に機能しなくなった。
「まじかよ」
電車はスピードをゆるめる。身体が進行方向にぴっと引っ張られ、電車が完全に停まった時、扉が開いた。
見知らぬ場所。少なくとも、最寄り駅はここではない。
俺はそのまま乗り続けていると、10人ほどの女性が遠くの扉から入っているのが見えた。女性は例外なく白い服を着ていて、黒いトレーの上に何かを乗せている。
扉はしまり、電車は動いたと同時に、電車の中は赤ん坊のような泣き声が響き出した。
こんな時間に子供を連れ回して、何をしているんだ。
当てつける先もなく憤る俺。
次第に泣き声は大きくなり、泣いているのか叫んでいるのかもわからないほどだった。
俺はあまりの煩さに文句を言おうとしてその場を立ち上がり、泣き声の元へと向かった。
泣き声は白い服を着た女性たちから聞こえてくる。
いら立つ俺の足音すら、赤ん坊の泣き声のような音にかき消される。
女性たちまでの距離があと数歩のところまで近づいた俺はあることに気付いて、言葉を失った。
女性たちが持つ黒いトレーの上には、生きた赤ん坊が乗っていたのだ。
それも、全ての女が、赤ん坊をそれぞれ1人ずつだ。
女たちはまるで俺の存在を認識していないかのように、こちらに視線を向けてこない。ただただ例外なく目の前の赤ん坊を乗せたトレー視線を落とすばかりで何もしなかったのだ。
あまりの不気味さに俺は思わず後ずさりをする。
すると、一人の女がポケットからナイフとフォークを取り出した。
それを皮切りに、他の女たちも次々とポケットから同じものを取り出す。すると、トレーの上に乗った、泣いている赤ん坊が一人、また一人と手足がドロドロと溶けだした。
手足が溶けた赤ん坊たちは胴体と頭だけになる。黒のトレーは肌色の液体が、まるで溶けたバターのように溝を伝って流れていく。
あまりの恐怖に俺は足がすくみ、動けないでいた。
冷えすぎた身体はおそらく電車内の冷房だけのせいではないだろう。
手足だけでなく、身体もゆっくりと溶けだした赤ん坊たちは次第に形でなくなっていく。
トレーは元の色が黒だったとは思えないほど、溶けた赤ん坊の液体で埋め尽くされ、今にも溢れそうだった。
電車内に響く赤ん坊の声。女性たちは次第に溶けゆく赤ん坊が乗ったトレーを膝の上に置き、その変化をさも当たり前のように見つめていた。ナイフとフォークを両手に構え――まるで、食事のように。
やがて、赤ん坊の身体も形を失っていき、何とか形を保っているのは頭だけになった。肌色の液体がトレーの上に収まりきらず、女の一人が車両の座席に溶けた赤ん坊の雫をしみ込ませた瞬間、一斉に赤ん坊の泣き声が止んだ。
――その瞬間だった。
全ての女の視線が俺に向けられる。その目は怒っているようにも笑っているようにも見えて、とても不気味だった。
女たちはトレーから肌色の液体をぽたぽたとこぼしながらゆっくりと立ち上がり、のろのろと小刻みで俺に迫り始めた。
――逃げないと!
かなりヤバい状況だと察した俺は女たちに背を向け、別の車両へと繋がる扉に手を掛けた。
しかし、扉はびくともしない。
振り返ると、十数歩ほど先に女たちが、白目を向けながらのろのろとこちらに向かって足を進めている。
「開けろっ!」
俺はありったけの力を込めて扉をこじ開けようとする。
――開かない。
銀色の扉の一部はガラス張りになっていて、隣の空いた車両は目に入っているのに、そこが立入禁止だと言わんばかりに俺を拒む。
背後からコツコツと迫る女の足音が聞こえてくる。反射したガラスからは次第に女がこちらに近寄っているのが見える。
「頼む、開いてくれ!」
ガチャガチャと音を立てながら扉に手をかける。俺の意思に反して微動だにしない扉。
振り返ると、女たちがあと数歩先のところまで迫っている。
トレーからは溶けた赤ん坊の液体が垂れていて、床をびちゃびちゃと汚している。
俺は視線を扉に戻し、祈りながら扉に手をかけ、思いっきり引いた。
すると、扉はあっさりと開き、反動で俺はよろめく。這うようにしてその車両から逃げ、扉を閉めて隣の車両に移ると、女たちが扉越しに足を止めた。
俺は息を切らし、扉越しに女の胴体とトレーに乗せられたドロドロに溶けた赤ん坊に視線を向けた。
助かった。俺は安堵し、扉に背中を向けたその時――
目の前にその女が立っていたのだ。
そいつは俺より背が高く、白目をむいて、ドロドロに溶けた赤ん坊を乗せたトレーを手に持ちながら薄ら笑いを浮かべていた。
あまりの恐ろしさに俺は悲鳴を上げた。
そこからの記憶はないが、無我夢中で電車から降り、見知らぬ場所でたまたま見つけたネカフェに泊まり、夜を明かしたことは覚えている。
今では思い出すこともほとんどなくなったが、あの時の女の顔とドロドロに溶けた赤ん坊を思い出すと、今でも身の毛がよだつ。