17.メガネを買う
買眼鏡
翌日、信じられないほど晴れ渡った空の下、街全体が陽光を浴びてのんびりと伸びをしているかのようだった。
私は待ち合わせ場所――大学都市アカデミー区中央広場の噴水前に立っていた。
噴水の水音は穏やかに響いていたが、その中心部は不自然なほど閑散としていた。
本来そこにあるはずの彫像はすでに姿を消し、空っぽの石台だけが残っていた。まるで、遅れてくる装飾をずっと待っているかのように。
私は暇を持て余して周囲をぼんやり見渡す。行き交う人々の半分以上は大学都市の制服を着ており、学生や職員らしい。
足取りは軽やかだが、話し声はやけに控えめで、広場全体が抑圧された静けさに包まれていた。
この静けさに、私はどうにも落ち着かない気分になった。
私はこういう騒がしさのない通りに慣れていない。喧騒も、人の群れもなく、ただ時おり聞こえる足音だけが空気を切り裂いていた。心の中でこうつぶやく。
――もしフィクソにサプライズを仕掛けるんじゃなかったら、こんなに早くから来るわけないよな。
そう思いながら、私は噴水の縁にある石に体を預けて空を見上げた。雲一つない青空の下、古びた太陽塔が視界に入ってくる。
巨人のようにそびえるその塔は、陽の光を受けて静かに輝いていた。
この伝説の塔には、いつも心を奪われる。立ち入り禁止区域に指定されているとはいえ、見るたびに「てっぺんまで登って景色を見てみたい」と思わずにはいられなかった。
太陽塔の影が陽光を分断し、小さな広場を二つの世界に分けていた。明るくまばゆい光の側と、ひんやりと静かな影の側。
私は影の中でその涼しさを感じていたが、陽の光が降り注ぐ向こう側の温もりもどこか懐かしかった。
その温度差の中、時間の流れがゆっくりと引き延ばされていくようだった。
遠くから、石畳を踏みしめる小走りの足音が響いてきた。
まだ姿が見えないうちに、誰なのか分かってしまった。
案の定、フィクソが手を振りながら駆け寄ってきた。灰青色のショートヘアが風に舞い、笑顔は陽光以上にまぶしかった。
彼女は私の前に立ち止まり、少し息を切らしながら乱れた髪を整え、シワの寄ったワンピースを手で軽く叩いて整えた。
身支度を終えると、パッと明るい笑顔を見せ、さっきまでの慌てぶりをなかったことにしようとしているようだった。
私は陰に立ち、陽の光の中にいる彼女を見つめた。
その光に包まれた姿に、思わず言葉を失ってしまった。まるで彼女自身が光の中に溶け込んでいるようだった。
「オットーくん、長く待たせちゃった?」
「……」
「また、ボーっとしてたでしょ?」
彼女は眉をひそめ、どこかおかしそうな表情で言った。
我に返った私は、返事をするのに少し間を置いてから答えた。
「うん……けっこう待ったかな。」
気のない返事に、少し投げやりな響きが混じっていた。
「こういう時は、『今来たところ』って言うのが礼儀よ。」
彼女は真面目な顔でたしなめた。
私は肩をすくめて言い返す。
「俺、正直だから、そういう嘘つけないんだよ。」
「ふふ、まだまだ勉強が必要ね。」
「俺が君に付き合ってもらってるのは買い物のためであって、説教されるためじゃない。」
私は彼女を睨むふりをしたが、自然と口元が緩んだ。
「はいはい、行きましょうか。」
彼女はにっこり笑い、陰の中へと一歩踏み出し、私の隣に並んだ。
光と影が交差する中、私たちの並んだ影が地面に伸びていた。
広場を離れた私たちは、まずブランチの店に向かった。
やや高級感のあるそのカフェは、洗練された内装で、陽光が大きな窓から差し込み、木の床や大理石のテーブルを輝かせていた。
店内では、客たちの声は控えめで、時折食器が当たる澄んだ音が聞こえるだけ。空間全体に落ち着いた緊張感が漂っていた。
フィクソは明らかに居心地が悪そうだった。席に着くのも恐る恐る、メニューを受け取ってからも落ち着かない様子であたりを見回していた。
そしてメニューの価格を目にした瞬間、彼女の表情はさらに硬直した。今にも席を立って逃げ出しそうなほどだった。
彼女はメニューを置き、私に向けて「本気でこんな店に入る気だったの?」という目で訴えてきた。
私は予想していたので、椅子に深くもたれかかりながら、腕を組んで堂々とこう言った。
「今日は全部俺のおごり。君は意見を出すだけでいい。」
彼女は一瞬驚いたような顔をした後、ようやく安心した様子でメニューを取り直した。
とはいえ、彼女が頼んだのは最もシンプルなパンのセットで、私にあまり負担をかけまいとしているのが明らかだった。
だが、そんなこともあろうかと、私は豪快に「特盛りセット」を注文した。
間もなく、店員が「豪華ブランチ」を運んできた。
巨大なプレートに山盛りの料理――ジューシーなハンバーガー、カリカリのフライドポテト、ふわふわのパン、シャキシャキのサラダ、香ばしいオムレツが並んでいた。そのボリュームにテーブルがほんの少し揺れたほどだ。
「これ全部食べきれるの?」
フィクソは目を丸くしてプレートを見つめた。
「無理に決まってるでしょ。」
私は気軽に答え、彼女の前の皿に料理を少しずつ移していった。
「だから、ここは君の担当ね。」
彼女は「またか……」という顔をしながらも、黙って皿を受け取った。まるで私のいつもの手口をよく知っているかのようだった。
食事を終えたあと、私はフィクソと一緒に大学都市の通りを歩いていた。
昼の陽射しは相変わらず明るく、道行く人の姿も増えてきた。
朝よりも少し活気づいていたが、決して騒がしくはなかった。
私たちは石畳の道をゆっくりと歩き、時折、風に揺れる木の葉の音が耳に届く。
そののんびりとした雰囲気に、なんとなく言葉を交わす気も起きなかった。
だが、その静けさを破ったのはフィクソだった。
「ありがとう。」
声は小さかったが、はっきりと聞こえた。
私は顔を横に向け、わざと聞き取れなかったふりをして言った。
「ん?」
彼女は一瞬ためらい、手を軽く振って言った。
「……やっぱり、なんでもない。」
「お礼はちゃんと言わなきゃ。そんなにごまかすのは誠意がないよ。」
彼女の頬がほんのり赤く染まり、口を開いたが、最後まで言葉にならず、曖昧に小声でつぶやいた。
「えっと……わたし……」
その様子があまりに不器用で、私はつい笑ってしまい、軽やかに言った。
「冗談だよ。そんなに真面目にならなくていいって。」
「ちょっと!」
彼女は私をにらんだ。怒っているようで、どこかあきれたようでもあった。
「大丈夫、もっと貯めてから、まとめて請求するつもりだから。」
私は両手をポケットに入れ、口元に得意げな笑みを浮かべながら、あえて真面目な口調で言った。
彼女は一瞬きょとんとしたあと、ふっと鼻で笑い、小さくそっぽを向いた。
だが、その口元にはかすかに笑みが浮かんでいた。
「ほんとに、あなたってムカつく!」
私は肩をすくめ、何も返さなかった。
だが、心の中は不思議と軽やかだった。
今日のショッピングは、学園地区を選んだ。
このエリアの通りは整然としていて、商店が立ち並び、どこもかしこも計画と秩序を感じさせる。
市場のような喧騒もなければ、屋台の雑多な雰囲気もない。
ここを歩いていると、ガラス張りのショーウィンドウと、その奥からこちらを見つめる店員の視線に、なんだか圧迫されているような気分になる。
私はフィクソと一緒に広い通りをぶらぶらと歩いていたが、すぐに飽きてしまい、適当に指をさして彼女を目立たない路地裏へと誘った。
その路地は思ったよりもずっと清潔だった。
狭い道にはゴミひとつ落ちておらず、壁のレンガもまるで拭きたてのように整っていた。
学園地区の秩序は、こんな人目につかない場所にまで及んでいるようだった。
私たちはしばらくその路地を歩き続けた。
周囲はどんどん静かになり、聞こえるのは自分たちの足音だけ。
その反響が壁に当たって、小さな空間に響き渡っていた。
やがて、フィクソが先に沈黙を破った。
「どこに行くの?」
「ひみつ。」
「変なところに連れて行ったら、許さないからね。」
眉をひそめた彼女の声には、少し警戒心がにじんでいた。
私は肩をすくめ、だるそうに言い返す。
「なら、ついてこなきゃいいじゃん。」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、鋭い視線が私に突き刺さるのを感じた。
立ち止まって振り返ると、彼女はすでに歩み寄ってきていて、私の腕にしっかりと絡みついていた。
「……誰もいなくて、ちょっと怖い。」
声はとても小さく、まるで自分の不安を認めたくないかのようだった。
けれど、その行動が彼女の気持ちをはっきりと伝えていた。
彼女は私の腕に手を絡めた。動きはややぎこちなかったが、指先はしっかりと袖口をつかんでいた。
その触れた感覚に、私は一瞬動きを止めてしまった。頭の中に、思わず余計な考えがよぎる。
――触り心地は……まあ、予想通りって感じか。
自分の思考が変な方向に向かっているのに気づき、慌てて頭を振って雑念を振り払い、深呼吸して真面目な声で言った。
「あと二つ角を曲がれば着くよ。」
彼女は何も言わず、少し俯いたまま私の歩調に合わせて歩き出し、静かにうなずいた。
路地の静けさが、かえって二人の空気を際立たせていた。
彼女の指が時折ぎゅっと強くなるのがわかる。それはまるで、自分に勇気を与えようとしているようだった。
私は少しだけ歩く速度を緩め、彼女が遅れずについてこれるように、さりげなく顔を向けて確認した。
たったこれだけの道のりが、彼女と一緒だと不思議と重みを持ったような気がした。
言った通りに角を二つ曲がると、私たちはある目立たない小さな建物の前にたどり着いた。
それはごく普通の二階建ての家で、外壁は少し剥がれかけており、看板もなく、店らしさはまったく感じられなかった。ただの住宅にしか見えない。
「着いたよ。」
私はその家を指差して言った。
「ここ……どこ?」
フィクソは戸惑いながら周囲を見渡し、眉をひそめて尋ねた。まるで「道を間違えたのでは」と疑っているようだった。
「中に入ればわかるさ。」
私は少し得意げにそう言い、軽く扉をノックしてから中へ入った。
中に入るなり、私は大きな声で呼びかけた。
「おっちゃーん!」
中から明るい声が返ってきた。
「おお、小僧か。おやおや、今日は彼女連れかい?」
「だから違うって言ってるだろ……彼女じゃない。」
私は少し呆れたように返した。
そこは昔ながらの眼鏡店だった。
店内は整然としており、棚にはさまざまなフレームやレンズが並び、カウンターの奥には古いがきちんと整備された製作機器がいくつか置かれていた。
カウンターの向こう側には、一人の元気そうな老人が座っていた。職人用のエプロンを着け、顔いっぱいにひげをたくわえている。
彼は顔を上げて、私たちに声をかけてきた。
「やあ、こんにちは、お嬢ちゃん。」
「こんにちは。」
フィクソは丁寧に挨拶を返したが、目にはまだ戸惑いの色が浮かんでいた。
老人は彼女を見て、にっこりと朗らかに笑った。
「眼鏡を見てもらいに来たのは、君だろう?」
「……眼鏡?」
フィクソは驚いたようにこちらを振り向き、まるで「どういうこと?」とでも言いたげな表情で私を見つめた。
私はすぐに老人の言葉をさえぎるように言った。
「店長、俺、最初に言ったよね?『ついでに眼鏡も見てもらいたい』って。」
「おお、そうだった、そうだった!すっかり忘れてたよ!」
老人は豪快に笑いながら手を振り、そのままフィクソに向き直った。
「せっかくだし、眼鏡もついでに見せてくれないかい?」
フィクソはじろりと私をにらんだ。唇をきゅっと引き結んでいて、急な予定に明らかに不満そうだった。
それでも彼女は礼儀正しく、眼鏡を外して老人に差し出した。
「お願いします。」
店長はフィクソの眼鏡を丁寧に手に取り、表から裏から、何度もじっくり観察したあと、真剣な表情で顔を上げて言った。
「このレンズは交換しなきゃダメだね。もうヒビが入ってる。」
「……わかってます。でも……」
フィクソの声は蚊の鳴くようなか細さで、言いかけた言葉は途中で止まった。
私は彼女の気持ちを理解していた。
レンズを交換するだけでも、相当な出費になる。ましてや、貧乏な留学生の彼女にとってはなおさらだ。
店主は彼女を一瞥し、それから私の方をちらりと見て、にこやかに言った。
「そっちの坊やには前に世話になってね。だから今回は、レンズの交換はタダでいいよ。」
「ヘルプ……?」
彼女は不思議そうな顔で私の方を見た。
私は特に説明もせず、ただ肩をすくめて話題を流した。
「じゃあ、二人ともそこで少し待ってて。すぐに終わるからさ。
ついでにフレームも新しくするなら、安くしとくよ?」
店主は胸をポンと叩いてそう約束した。
「レンズの交換だけで大丈夫です。ありがとうございます。」
フィクソは小声でそう言い、私と一緒に店の隅にある木の小さな椅子に腰を下ろした。
店主は眼鏡を受け取ると、自分の丸眼鏡をくいっと押し上げて、じっとレンズを調べ始めた。
彼が作業に集中し始めると、店内は静寂に包まれた。
聞こえるのは、時おり機械が発するかすかな音と、フィクソがそっとついたため息だけ。
彼女はうつむいたまま黙り込み、スカートの裾をぎゅっと握っていた。
何か考え込んでいるようだった。
私はふと笑ってしまった。
どうしようもないけど素直なその姿が、どこか可愛らしく見えたのだ。
しばらくして、機械の音が止まり、店主が立ち上がって手を振った。
「できたよ、お嬢ちゃん。ちょっと見てごらん。」
フィクソは立ち上がり、カウンターへと歩いて行って、店主から眼鏡を受け取った。
フレームこそ変わっていなかったが、新しいレンズは透き通って輝いていた。
彼女は眼鏡をかけて、左右に首を振りながら店内をじっと見回した。
まるで、この店を初めて見るかのような、新鮮なまなざしだった。
「よく見えるかい?」
「はい、とてもはっきり見えます。ありがとうございます。」
フィクソは店主に向かって、深く、まるで直角に近いお辞儀をした。感謝の気持ちがその仕草からあふれていた。
店主は手をひらひらと振り、にこやかに笑った。
「感謝するなら、そこの彼氏にしなさいな!」
「か、彼し……」
フィクソは顔を上げかけた瞬間、頬がぱっと赤く染まり、言葉が喉に詰まって出てこなかった。
「だから彼女じゃないってば!」
私は慌てて割り込んで否定したが、その声には少し照れとあきらめが混ざっていた。
店主の大笑いが小さな店内に響き、なんとなく漂っていた微妙な空気を一掃した。
私たちは店を出て、来た道を戻り、大通りへと向かった。
通りに出るまで、フィクソはずっと私の腕に手を添えたままだった。
人通りの多い大通りに戻ると、ようやく彼女はそっと手を離した。
頬はまだほんのり赤く、ちらりと私を見上げてはすぐに目をそらす。その仕草から、どう気持ちを表せばいいのかわからない様子が伝わってきた。
「どうした?」
「……なんでもない。」
声は蚊の鳴くように小さく、頬の赤みがさらに濃くなったようだった。
「お返し、どうしようかって考えてる?」
私がからかうように言うと、彼女はすぐに眉をひそめ、不機嫌そうな声で言い返した。
「なんでそうやって空気壊すの?」
「じゃあ、その眼鏡返して。」
私は冗談めかして手を差し出し、まるで取り立てでもするかのような仕草を見せた。
彼女は口を開いたものの言葉が出てこず、私をにらみつけた。
私は意地悪く笑いながら、さらに続けた。
「じゃあ……」
わざとらしく彼女の全身を上から下まで見回した。
彼女は一瞬で緊張し、胸元――全然強調されていないにもかかわらず――を両腕で隠し、猫のしっぽを踏んだように大声で叫んだ。
「エッチは禁止!」
幸い、近くに人はいなかったが、いたら絶対に注目を浴びていたに違いない。
私は慌てて手を振って彼女に小声で言った。
「冗談だって!そんなに本気にするなよ。」
彼女はぷくっと頬を膨らませて、今にも飛びかかってきそうな猫のような目で私をにらんできた。
私は慌ててフォローの言葉を加えた。
「ほら、これは“投資”ってやつさ。」
「投資?」
フィクソは眉を上げ、やや警戒しつつも不思議そうな表情で私を見た。
「そうそう。君みたいに優秀な学生なら、将来は大学都市の先生や教授、もしかしたら学長になってるかもしれないし。」
私は冗談っぽく、わざと少し大げさに言った。
「じゃあ、今のは賄賂ってこと?」
「うん、将来もし卒業できなかったら、君に助けてもらうしかないからね。」
その言葉を聞いたフィクソは、思わず吹き出して笑い出した。肩を震わせながら、楽しそうに笑う。
「それ、何年先の話よ!」
彼女の笑顔につられて、私もつい笑ってしまった。
「いつか、本当に君の助けが必要になるかもしれない。」
「また何か悪いことでも企んでるの?」
「まだやってないよ。」
「“まだ”ってどういう意味よ?」
そう言いながら、彼女はすっと近づいてきて、突然私の頬をつまんで左右に引っ張った。
「もし僕が世界中の人に見捨てられても……君はそばにいてくれる?」
その瞬間、彼女の手が空中で止まり、まるで固まったように動きを止めた。
彼女の視線がしばらく私の顔に留まり、そして小さく息をついて言った。
「その前に、バカなことしようとしてたら止めるから。」
そう言って、彼女は突然一歩前に出て、両腕を広げて私を抱きしめた。
その不意打ちのような動きに私は一瞬固まったが、同時に彼女の小さな体から伝わる温もりと安心感を感じた。
私は思わず、あるいは癖のように、そっと彼女の背中をぽんぽんと優しく叩いた。
彼女は抱きしめた腕をほどいて一歩下がり、少し呆れたような顔で私を見上げた。
「……なに?」
「背中、叩いたでしょ?」
「背中?」
私は反射的に聞き返したが、まだ彼女の意図を理解できていなかった。
「……私のこと、ペットかなんかだと思ってるの?」
彼女の目には困惑が浮かび、それと同時に少し怒ったような光も宿っていた。
「ペット?なんで?」
私はぽかんとしたまま、まったく彼女のロジックについていけず、首を傾げた。
すると彼女は苛立ったように足をドンと踏み鳴らし、顔を真っ赤にしながら歯を食いしばって言った。
「はぁ〜っ、もうムカつく!帰る!バイバイ!」
そう叫ぶと、ぷいっと背を向けて早足で去っていった。いつもの倍くらいのスピードだった。
私はその背中を呆然と見送るしかなかった。
――一体、どこで間違えたんだ?
頭の中で状況を巻き戻していくうちに、ふと思い当たる。
あの“背中をぽんぽんする”動作。
自分にとっては兄貴やイリーザともよくやる、ごく自然な習慣。
特に意味があるわけじゃない。でも……フィクソにとっては、きっとそうじゃなかった。
私はその場に立ち尽くし、彼女の姿が通りの向こうに小さくなっていくのを見つめながら、じわじわと反省の念がこみ上げてきた。
「今日の教訓――抱きしめてるときに、背中を軽く叩いちゃダメ。」




