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第四の魔女:消えた痕跡  作者: Test No. 55
第3卷上 - 逃亡編
91/123

6.命の恩人(1)

挿絵(By みてみん)

 救命恩人


 どれほど時間が経ったのか分からない。私の意識は、水面に漂う枯葉のように彷徨い続け、ついに何かの力に押し戻されるように現実へと浮上した。

 重いまぶたをこじ開ける。瞼はまるで山の重みを負っているかのようにずしりと重い。視界に入ったのは、天井に広がる純白の壁。装飾は一切なく、ただ柔らかな灯りだけがそこに落ちていた。

 激しい頭痛に、思わず眉根が寄る。錆びた釘が頭蓋に深く打ち込まれているかのようだ。喉は火に焼かれたように乾き、唾を飲み込むたびに鈍い痛みが走る。

 こめかみを押さえようと手を上げかけたが、全身が重い枷で縛り付けられているかのように、まったく動かない。

 正確に言えば、首から下がきつく巻かれ、手足は大の字に固定されている感覚がはっきりとあった。身じろぎすらできない。

 視線を落とす。清潔な白い掛け布団が身体を覆い、傷口が鈍く疼く。だがその痛みは、何かの麻痺に抑え込まれているのか、鋭さが削がれていた。

 周囲を見回す。この部屋は広くない。純白の壁が、異様なほどの清潔さを際立たせ、かえって不安を誘うほどだ。

 中にあるのは私が横たわるこのベッドと、壁際の小さな机だけ。出入口の正面には窓があり、外には日差しどころか光の気配すらない。今は真夜中らしい。

 私は眉をひそめた。――ここは、いったいどこだ?


 記憶が少しずつ押し寄せ、断片が曖昧な像を結び始める。デュークの城に辿り着く前、連日の逃亡で心身は限界に達し、路傍に倒れ伏して意識を失った――微かに目を覚ました時、女性の声を聞いた気がする。だが、それ以外は何も覚えていない。

 だが今の私は、微塵の安心も感じられない。あるのは不安と困惑のみ。とにかく家に戻らねば。ここを出なくては――しかし現実は残酷だ。私は指先すら動かせない。

 しばし天井を見つめ、外の物音を探る。だが部屋の外は息苦しいほど静まり返り、まるでこの世に私ひとりしかいないかのようだ。耐え切れず、声を張り上げた。

「誰か!」

 掠れ切った声は、古いふいごのようにひび割れていたが、沈黙を破るには充分だった。

「ここは……どこだ!」

「水が欲しい!」


 ほどなくして、外からドンドンと足音が近づく。せかせかとした、慌ただしいリズム。足音は扉の前で止まり、深く息を吸う気配――気持ちを整えているのだろう。

 しばしの後、扉が静かに開き、ゆったりした寝間着の女性が入ってきた。

「目が覚めたのね?」

 彼女は言いながら歩み寄り、灰がかった赤の前髪をかき上げる。だが乱れた髪の跳ねは収まらず、寝起きであることを隠しきれない。

 長い前髪は顔の大半を覆い、覗く肌は蒼白い。物語に出てくる陰のある脇役を思わせるが、評価する余裕などない。

 寝間着はゆるく、袖口は無造作に捲られ、細い腕と浮き立つ鎖骨が灯りに照らされて白く浮かぶ。私は気まずさに視線を外した。――助けてくれた人なのだ、余計な視線は慎むべきだ。

「あなたは……誰……?」

 掠れた声で問う。溢れる問いは山ほどあるのに、口をついたのはそれだけだった。

 彼女は答えず、人差し指を私の唇にそっと当てて制し、水を含ませた綿で乾いた唇を潤す。ひたりと触れた滴の感触が懐かしく、思わず胸が詰まる。

 彼女は枕をそっと背に差し込み、上体を起こしてくれる。掛け布団が腰までずり落ち、その時になって気づく。私は全身を幾重もの包帯で巻かれ、ほとんど木乃伊のようだ。

「まずは、少し口にして。」

 彼女は低く囁きながら、机のそばから湯気を立てる澄んだスープを手に取った。

 その動作はゆっくりとしているが、根気と気遣いに満ちていた。

 彼女は匙で少量をすくい、そっと息を吹きかけて冷ますと、私の口元へと差し出す。

 私は身動きできず、拒むこともできない。ただ彼女の手に委ね、口に含むしかなかった。

 温かくなめらかな液体が喉の渇きを癒やし、全身がゆっくりと目を覚ましていくようだった。

 ひと口、またひと口と澄んだスープを飲み下すうちに、先ほどまでの疲労や強ばりは少しずつほどけていき、身体の内側の空虚感が静かに埋められていく。

 だが、飲み込むたびに、長らく忘れていた飢えが呼び覚まされた。

 それは目覚めた獣のように激しくうねり、切実に身体の欲求を訴えかけてきた。


 一椀のスープは、彼女の細やかな世話であっという間に空になった。彼女は碗を置き、乾いた布で口元の滴を拭う。手つきは優しく、慣れている。

 私は彼女を見つめ、胸中に問いが洪水のように溢れる。だが口が先に動いた。

「……ありがとう」

 彼女は微笑む。長い前髪の陰で、口元がわずかに弧を描いた。

「無事でよかった」

 そう言って、碗と匙を片づける。

「あなたが助けてくれたの?」

 彼女は小さく頷き、言葉少なに碗を机へ戻した。

「この恩は……必ず返す」

 一拍おいて、私は息を吸い込む。

「すぐに、ここを出ないと――」

 言い終える前に、彼女の指が再び私の唇に触れた。抗えない柔らかさと温もり。彼女は小さく首を振り、視線で黙れと告げる。

「今いちばん大事なのは、休むこと」

 私は顔を背け、触れられるのを避けるように歯の隙間から絞り出す。

「でも、時間がない。私は――」

 言葉の途中、身体の奥から重たい倦怠が湧き上がる。ぶ厚い毛布で押さえつけられるように、四肢から力が抜けていく。いつの間にか頭痛は消え、抗いがたい眠気だけが残った。

「もう少し眠ったほうがいいわ」

 彼女は低く囁く。その声は子守歌のように柔らかく、私を再び横たえ、掛け布団をかけ直す所作に合わせて、意識はふたたび遠のいていく。

 まぶたは鉛のように重く、視界は霞み、疑念も緊張も霧の底へ沈む。抗おうとしても身体は言うことをきかず、彼女の声に導かれるように、私はまた静かな闇へ落ちていった。



 濃墨のような暗闇が周囲を呑み込み、長い時間が過ぎた気がする。目はまだ開かない。

 喉を鋭い痛みがひっかき、思わず咳き込んだ。

「ゴホッ……ゴホッ……」

 右手が無意識に口元を覆う。咳は収まり、意識が澄んでくる。痛みは先ほどのような鋭さではなく、働き詰めの後に来る鈍い疲労に近い。

 腕を持ち上げる。切り傷はいくつも瘡蓋を作り、癒え始めている。

 予想よりずっと早い。

 掛け布団をめくると、冷たい空気が肌を刺し、私は固まった――全身、何も身につけていない。

「……ということは、気絶している間に包帯を巻き、そして外してくれたのも、あの人……?」

 途端に気まずさがこみ上げ、頬が熱くなる。だが頭を振って雑念を追い払う。

 身の傷を点検する。大小さまざまな傷は見事に処置され、回復は驚くほど順調だ。相手の手際は洗練されていて、思わず感嘆する。

 部屋を見回す。白一色の空間は薄暗く、机の上の一本の蝋燭だけが頼りない光を投げている。衣類は見当たらず、人の気配もない。飾り立てた家具もほとんどない。

 喉の渇きが疼き、ベッド脇のコップに視線が吸い寄せられる。手に取り、一気に喉へ流し込む。

「ゴク、ゴク――」

 わずかに冷たい水が、荒れた喉をなだめる。コップを置き、ベッドの縁に腰をかけて伸びをする。強張った肩を回すと、関節の痛みが少しずつほぐれた。

「もう大方、回復した……マルキス城へ戻らないと」

 小さく呟き、今後の行動を思案する。

 だが、突然の足音が思考を断ち切った。トン、トン、トン――階段からだろうか、規則正しく、落ち着いた響き。


 私は息を殺し、扉を凝視する。足音は目の前で止まり、短い静寂。

「カチッ」小さな音。蝋燭の灯りが、より眩い照明に置き換わる。思わず瞬きをしたその時、扉が静かに開き、人物が姿を現した。

 その姿を認めた瞬間、心臓がひとつ跳ねた。

 彼女は軽やかに歩み出る。動作は優雅で、落ち着いている。

 純白のナース服はすらりとした肢体に沿い、線を繊細に際立たせていた。膝丈よりやや短い裾からまっすぐな脚が伸び、白いハイソックスが肌を包む。その造形は彫像のように端正だ。

 襟元はわずかに開き、鎖骨の下に落ちる影がちらりと見える。胸元の赤い十字は白の中でひときわ鮮烈で、視線を吸い寄せる。

 顔に浮かぶ表情が、何より目を引いた。小さなナースキャップは斜めに被られ、耳許にこぼれた幾筋かの髪が歩みに合わせて揺れる。

 深い焦茶の瞳は湖面のように澄み、どこか愉悦めいた色を宿す――まるで自分が仕掛けた舞台を鑑賞している観客の目。唇の端に浮かぶ曖昧な微笑は、痛みを慰撫するようでもあり、秘密を隠しているようでもあった。

 ――この光景、見覚えがある。昔読んだ、古い春画めいた本の挿絵じゃないか!?


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