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第四の魔女:消えた痕跡  作者: Test No. 55
第3卷上 - 逃亡編
92/105

6.1 命の恩人(2)

挿絵(By みてみん)


 胸の奥がじんわりと熱を帯び、心の底から制御できない思考が浮かび上がってくる。

 不意に「場違い」に昂ぶってしまうのを避けるため、私は慌てて掛け布団を身体にきつく巻き付け、その失態をどうにか隠そうとした。

 ――今は余計な妄想をしている場合じゃない。

 意識を逸らすため、私は先に口を開いた。

「その……看病してくれて、ありがとう。」

 彼女はその言葉に軽く眉を上げ、唇の端に相変わらず掴みどころのない微笑を浮かべたまま、ゆっくりと問いかけてきた。

「傷の具合は、もういいの?」

「もう、大したことはない。」

「ふぅん……」

 彼女は尾を引くように声を伸ばし、まだ何か言いたげに一拍置いた。

 そして、背後から取り出した新品の衣服を私に差し出す。

「じゃあ、まず服を着て。」

 受け取った衣服は清潔で柔らかく、一目で新品だと分かる。元の服はすでにぼろぼろで、とても身につけられる状態ではなかったのだろう。

「ありがとう。」

 結局、それ以上の言葉は見つからず、私はただ俯いて手にした衣服に視線を落とした。

 彼女は私の狼狽を面白そうに眺め、まるでその様子を楽しんでいるかのようだ。

 私は引きつった笑みを浮かべ、ようやく彼女は気を利かせて背を向けた――だが、部屋を出る気配はなかった。

 まあ、包帯を巻かれた時点で、私の裸などすでに見られているだろう。今さら取り繕うのも滑稽だ。

 私は背中を向けたまま急いで服を身に着けたが、「そこ」が微かに反応して膨らんでしまうのを抑えることはできなかった。

 頭がどこかぼんやりと熱く、体温も不自然に高まっていた。


 ちょうど服の乱れを整え、細部を確かめていた時、背後から声が落ちた。

「ベルト、忘れないで。私はベルトを大事にしているの」

 思わず手を止め、壁に掛けられたベルトを見る。これはただ一つ、交換されずに残っていた品だ。しかも丁寧に磨かれており、金具はきらりと光る。その几帳面さに、少し驚かされる。

「分かった。ありがとう」

 私はベルトを締め、深呼吸して訳の分からぬ不安を押し下げる。裾の皺を指で伸ばし、振り返った。

「着替えたよ」

 彼女はゆっくりと向き直り、私を頭の先からつま先まで検分するように見つめる。深い焦茶の瞳が複雑な色を帯びる。賞賛の気配と、どこか戯れの色が同居していて、掴みどころがない。

 そして、彼女は微笑み、静かに言った。

「それでこそ、私の知っている……ラファエルくん」


 思考は見えない衝撃に殴られたように揺らぎ、混乱に沈む。――なぜ、私の名を?

 知っているどころではない。長く知り合いだったかのような親密さすら漂う。だが、そんなはずはない。私は彼女を知らない。

 胸の警鐘が一斉に鳴り、身体が反射的に強張る。肌の上を鳥肌が走った。

「君……私を知っているのか?」

 探るように問う。声には警戒と不安が滲む。

 彼女はわずかに身を傾け、意味深な笑みを崩さぬまま、柔らかな、どこか曖昧な響きで言う。

「私はね……ずっとあなたに恋していた人」

 ――恋? 眉間が寄る。記憶を総ざらいしても、彼女の影はどこにもない。

「恋? 私のことを想っている人なんて、覚えがないが」

 彼女はくすりと笑う。まるで予期していた反応だと言わんばかりに。

「そうよね。私の好きなラファエルくんは、人混みの中であまりに眩しい。見つめる人が多すぎて、私なんか見えなくても当然だもの」

 彼女が一歩近づく。私は本能で一歩退く――その瞬間、眩暈が襲った。内側で何かがかき回され、視界が滲む。

 まずい、この感覚は――。

 膝が崩れ、私は慌ててベッドの柱を掴む。どうにか踏みとどまるが、さらに悪いことに、言い難い灼熱が体内から湧き上がり、理性を侵蝕していく。


 彼女は小首を傾げ、瞳に奇妙な光を宿す。懐かしむようで、どこか病的な陶酔を孕んだ声音で囁く。

「覚えてる? 前に、あなたは道端で私を助けてくれたの」

 呼吸が一瞬詰まり、必死に意識を繋ぎ止め、記憶を探る。だが、そんな場面はどこにもない。

「……覚えがない」

 彼女は気にも留めず続ける。

「私、道端で三人の薄汚い連中に絡まれていたの。あなたは白馬の王子様みたいに、ためらいなく助けてくれた」

 賞賛と感謝に満ちた声。だが私の胸には重石のような疑念が沈む。そんな記憶はない。

 その時、彼女の目が変わった。常軌を逸した執着――狂熱と耽溺が瞳の底で炎となり、背筋が冷える。

 口元がぴくりと歪み、音もなく距離を詰める。一歩ごとに、私の理性が削られていく。

「その日から、あなたは私の世界でいちばん眩しい人になったの」

 抑えきれない震えを孕んだ声。恍惚の幻に沈みながら。

「それで、私はわざわざあなたのクラスに転入したの。毎日あなたを見て、仕草の一つ一つを観察して」

 背筋を冷たいものが駆け上がり、こめかみに冷や汗が滲む。――この女は、何者だ?

「君は……私のクラスメイトか?」

 声を絞り出す。砂を嚙むように乾いた声で。

 彼女は歩みを止め、瞳をわずかに震わせ、またも狂気じみた笑みを浮かべる。私の鈍さを愛おしむかのように。

「やっぱり気づかなかったのね」

 首をかしげ、優しげで――だが不穏な調子で囁く。

「あなたは元々、私と同じ。孤独な個体だった。だから……私たちは、ついであるべき――」

 彼女の声はそこで唐突に途切れ、表情が凍りついたように固まった。顔色は沈み、瞳の奥から黒い影が滲み出していく。燃えるような熱狂は闇に呑み込まれ、代わりに浮かび上がったのは、強烈な怨嗟と怒りだった。

「フェクソルがあんたを受け入れさえしなければ……」

 吐き捨てるような声は低く冷ややかで、そこにははっきりとした侮蔑が混じっていた。その名は、彼女が丹念に築き上げた幻想を汚す塵にすぎない――そう言わんばかりに。だが次の瞬間、彼女は自分を嗤うように小さく笑った。その笑みはかすかで柔らかいのに、どこか神経を逆撫でする響きを帯びていた。

「まあいいわ。せいぜい友達止まり。私たちの関係には影響しないもの」

 その声音がほんの一瞬だけ和らいだかと思えば――すぐに彼女の全身は引き裂かれたように歪み、顔は苦悶にねじれ、瞳には狂気が宿り、声は一気に跳ね上がった。

「――あのサキュバスの淫女! エフィヴン!!!」

 名を吐き出した瞬間、彼女の内に渦巻く怒りが火山の噴火のごとく炸裂し、空間全体を覆い尽くした。握り締めた両の拳は爪が掌に食い込み、身体は細かく震えている。抑え込んでいた激情が、もはや狂気の奔流となって溢れ出していた。

「先にあんたを奪うなんて……絶対に許せない!」

 声は震えながらも、そこには狂おしい執念が込められていた。長い時間をかけて織り上げてきた幻想を壊されることなど、到底受け入れられないのだ。

 彼女の胸は激しく上下し、瞳は血走り、まるで追い詰められた獣のように息を荒げる。憎悪と嫉妬と狂熱が入り混じった表情は、その美貌を恐ろしく歪ませていた。

「彼女なんて遊びでしかない! 本当にあんたと一緒になるべきなのは、私よ!」

 その言葉には微塵の迷いもなく、まるで絶対の真理を告げるかのような確信が宿っていた。


 頭の中がどんどん混乱していく。

 体内を駆け巡る灼熱は、まるで毒蛇が這い上がるように思考を食い荒らし、血は沸騰して皮膚を焼き尽くさんばかり。欲望は獣の咆哮となって膨れ上がり、胸の内を暴れ回っていた。

 ――くそっ……この女……俺に何をした!?

 冷酷な考えが稲妻のように脳裏を閃く。あの一杯の水だ。

 必死に意識を繋ぎ止めようとするが、燃え盛る熱はもはや抑えきれない。視界は霞み、だが目の前の彼女だけは異様に鮮明に浮かび上がり、ゆっくりと、だが確実にこちらへと迫ってくる。その瞳には狂気が宿りながらも、抗い難い執念が揺らめいていた。

 ようやく悟る。――俺はすでに、彼女が仕組んだ罠に堕ちてしまったのだと。

「……効いているようね」

 囁くような柔らかい声が、わずかな得意げを含んで耳元に響いた。

 彼女が歩み寄るその瞬間、時が凍りついたかのように思えた。脳裏は真っ白に塗り潰され、思考は剥ぎ取られ、代わりに満ちていくのは灼熱の渇望。胸の奥底から火山のように噴き上がり、瞬く間に全身を駆け巡り、理性を焼き尽くしていく。

 不意に膝が砕け、力を失った身体は一歩退き、辛うじてベッドの縁に腰を落とす。背後の硬い木の感触など、微かな不快さでは意識を引き戻せない。

 視界は歪み、周囲の景色はぼやけ、あたかも不要なものすべてが覆い隠されていく。焦点はただ一つ、彼女の姿だけに狭められ、目は自然と胸元の起伏へと吸い寄せられていた。

 純粋な欲望がすべてを支配する。混じり気のない、原始的で、恐ろしいほどの衝動。そこに抵抗はなく、生得の本能のように、残されたわずかな理性を容赦なく呑み込んでいく。

 そして感情が頂点に達した瞬間――記憶はぷつりと途切れ、切れたフィルムのように闇へと沈んだ。

 次に訪れたのは、真っ白な虚無だけだった。


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