冷凍少女 ―魔王誕生前日譚―
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この世界には、ある“昔話”が伝わっている。
とても古く、とても曖昧で、どこか神話めいたその話は――
「世界のどこかに、死なない少女がいる」。
それは神の贈り物か、魔術師の罪か、兵器の残滓か。
何も分かっていない。
ただ、その少女は“凍って眠っている”という。
そして、彼女を見つけた者には、不死の力が与えられるのだと。
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「……よっっしゃあ!ついに見つけたァーーーッ!」
崩れかけた石の塔の最奥で、エルドは全力のガッツポーズをかました。
肩で息をしながら、興奮で目をキラキラさせている。
髪は砂ぼこりと汗でボサボサ、ローブは破けて膝小僧が出ている。
だがその前に横たわっていた“それ”は、
そんな彼のテンションをまるで嘲笑うかのように――
氷の中で、無表情に目を閉じていた。
透き通った氷の棺。
眠るのは、10歳ほどの小さな少女。
まるで死体のようで、
まるで人形のようで、
それでも、「生きている」ように見えた。
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「……これが、“冷凍少女”……」
エルドはゴクリと喉を鳴らし、
懐から持参した巻物やメモ帳を取り出すと、ページを乱暴にめくりながら叫んだ。
「よし、解凍の術式!たしか魔力を…注ぎながら温を…いや、あれ!?湯!?どこに湯!?」
次の瞬間、
彼の背負っていたポーチから取り出されたのは――
旅先の温泉街で買った、魔導師用“携帯湯沸かしポット”だった。
「こんなときのために買ったわけじゃないけど! いけ、マグマ温泉モード!!」
ボンッ、と豪快な音を立てて、熱湯が蒸気と共に噴き出す。
エルドは咄嗟に氷の棺に向けて魔力を送り込み、熱を制御しながら全身にかけ流すように調整していく。
――その作業は、思ったより地味で長かった。
額から汗を流しながら、必死に術式を走らせ続ける。
指先はぷるぷる震え、ポーチの魔力結晶も一本、二本と消えていく。
やがて、氷が――音もなく、崩れた。
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透明な破片が床に散らばった。
少女はそこに、まるで最初から存在していたかのように、静かに座り込んでいた。
目を閉じていたその瞼が、かすかに動く。
ぱちり、と。
まばたき一つで、彼女は目を覚ました。
だが声は出さない。
体も動かさない。
呼吸の音すらない。
ただその視線だけが、確かに――エルドを、見ていた。
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「……うおっ、生きてる!生きてるよなこれ!?」
完全にびびりながらも、エルドは震える手で巻物を開く。
解凍の手順の先に、ひとつだけ名前らしきものが書かれていた。
> 『C-07 セラ(Sera)』
「名前……セラ、って書いてあるな。呼んでいいのかな、これ」
返事は、もちろんない。
「……返事はしないよね。うん、セラで決定っと。」
そう言って、彼は少し笑った。
「俺はエルドね。よろしくな、セラ」
少女は無言のまま、じっと見つめていた。
けれど、ほんのわずかに、
“何かを確認するようなまばたき”を一つだけ、落としたように見えた。
―─翌日。
塔をあとにしたふたりは、
目的地もなく、ひたすら森の奥を歩いていた。
先を歩くのは、エルド。
セラは、ひたすらその数歩後ろをぴったりついて歩いてくる。
話しかけても、返事はない。
何を聞いても、何を言っても、表情も変わらない。
ただ、じっと見つめてくる。
「……うーん。なんか、その……不機嫌だったら、眉だけでも動かしてくれるとありがたいんだけど?」
無反応。
「ご機嫌だったら……あ、そっか。不死なら腹も減らないし、暑さも寒さも関係ないし、疲れない……まじかよ、不死ってチートすぎない?」
無反応。
「……ちょっとだけ、笑ってくれたりとか……」
セラは、ただ見つめていた。
けれど、ほんの少しだけ、
エルドの肩のあたりに視線を落としたような気がした。
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「なあ、君って……疲れないの? 俺もう無理なんだけど。……ああ、そうか。君、死なないもんな。」
崩れた切り株に腰を下ろして、ポーチをごそごそと探る。
……が、中は空だった。
パンも、干し肉も、果実も、なにもない。
魔力で熱すら起こせないほどに、彼の体力も限界に近かった。
「……あはは、そっかー。
そういえば、昨日の“全魔力解凍チャレンジ”で、残りゼロだったわ……」
笑いながら、額の汗をぬぐう。
その手を、セラが見ていた。
無言で、じっと。
「……なに?」
セラは何も言わず、ほんのわずかに眉をひそめた。
エルドは少し照れたように笑って、一瞬目を泳がす。
そして、ポーチの奥から一枚だけ残っていた布を取り出す。
簡単に畳むと、セラに差し出した。
「これ、座るとき敷いとけよ。冷えて風邪引くぞ……って引かねぇのか」
ほんのわずかに、まばたきをしたように見えた。
セラは一瞬だけ、彼の顔を見た。
「……まじで腹減った。干し肉の匂いが恋しい……」
エルドは地面に崩れ落ち、顔をしかめる。
「ねぇ、セラ。君の“その力”、俺にもくれない?
…不死とか、もう最高じゃん……。」
乾いた笑い声。
セラは何も言わず、ただ彼の横顔を見ていた。
その直後だった。
セラがすっと腰を上げると、
端に生えていた不気味な紫のキノコを、
ためらいもなく、ひょい、と引き抜き、そのまま口に運んだ。
「……ちょ、おまっ、それ、ヤバいやつだって……ッ!?」
叫ぶより早く、彼女はキノコを噛みちぎって飲み込んだ。
次の瞬間。
バチン、という音とともに、セラの背筋がのけぞった。
白目を剥き、喉から「グッ……ブッ……」という濁音が漏れた。
口の端から泡を吹き、膝から崩れ落ちる。
痙攣。激しい嘔吐。鼻血。発作のような痙攣。
肌が灰色になり、口が開ききったまま動かなくなる。
エルドはその場に凍りついた。
「…………っっう、そだろ……!? 死んだ!?いや、おい、ちょっ……セラ!?セラぁ!?」
慌てて駆け寄る。
でも、揺すっても動かない。
呼吸も、脈も、何も感じない。
セラは、完全に“死んで”いた。
心臓が動いていない音が、
静かな森に、やけに大きく響いていた。
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――数十秒後。
セラの体が、ふ、と動いた。
そして、何事もなかったかのように、
上体を起こし、まばたきをした。
エルドを見た。
まっすぐ、真顔で、見つめていた。
「…………な、にそれ」
エルドの声は、限界まで震えていた。
「今の……何……な、なんで……なんで食べたの!?死ぬやつじゃん!いや、死んでたじゃん!!?」
セラは何も言わない。
でも、その小さな顔には――
「あなたが食べる前に、毒味をしてあげたの」
と言わんばかりの、
ほんのわずかな“ドヤ顔”が浮かんでいた。
エルドは、その場で崩れ落ちた。
「…………この子、やべえ。」
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――その夜。
ふたりは、小さな丘の上で火を囲んでいた。
大きな出来事のあとは、たいてい静けさがやってくる。
セラは焚き火の反対側にちょこんと座っていた。
表情は変わらず、無言で火を見つめている。
エルドは、枝を火にくべながら、ふと目を上げた。
「……あのさ、お前、なんであんなことしたの?」
返事はない。
「毒キノコのことだよ……。
“俺に食わせないように”って……勝手に死ぬの、やめてくんない?」
軽く笑って言ったつもりだった。
けれどセラは、じっと彼の顔を見たまま、微動だにしなかった。
その視線が、妙に胸に残った。
「……なあ、君って、もしかしてさ――」
何かを言いかけたそのとき。
セラが、そっと自分の膝の上にあった布を掴み、
それを火の傍に座っているエルドの足元に、ぽとりと置いた。
「……え?」
思わず声が出た。
布は、昼間、エルドが彼女に座布団代わりに渡したものだった。
「なんで……」
セラは、なにも言わなかった。
でも、その顔はまっすぐエルドを見ていて――
どこか、「今度はあなたが使って」と言っているように見えた。
「……ったく。変なやつ……」
そう言いながら、エルドはその布を拾い上げた。
照れ隠しのように、少しだけ火をかき混ぜる。
「……でも、ありがと」
セラはその言葉にも何も反応しなかった。
けれど、その目元だけが、ほんのわずかに――
いつもより、やさしく見えた。
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風の音が、少しだけ変わった気がした。
森の奥深く、ふたりの旅路は続いている。
セラはいつも通り、エルドの数歩後ろをぴったりと歩いている。
無言で。まばたきもせずに。
その背後――
ずっと遠くの空の上で、何かがひとつ、揺れた。
目に見えない何かが、森の結界に触れ、弾けるように砕けた。
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同時刻。
とある王都の地下、魔導軍術技局・第七観測室。
監視結晶が、唐突に反応を示す。
識別コード【C-07】。
それは“理論上、存在しないはずの魔力式”。
術士たちの間に、静かな緊張が走った。
「……反応、確認しました。本物です」
「一致率、99.87%。誤検出ではありません」
「隠匿封印式の痕跡あり。長期封印からの解除による残渣と推定されます」
部屋の空気が、一気に冷えた。
そのコードが示すもの――
それは、かつて戦時中に“国家主導で開発された再生兵計画”、その最終被験体。
正式名称、再生観察個体C-07。
通称、“冷凍少女”。
「……発見すれば、我が軍の戦力は一世代跳ぶ」
「急げ。回収部隊を出す」
「確保が不可能なら、破壊してでも機密を持ち帰れ」
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一方そのころ。
焚き火の傍らで、エルドは巻物を開いていた。
旅の途中、何度も読み返したはずのページ。
だが、その裏に、見慣れない折り目があることに気づく。
古い記録が、手書きで残されていた。
『被験体C-07(セラ)』
『生体再生限界観察対象』
『再生限度:約12回(推定)』
『他個体:全崩壊済(5~9回)』
『最終処置:秘匿封印(結界三重術式)』
彼の目が、かすかに揺れた。
「……“不死”なんかじゃ……なかったのか……」
風が吹いた。
セラは焚き火を見ていた。
微動だにせず、何も言わず、
ただそこに“在る”というように。
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その夜、
森の外れに軍用の黒い馬車が静かに停まる。
兵士たちはすでに、
“国家の力を変えるための回収作戦”として、動き始めていた。
彼らは知らない。
その少女が、
既に“限界の命”を削りながら旅をしていることを。
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森に、不穏な風が吹いた。
それは“気配”というには曖昧で、
だが確かに、何かが近づいていた。
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焚き火の火が、小さく揺れた。
「……なんだ…?」
エルドがぼそりとつぶやいたときには、もう手遅れだった。
黒衣の兵士たちが、森の闇から現れた。
総勢十数名。完全武装。魔導兵装を全身にまとい、迷いなく彼らを囲む。
セラは、立っていた。
焚き火の影に背を向けるようにして、
いつものように、静かに、ただ立っていた。
「被験体C-07を発見。反応一致」
「これより回収作業に入る。抵抗は認められない」
「随伴者は妨害対象と見なす。排除を許可」
エルドの目が見開かれる。
「……お前ら、なんなんだよ……!
急に現れて…俺ら何かしたか!? なんで、なんで囲んでんだよ!!」
叫んでも、兵士たちは動かない。
セラを中心に円を描き、じわじわと距離を詰めていく。
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そのときだった。
セラが、一歩前に出た。
エルドをかばうように、片腕を広げる。
顔は変わらない。無表情のまま。
それが、はじめて彼女が自分の意思で“誰かを守った”瞬間だった。
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次の瞬間、閃光が走った。
魔導弾が、警告もなく放たれる。
空気が裂ける音。火花がはじける。
セラの体に、直撃。
彼女は吹き飛ばされるように倒れ、地面に叩きつけられた。
「セラッ!!」
エルドが駆け寄る。
だがセラは、そこに横たわったまま、動かない。
血が流れていない。
代わりに、傷口からは淡い光が滲み出ていた。
再生が、始まっている。
……だが。
それは、あまりにも、遅かった。
再生するたびに、その体は“欠け”ていく。
肌はひび割れ、髪は抜け落ち、眼球の焦点が合わなくなる。
細胞が、もう限界を越えている。
兵士たちがざわめいた。
「再生反応が……不安定だ」
「回数限界か? 記録では12回が――」
「……終わるぞ。これ以上は、もう……」
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「……やめろ……」
エルドが、崩れるように膝をついた。
「やめてくれよ……セラ……!」
セラは、わずかに顔を向けた。
最後の最後に――
その目が、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
そして、
セラの体は、音もなく、崩れた。
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その場に残ったのは、
光の粒と、真っ白な布のような服の切れ端だけだった。
風が吹いた。
なにも語らず、なにも残さず、
彼女は、本当に“死んだ”。
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セラの崩れた残骸に、風が吹き抜けていく。
血も、涙も流れなかった。
ただ、そこに在った命が、確かに消えた。
エルドは膝をついたまま、動けずにいた。
口は開いたまま、声が出ない。
胸の奥が焼けるように痛いのに、何も言えなかった。
「……返せよ」
小さな声だった。
「返せよ……セラを……返せよ……!」
肩が震えた。
歯を食いしばる。
その両手が、地面を握り潰すようにして――爪が食い込む。
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そのとき。
兵士の一人が、淡々と報告を始める。
「対象個体、消失確認」
「回収不能。機密性は消滅」
「残渣のみ持ち帰り、後続部隊へ通知を――」
言葉は、そこまでだった。
ズシャ、という音が響いた。
気づいたときには、そいつの身体は地面に倒れていた。
首だけが、あり得ない方向に向いていた。
その後ろに、エルドが立っていた。
表情は――なかった。
まるでセラのように。
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「……なんでだよ」
その声は、静かで、深かった。
「なんで…守ってやれなかったんだよ」
誰に向けたわけでもない。
でも、森が凍るように冷えた。
「――お前ら、言ってたよな。
“排除も許可”……?
じゃあ、俺も、いいよな……。」
指先が、炎を握った。
魔力の残量は、ゼロだったはずだ。
それでも、火があった。
セラが使い残した“命の粒”が、彼に燃え移った。
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兵士たちが一斉に動く。
だが、遅い。
エルドは、全員を見据えていた。
魔導結晶が破裂し、鎧が溶ける。
空間が歪み、重力が逆転する。
誰もが理解する前に、終わっていた。
そこに残ったのは、焦げた地面と、
燃え尽きた灰だけだった。
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エルドはひとり、森のなかに立っていた。
目の前には、セラの最後の布きれが落ちていた。
それを拾い上げ、そっと握る。
そして、まるで誰かに言い聞かせるように、つぶやいた。
「……大丈夫。
今度は、俺が全部、壊すから」
その瞳に宿っていたのは、
神でも人でもない、“それ以外”の光だった。
そして、やがて世界は思い知る。
この世界に、魔王が誕生したことを。