6.1 命の恩人(2)
胸の奥がじんわりと熱を帯び、心の底から制御できない思考が浮かび上がってくる。
不意に「場違い」に昂ぶってしまうのを避けるため、私は慌てて掛け布団を身体にきつく巻き付け、その失態をどうにか隠そうとした。
――今は余計な妄想をしている場合じゃない。
意識を逸らすため、私は先に口を開いた。
「その……看病してくれて、ありがとう。」
彼女はその言葉に軽く眉を上げ、唇の端に相変わらず掴みどころのない微笑を浮かべたまま、ゆっくりと問いかけてきた。
「傷の具合は、もういいの?」
「もう、大したことはない。」
「ふぅん……」
彼女は尾を引くように声を伸ばし、まだ何か言いたげに一拍置いた。
そして、背後から取り出した新品の衣服を私に差し出す。
「じゃあ、まず服を着て。」
受け取った衣服は清潔で柔らかく、一目で新品だと分かる。元の服はすでにぼろぼろで、とても身につけられる状態ではなかったのだろう。
「ありがとう。」
結局、それ以上の言葉は見つからず、私はただ俯いて手にした衣服に視線を落とした。
彼女は私の狼狽を面白そうに眺め、まるでその様子を楽しんでいるかのようだ。
私は引きつった笑みを浮かべ、ようやく彼女は気を利かせて背を向けた――だが、部屋を出る気配はなかった。
まあ、包帯を巻かれた時点で、私の裸などすでに見られているだろう。今さら取り繕うのも滑稽だ。
私は背中を向けたまま急いで服を身に着けたが、「そこ」が微かに反応して膨らんでしまうのを抑えることはできなかった。
頭がどこかぼんやりと熱く、体温も不自然に高まっていた。
ちょうど服の乱れを整え、細部を確かめていた時、背後から声が落ちた。
「ベルト、忘れないで。私はベルトを大事にしているの」
思わず手を止め、壁に掛けられたベルトを見る。これはただ一つ、交換されずに残っていた品だ。しかも丁寧に磨かれており、金具はきらりと光る。その几帳面さに、少し驚かされる。
「分かった。ありがとう」
私はベルトを締め、深呼吸して訳の分からぬ不安を押し下げる。裾の皺を指で伸ばし、振り返った。
「着替えたよ」
彼女はゆっくりと向き直り、私を頭の先からつま先まで検分するように見つめる。深い焦茶の瞳が複雑な色を帯びる。賞賛の気配と、どこか戯れの色が同居していて、掴みどころがない。
そして、彼女は微笑み、静かに言った。
「それでこそ、私の知っている……ラファエルくん」
思考は見えない衝撃に殴られたように揺らぎ、混乱に沈む。――なぜ、私の名を?
知っているどころではない。長く知り合いだったかのような親密さすら漂う。だが、そんなはずはない。私は彼女を知らない。
胸の警鐘が一斉に鳴り、身体が反射的に強張る。肌の上を鳥肌が走った。
「君……私を知っているのか?」
探るように問う。声には警戒と不安が滲む。
彼女はわずかに身を傾け、意味深な笑みを崩さぬまま、柔らかな、どこか曖昧な響きで言う。
「私はね……ずっとあなたに恋していた人」
――恋? 眉間が寄る。記憶を総ざらいしても、彼女の影はどこにもない。
「恋? 私のことを想っている人なんて、覚えがないが」
彼女はくすりと笑う。まるで予期していた反応だと言わんばかりに。
「そうよね。私の好きなラファエルくんは、人混みの中であまりに眩しい。見つめる人が多すぎて、私なんか見えなくても当然だもの」
彼女が一歩近づく。私は本能で一歩退く――その瞬間、眩暈が襲った。内側で何かがかき回され、視界が滲む。
まずい、この感覚は――。
膝が崩れ、私は慌ててベッドの柱を掴む。どうにか踏みとどまるが、さらに悪いことに、言い難い灼熱が体内から湧き上がり、理性を侵蝕していく。
彼女は小首を傾げ、瞳に奇妙な光を宿す。懐かしむようで、どこか病的な陶酔を孕んだ声音で囁く。
「覚えてる? 前に、あなたは道端で私を助けてくれたの」
呼吸が一瞬詰まり、必死に意識を繋ぎ止め、記憶を探る。だが、そんな場面はどこにもない。
「……覚えがない」
彼女は気にも留めず続ける。
「私、道端で三人の薄汚い連中に絡まれていたの。あなたは白馬の王子様みたいに、ためらいなく助けてくれた」
賞賛と感謝に満ちた声。だが私の胸には重石のような疑念が沈む。そんな記憶はない。
その時、彼女の目が変わった。常軌を逸した執着――狂熱と耽溺が瞳の底で炎となり、背筋が冷える。
口元がぴくりと歪み、音もなく距離を詰める。一歩ごとに、私の理性が削られていく。
「その日から、あなたは私の世界でいちばん眩しい人になったの」
抑えきれない震えを孕んだ声。恍惚の幻に沈みながら。
「それで、私はわざわざあなたのクラスに転入したの。毎日あなたを見て、仕草の一つ一つを観察して」
背筋を冷たいものが駆け上がり、こめかみに冷や汗が滲む。――この女は、何者だ?
「君は……私のクラスメイトか?」
声を絞り出す。砂を嚙むように乾いた声で。
彼女は歩みを止め、瞳をわずかに震わせ、またも狂気じみた笑みを浮かべる。私の鈍さを愛おしむかのように。
「やっぱり気づかなかったのね」
首をかしげ、優しげで――だが不穏な調子で囁く。
「あなたは元々、私と同じ。孤独な個体だった。だから……私たちは、対であるべき――」
彼女の声はそこで唐突に途切れ、表情が凍りついたように固まった。顔色は沈み、瞳の奥から黒い影が滲み出していく。燃えるような熱狂は闇に呑み込まれ、代わりに浮かび上がったのは、強烈な怨嗟と怒りだった。
「フェクソルがあんたを受け入れさえしなければ……」
吐き捨てるような声は低く冷ややかで、そこにははっきりとした侮蔑が混じっていた。その名は、彼女が丹念に築き上げた幻想を汚す塵にすぎない――そう言わんばかりに。だが次の瞬間、彼女は自分を嗤うように小さく笑った。その笑みはかすかで柔らかいのに、どこか神経を逆撫でする響きを帯びていた。
「まあいいわ。せいぜい友達止まり。私たちの関係には影響しないもの」
その声音がほんの一瞬だけ和らいだかと思えば――すぐに彼女の全身は引き裂かれたように歪み、顔は苦悶にねじれ、瞳には狂気が宿り、声は一気に跳ね上がった。
「――あのサキュバスの淫女! エフィヴン!!!」
名を吐き出した瞬間、彼女の内に渦巻く怒りが火山の噴火のごとく炸裂し、空間全体を覆い尽くした。握り締めた両の拳は爪が掌に食い込み、身体は細かく震えている。抑え込んでいた激情が、もはや狂気の奔流となって溢れ出していた。
「先にあんたを奪うなんて……絶対に許せない!」
声は震えながらも、そこには狂おしい執念が込められていた。長い時間をかけて織り上げてきた幻想を壊されることなど、到底受け入れられないのだ。
彼女の胸は激しく上下し、瞳は血走り、まるで追い詰められた獣のように息を荒げる。憎悪と嫉妬と狂熱が入り混じった表情は、その美貌を恐ろしく歪ませていた。
「彼女なんて遊びでしかない! 本当にあんたと一緒になるべきなのは、私よ!」
その言葉には微塵の迷いもなく、まるで絶対の真理を告げるかのような確信が宿っていた。
頭の中がどんどん混乱していく。
体内を駆け巡る灼熱は、まるで毒蛇が這い上がるように思考を食い荒らし、血は沸騰して皮膚を焼き尽くさんばかり。欲望は獣の咆哮となって膨れ上がり、胸の内を暴れ回っていた。
――くそっ……この女……俺に何をした!?
冷酷な考えが稲妻のように脳裏を閃く。あの一杯の水だ。
必死に意識を繋ぎ止めようとするが、燃え盛る熱はもはや抑えきれない。視界は霞み、だが目の前の彼女だけは異様に鮮明に浮かび上がり、ゆっくりと、だが確実にこちらへと迫ってくる。その瞳には狂気が宿りながらも、抗い難い執念が揺らめいていた。
ようやく悟る。――俺はすでに、彼女が仕組んだ罠に堕ちてしまったのだと。
「……効いているようね」
囁くような柔らかい声が、わずかな得意げを含んで耳元に響いた。
彼女が歩み寄るその瞬間、時が凍りついたかのように思えた。脳裏は真っ白に塗り潰され、思考は剥ぎ取られ、代わりに満ちていくのは灼熱の渇望。胸の奥底から火山のように噴き上がり、瞬く間に全身を駆け巡り、理性を焼き尽くしていく。
不意に膝が砕け、力を失った身体は一歩退き、辛うじてベッドの縁に腰を落とす。背後の硬い木の感触など、微かな不快さでは意識を引き戻せない。
視界は歪み、周囲の景色はぼやけ、あたかも不要なものすべてが覆い隠されていく。焦点はただ一つ、彼女の姿だけに狭められ、目は自然と胸元の起伏へと吸い寄せられていた。
純粋な欲望がすべてを支配する。混じり気のない、原始的で、恐ろしいほどの衝動。そこに抵抗はなく、生得の本能のように、残されたわずかな理性を容赦なく呑み込んでいく。
そして感情が頂点に達した瞬間――記憶はぷつりと途切れ、切れたフィルムのように闇へと沈んだ。
次に訪れたのは、真っ白な虚無だけだった。




