6.家に帰る
回家
夕陽の残光が路地の入口に淡い橙色を落とし、ラフィルの姿はその光と影に溶け込むように歩を進めていた。
彼が路地の口まで来ると、そこには見慣れた姿が変わらず待ち続けていた。
恐狼の「兄貴」はまるで銅像のように、まっすぐな姿勢でその場に座り、まるで門番のように、静かに主の帰りを待っているようだった。
「兄貴……」
ラフィルはその忠実な相棒を静かに呼びかけた。
兄貴はその声に反応してわずかに首を傾けたが、その瞳には少しの困惑が滲んでいた。だが、それでも一切動こうとはしなかった。まるで自分の役目を理解しているかのように、その場を守り続けていた。
ラフィルは眉をひそめ、足早に兄貴のもう一方の側に回り込んだ。
そこには、一人の男が兄貴の厚い毛並みに顔を埋め、まるで安心しきったように眠っている。ラフィルは一目でその人物が誰なのかを悟った。近くに落ちている紳士帽が、その確信を裏付ける。広場で視線を交わしたあの中年の男だった。
「父さん、兄貴にちょっかい出さないで。最近、全然お風呂入ってないんだから。」
ラフィルは呆れながらも注意した。
中年の男は目を擦りながら顔を上げ、まるで夢から目覚めたかのようだった。
「おお、もう終わったのか?兄貴を見たら、ここで待ちたくなってさ。まさか寝ちまうとはな、はははっ!」
その笑い声は快活で、気取ったところはまるでなかった。
この飾り気のない男こそが、ラフィルの父――トムリン。現在の城主であり、ギルドの会長でもある人物だ。
解放された兄貴はすぐさまラフィルの元へ駆け寄り、彼の顔の傷に優しく舌を伸ばした。
トムリンは多くを語らず、ラフィルの肩を軽く叩き、穏やかに言った。
「今日は一緒に帰ろう。」
「……」
「もしかして、今日負けたんじゃないか?」
「そんなことない。あのデブを絞め落としたよ。」
トムリンの顔に誇らしげな笑みが浮かび、豪快に笑い声をあげた。
「よくやった!さすが俺の息子だ!」
「よく言うよ、父さん、戦いなんて全然できないくせに。」
トムリンは肩をすくめ、さらに大きく笑った。
「家に帰って正座で説教されるのはごめんだな。次は……一発も喰らわずに勝ってみたらどうだ?」
「努力するよ……」
ラフィルはぼそっと答え、目がどこか泳いでいた。まるで今日の戦いを思い返しているかのようだった。
ふと、何かを思い出したように彼は話題を変えた。
「そういえば、今日は狩りの成果どうだった?」
トムリンの表情が一瞬で変わった。まるでスイッチが入ったかのように、彼の目は途端にいやらしく光り、口元には意味深な笑みが浮かんだ。
「ふふふ、今日は大漁だったぞ!」
まるで悪戯好きの子供のように得意げに、トムリンは手振りを交えて今日街で見かけた三人のセクシーな女性のことを語り始めた。
「お前には分からんだろうな、あのスタイルの良さ!あのボディライン、ふふっ、目が離せなかったぞ!それに赤いドレスを着た子、あれはもう、まさに天女だな……」
トムリンは話しながら、オーバーなジェスチャーで彼女たちの体のラインをなぞり、まるでその姿が目の前にあるかのように表現してみせた。
ラフィルはまだ若いとはいえ、父親譲りのスケベな性質をしっかりと受け継いでいた。すぐにトムリンのそばに寄り目を輝かせた。
「そんなに美人だったの?それで……胸はでかいのか?」
「もちろんさ!まさに俺の好みだったぞ!」
トムリンは顔をほころばせながら、ますます話に熱が入っていく。
「マジか!それなら、今度は俺も見に行ってみようかな!」
ラフィルの瞳には興味と興奮が隠しきれず、父親と同じく「巨乳好き」という趣味を露骨に共有していた。
夕方の風が次第に冷たくなり、秋の夜の訪れがわずかな寒さを運んできた。
父と子は肩を並べて、家へと続く大通りを歩いていた。道端ではまだ子供たちが元気に遊んでおり、笑い声があちらこちらで響いていた。
ある母親が何度も呼びかけたが、子供たちは遊びに夢中で帰ろうとしなかった。
痺れを切らした母親は、ついに箒を手に怒鳴りながら飛び出してきた。
「帰ってこないなら、今夜は魔女に売り飛ばすからね!もう二度と帰ってこれないよ!」
この脅し文句は、マルケス城の子供たちにとってはもはや聞き慣れたものだった。
「魔女メクロ」の話は、この町で知らぬ者のいない寓話であり、親たちが子供をしつける際の定番の台詞だった。
そのとき、トムリンの落ち着いた声が静かに響いた。
「お前に母さんの話をしたこと、覚えてるか?」
ラフィルは小さくうなずくだけで、何も言わなかった。
トムリンは前方を見つめながら、話を続けた。
「彼女は、とても輝いていた。善人とは言えないかもしれないが、決してあんなことをするような人じゃなかった。
お前の性格からして、いつかはきっと彼女のことを知りたいと思うようになるだろう。大人になったら、自分の足で彼女の足跡を辿ってみなさい。」
ラフィルは上着の内側から、ずっと隠していたネックレスを取り出した。
一見して目立たないその飾りは、細長くシンプルな金属製で、年月を感じさせるわずかな傷が見えた。
彼はその表面をそっと指先でなぞった。壊れてしまわないように、そして触れることで記憶を呼び起こすような、どこか慈しむような仕草だった。
このネックレスこそが、メクロが彼に残した遺品であり、ラフィルと母親とをつなぐ唯一の絆だった。
彼の目には幼さが一瞬よぎり、真剣な面持ちでうなずいた。それは、何か大切な約束を心に刻んだような表情だった。
「……でもな」
トムリンの声色がふいに厳しくなった。
「いくら継母のことが気に入らなくても、家に帰ったらまず挨拶だけはしておけよ。わかったな?」
ラフィルはその言葉に目を逸らし、聞こえなかったふりをしたまま、少しだけ足早になって歩き出した。
この少し古びた木造の建物こそが、マルクス城の領主邸である。
外観は質素で控えめ、目立つことはまるでない。
ラフィルは狩人の装備を背負いながら言った。
「休もうぜ。」
兄は大きく伸びをしてから、嬉しそうに庭へと駆け出していった。すぐにケルベロスとのじゃれ合いの声が聞こえ、活気と笑いに満ちていた。
トムリンは玄関の木の扉をそっと押し開けた。その動作も声も、まるで家の静寂を乱すまいとするかのように慎ましかった。
「ただいま。」
家の中はしんと静まり返っており、彼の控えめな声だけが空気に漂った。
眉をひそめたトムリンは、耳を澄ませたが、それでも返事はない。喉の渇きを覚えてつばを飲み込み、つま先立ちで静かにリビングへと向かった。
目に入ったのは、妻・イヴェットの姿だった。
彼女は下を向きながら、布で武士刀を丁寧に磨いていた。
その刃は、薄暗い灯りの中でかすかな冷たい光を放っていた。
顔を上げたイヴェットは、言葉を発しかけた瞬間、後ろにいるラフィルの姿に気づいて言葉を止めた。
一瞬だけ間を置き、彼女は何事もなかったように落ち着いた声で言い直した。
「晩ごはん、できてるわ。さあ、食べましょう。」
ラフィルは頷いたが、それ以上何も言わずに踵を返し、その場を去った。迷いも未練も感じさせない動きだった。
その様子を見たイヴェットの表情がわずかに揺らぎ、彼女は立ち上がって追いかけようとした。
それを見たトムリンが慌てて手を伸ばして制止した。
「ま、待てって、落ち着いて、まず刀を置こう。あとでエリザに呼びに行かせればいいから。」
イヴェットの瞳にかすかな落胆の色が浮かんだが、彼女は静かにため息をつき、再び腰を下ろした。
ラフィルは自分の部屋へと戻り、無言で装備を片付けながら、胸の内では言葉にできない感情が渦巻いていた。
彼は立ち尽くしたまま、窓の外を見つめていた。
さっきリビングでなぜちゃんとイヴェットに挨拶できなかったのか。
父に「少しは歩み寄ってみろ」と言われていたのに……。
そのとき、部屋のドアが勢いよく開かれた。
小さな影が勢いよく飛び込んできて、まるで小動物のようにラフィルに突進してきた。
「おにいちゃん! ごはんだよーっ!」
妹のエリザの声は元気いっぱいで、その勢いのままラフィルを押し倒した。
床に倒れ込んだラフィルの胸の中で、彼女はにこにこと見上げていた。
ラフィルは仕方なさそうに笑って、彼女の頭を優しく撫でた。
「エリザ、最近はいい子にしてたか?」
「うん! 晩ごはん、ママと一緒に作ったんだよ!」
エリザは無邪気に答えると、すばやくラフィルの胸から抜け出し、その手をしっかりと掴んで外へ引っ張ろうとした。
「お腹ぺこぺこだよ! ずーっと待ってたの! はやくはやくーっ!」
ラフィルと後母イヴェットの間には、いまだにわだかまりが残っていた。
それでも、異母妹であるエリザには甘く、どんなお願いも断れなかったのだった。
エリザに手を引かれ、ダイニングへと向かうラフィル。
その足取りは最初こそ重たかったが、少女の明るい笑い声に包まれるうちに、心に溜まっていたわだかまりが少しずつほどけていった。
ラフィルは彼女を見下ろし、無意識に口元がゆるむ。
この小さな存在がいるだけで、家に漂う重たい空気も、心の奥の痛みも、ほんの少し軽くなる気がした。
食卓には、まだわずかな緊張が残っていた。
イヴェットは黙ったまま座っており、時折ラフィルの方をちらりと見る。その視線には、言葉にできないような後悔の色がにじんでいた。
トムリンは、気まずさを払拭しようとするかのように、丁寧に酒を注いでいる。
一方でエリザは、今日あった出来事を一人で楽しげに語り続けていた。
ラフィルもときおり頷いたり、短く返事をしたりしながら、微笑みを浮かべて耳を傾けていた。
「おにいちゃん、明日も一緒に遊んでくれる?」
不意にエリザがそう尋ね、ぱっと輝く瞳でラフィルを見つめた。
ラフィルは少し驚いたように瞬きをし、横目でイヴェットを一瞥する。
その一瞬の迷いのあと、彼は優しく頷いた。
「もちろん。明日は家にいるよ。」
その言葉に、イヴェットの顔がほんの少しだけ動いた。
複雑な感情が一瞬浮かんだが、彼女は何も言わず、静かに食事を続けた。
夜が更けるにつれて、エリザの笑い声が食卓の空気をゆるやかに和らげていった。
食事が終わり、それぞれが自室へ戻るころには、どこか穏やかな余韻が残っていた。
ラフィルは部屋の窓辺に立ち、夜空を見上げていた。
月が静かに浮かび、涼しい夜風が頬をなでていく。
それは一日の疲れと心のざわめきを、ほんの少し連れ去ってくれるようだった。
家庭の問題がすぐに解決するわけではない。
だが、この夜――ラフィルは確かに、久しぶりに「ぬくもり」を感じていた。